怜南は里津の話が信じられなかった。

 誰とも話さなくなったというのは今の里津からは想像ができないし、もし本当なら、自分に対してあのようなことを言うはずがないと思った。

『嘘、ですよね』

 里津のスマートフォンにメッセージが届く。

「……君を説得するために、わざわざこんな話を作り上げるとでも?」

 里津はどこか不機嫌そうに見えた。

 怜南は首を左右に振る。だが、里津が怖くてそうしただけであって、まだ信じることはできていなかった。

『誰とも話さなくなったっていうのは、本当なんですか?』

 その質問は、まだ疑っていると言っているようなものだった。

 だが、里津自身、今の自分からそんな過去が想像できないと思うのも無理ないとわかっていた。

「……本当だよ」

 里津は目を伏せて話し始める。

「自分の殻に閉じこもって、家でもほとんど話さなくなった」

 さっきまでとは少し表情が違った。里津が雪とのことで話を終わらせたのは、その後の自分のことを一番思い出したくなかったからだった。

「そんな私を変だと思った兄が、また声をかけてくれたの。どうしたんだって。それで、全部話した。中学で仲がいい子ができたけど、私が余計なことを言って傷付けて、これ以上誰も傷付けたくないから、一人でいるって。そしたら、兄はこう言った」

『里津は人が好きなんだな。だから人と話したいし、仲良くなりたいし、嘘をつきたくない。本当、里津はいい子だ。でも、だからこそ俺は、里津には自分を嫌いだと思ってほしくないし、ありのままでいてほしい。相手を大切に思うことは大事だけど、それで里津が自分を殺さなきゃいけないってのは、おかしいと思う』

「……兄は本当、自分が自分であることに自信がある人で、周りに流されることなんて滅多にない。そんな兄だから、そういう風に言ってくれたんだと思う」

 里津はそこまで言うと、のどが渇き、お茶を飲む。

「でも私は、兄ほど強くなかった。やっぱり自分のせいで誰かを傷付けるくらいなら、一人でいるほうがよかった。でも、だんだんそうしてる自分を嫌いになった。まさに兄が恐れてた状況になったの。やっぱり兄妹だなって思うんだけど、私は自分のことを嫌いになるくらいなら、周りの人なんて気にするのをやめようって思った」

 少しずつ、怜南が知っている里津に近付いていく。ここまで聞いて、やっと里津の話が真実だと思えるようになってきた。

「とにかく自分を守りたかった。あのとき自分が傷付いたのは、必要以上に仲良くなったからだってわかって、それ以来は仲がいい人は作らないようにしてる」

 里津の話はそこで終わった。

 すべてを聞いて、やっと腑に落ちた。だが、一つ気になることがあった。

『つまり、自分が傷付かないなら、相手も傷付けてもいいと?』
「……今の話ならそうなる、か……大丈夫、和真が言ってたことが正しいってちゃんとわかってるし、私これでも大人だし。子供みたいに馬鹿正直に全部言って相手を傷付けないようにすることはできるよ」

 里津は言い切るが、怜南は納得できなかった。

『私に言ったこと、忘れてませんか』

 傷ついたと言えば大げさだが、怜南にとってはそれくらいのことだった。

「君に?……ああ、昨日はたしかにちょっと言い過ぎたかなって思ったけど、今ので傷付いたってのはおかしいでしょ。私は、甘やかされて育ってきた君に、喝を入れただけ」

 物は言いようだと思ったが、それを里津に伝えはしなかった。自分が甘やかされてきたのは事実であり、過去と向き合ってこなかったのも間違いない。自覚はしているが、それでも過去と向き合うことはまだ怖く、勇気が出てこなかった。

 だけど、自分のことを嫌いにならないように、という言葉は怜南の心に響いた。

 今の平和な日常が好きだ。変わってしまうのも、失うのも嫌だ。だが、周りに甘えている今の自分のことは好きだろうか。このままでいいのだろうか。

 怜南は自分に問いかける。

『少しずつで、いいんですよね』

 怜南は、今の自分を好きだとは思えなかった。自分が好きな自分になりたいと、変わりたいと思った。

 怜南が送ってきた文を見て、里津は笑った。

「もちろん。私も、そこまで鬼じゃない。そうだな……一番簡単にできるのは、声を出すことじゃない? 私は医者じゃないから、詳しいことはわからないけど、もともと声が出せなかったわけじゃないなら、出ると思う。声が出ないと思い込んでスマホを使うのと、挑戦してみてまだ出ないからスマホを使うのとは、全然違うんじゃないかな」

 里津が答えると、怜南はスマートフォンの画面を下に向けて置いた。

 十年以上声を出してこなかったから、声の出し方など忘れたに近い。それでも、このままではいつまで経っても変われないと自分に言い聞かせ、口を開く。

「……あ……」

 それは怜南が出したかった音にはならなかった。

 里津は静かに怜南の言葉を待つ。しかし真顔でいては、急かしていると勘違いされると思い、柔らかく笑う。

「が……ん、ばり……ます……」

 それはぎこちなかった。だが、怜南が必死に伝えた言葉に、里津は満足そうにした。

「それでいい」

 怜南を褒めようとしているのだとすれば、あまりにも不器用すぎる。だが、怜南は頬をほころばせた。

 すると、怜南のスマートフォンにメッセージが届いた。

『まだ外? ちゃんと帰れるか?』

 稜からだった。

 里津は怜南のスマートフォンを取り上げる。代わりに、怜南の空いた手に一口チョコを置いた。

「うわ、過保護。こういうところが怜南ちゃんをダメにしてるって思わないのかな。やっぱり今の怜南ちゃんになったのは、怜南ちゃんだけのせいじゃないんだよね」

 そう言いながら、文章を打っている。怜南は渡されたチョコを食べながら、スマートフォンが戻ってくるのを待つ。

「はい、返す」

 里津は、怜南になりすまして返信していた。怜南は里津が送った文章を読む。

『私、子供じゃないよ。心配しなくても大丈夫』

 里津を見ると、知らん顔をしてお茶を飲んでいる。だが、これは今後のためには必要なことだったため、文句はなかった。

「あ、そうだ」

 里津はいたずらを思いついた子供のような、悪い顔をした。

「葉宮君にドッキリを仕掛けよう」

 怜南は首を傾げて里津の作戦を聞く。それは、とてもくだらない内容だったが、稜の心臓に悪いことだった。