里津の家は、マンションだった。エレベーターで五階まで上がると、怜南は里津に置いて行かれないように背中を追う。

「ここが私の部屋」

 里津は鍵を開け、ドアノブを回した。そしてドアが閉まらないように抑えて怜南に入るよう促した。怜南はお邪魔しますと言えない代わりに、頭を下げて中に入った。

 里津も入ると、右手にある下駄箱の上に置かれた小さな入れ物に鍵を置いた。

 怜南は稜以外の他人の家に行ったことがなく、他人の家の匂いに戸惑い、立ち尽くしていた。

「さ、入って」

 里津に言われて靴を脱ぐ。

 里津が廊下とリビングを隔てるドアを開ける。

 入ってすぐ左にはキッチンがあり、カウンターがあるタイプだった。それを挟んで、正方形の食卓テーブルと、向かい合わせに椅子が二つある。

 その奥には絨毯が敷かれている。壁に沿って置いてあるテレビと平行に、三人程度が座れるグレーのソファがあった。その間には低めのテーブルがあるが、その上にはノートパソコンや資料、お菓子が散乱している。

「今買ってきたもので、冷蔵庫に入れたほうがいいものってある?」

 里津は買ったものを冷蔵庫や棚に仕分け終えると、また棒立ちしている怜南に言った。

 今回秀介に頼まれたのは徒歩で持って帰るのに重たくならないような、生活用品がほとんどだったため、怜南は首を横に振る。

「そっか。……あ。ちょっと散らかってるけど、気にしないで」

 テーブルの上の状態を思い出して、里津は照れ笑いを見せた。

「怜南ちゃんはお茶がいい? それとも、コーヒー?」

 怜南はスマートフォンを取り出し、『お茶で』と文字を入力した。

「……逃げてるみたい」

 里津のスマートフォンがメッセージを受信したとほぼ同時に、里津は怜南には聞こえない声で言った。怜南は首を傾げる。

 里津は笑顔を作る。

「ううん、なんでもない。お茶だね、了解。こっちのほうに座って待ってて」

 里津はカウンターを挟んである食卓テーブルを指した。怜南は頷くと、壁側の椅子を引いた。

「はい、お待たせ。お菓子は何がいい? なんでもあるよ」

 里津は二つのコップをテーブルに置くと、怜南の後ろを指さした。振り向いてみると、段ボール箱の中に大量のお菓子が入っていた。見たことがない量に、怜南は思わず見入ってしまう。

 里津は箱のそばに移動すると、中を漁り始める。

「うーん……今はチョコの気分」

 怜南に聞いておきながら、里津は一人で決めた。手にしているのは、一口チョコだ。

「好きなもの取って、食べていいからね」

 里津はもう一つの椅子に座り、袋を開けてテーブルの真ん中にチョコを広げる。さっそく一つ取って、口に運んだ。

 幸せそうな顔をする里津を見ながら、怜南は出されたお茶を飲む。

 今さらながら、どうして自分が里津の家にいるのか、不思議に思った。

「そうだ。私が無理矢理、怜南ちゃんを家に誘った理由を話さないとね」

 まるで怜南の心を読んだかのようなタイミングだった。

 里津は真剣な目をしている。怜南は思わず背筋を伸ばした。

「私は、どんな事件も解決して、犯罪者を刑務所に入れるために、刑事になった。それは、昔の事件も同じ。でも、私は今新しく起きる事件よりも、昔の事件のほうに力を入れてる」

 理由が聞きたかったが、文字を打って送ると里津の話の邪魔をしてしまうような気がして、怜南は理由を教えてほしいと意味を込めて首を傾げた。

「犯罪者がこの平和な日常で、罪も償わずに生活していることが許せないから」

 すると、里津の表情が真剣な面持ちから、眉尻を下げた、困ったような表情になった。

「でも昔の事件は捜査することが難しくて、市民の情報提供がすべてだったりする」

 それを言うと、顔つきが戻った。

「それでも情報はなかなか集まらないから、未解決事件は全然減らない。だから私は、未解決事件を解決できるヒントを集めるチャンスがあるなら逃さないし、手段を選ばない」

 怜南は里津が言おうとしている意味、そして自分を家に呼んだ理由がわかった。

 今すぐにでも帰りたい気持ちでいっぱいだったが、真剣に話している里津から逃げることができるような気もしなかった。

 せめて里津のまっすぐな瞳から逃げられないかと、膝の上に置いていた両手に視線を落とす。

「もうわかったと思うけど、私はあなたに、あなたの両親が殺されたときの話を聞きたくて、家に呼んだの」

 怜南の嫌な予感は的中した。視線の先にある両手は震えている。

「当時のあなたはまだ五歳で、かなりショックを受けたと思う。記憶が混乱するのも無理ないし、両親が目の前で殺されたことを思い出させるのは申し訳ないと思ってる。でも、あなたはそれでいいの?」

 今まで稜が避けてきた台詞を、里津は躊躇うことなく言った。

 怜南はスマートフォンの電源をつけ、文字を打つ。そのスピードは、さっき見せたものの何倍も遅かった。

『私は事件のことをよく覚えていないし、思い出したくないです。おじさんや稜君のおかげで、やっと笑えるようになってきたんです。前を向いて、歩けるようになったんです。私は、今の穏やかで幸せな毎日が好きです。私は、この幸せを守りたい。過去よりも今を選びます。だから、協力できません』

 そのメッセージを送ったのはいいが、里津の反応が怖くて顔が上げられない。

 案の定、聞こえて来たのは大きなため息だ。

「……二人に守られて、自分は前を向いて歩いているって、本気で言ってる? 冗談でしょ」

 数分前に聞いていた真剣な声とはまた違う、怒っているような声色だ。怜南はますます俯いてしまう。

 その態度が、里津は余計に気に入らなかった。

「あなたが前を向いてるんじゃなくて、あなたが向いているほうに、あの二人が合わせて歩いてくれてるだけ。それも、亀みたいなペースで。だから、あなたが前向きになれたっていうのは、ただの勘違い」

 里津の言葉は厳しく、怜南が顔を上げる様子はまったくない。

 それでも里津は、怜南の反応を気にせずに続ける。

「誰かに支えられることが悪いこととは言わない。でも、あなたは周りの優しさに甘えて、自分の過去と向き合っていない。向き合おうとしてない。それがダメだって言ってるの」

 そこまで言うと、里津はお茶を飲んで心を落ち着かせる。

「……あなたは、少しでも自分の力で立つ努力をするべきだと思う。事件を思い出す努力じゃなくて、葉宮君たちに頼らずに生きていく努力。声を出すとか、あなたが変わろうと思えば、なんでもできる」

 声を出そうとしろと言われたばかりだが、怜南はカバンの中にある、便利な文字打ち機械に手を伸ばした。

『きさきさんは傷ついたことがないから、そんなことが言えるんです。過去と向き合うことがどれだけ怖いか、わからないでしょう?』

 はっきりと言ったにもかかわらず、怜南には里津の言いたいことがまったく伝わっていなかった。

 里津は、つらい過去と向き合うこと、立ち向かっていくことがどれだけ怖いのか、勇気がいることなのか、知っている。里津にも、そういう経験があるのだ。

 だからこそ、逃げ続ける怜南が気に入らなかった。

 どうすれば怜南が変わろうとしてくれるのか、里津は考えを巡らせる。そして、自分の過去を話すことが、最も説得力があるのではないかと思った。