屋敷の呼び鈴が鳴った。イヴは無視した。とても誰かと話す気分ではなかった。
だが、呼び鈴は鳴り止まない。訪問者は根気よく何度も何度も鈴を鳴らしているようだった。
太陽の角度が変わるくらいの時間が経っても呼び鈴は鳴り響き続けていた。イヴはとうとう根負けし、ふらつきながら立ち上がって玄関へ向かった。顔色はひどいし髪もボサボサ。淑女の顔ではないがこれを見れば誰だって立ち去るだろう。
重い扉を開け、隙間から顔を半分だけ覗かせる。
「……どなたですか」
「おや、ずいぶんひどい顔をなさっていますねえ」
イヴは訪問者を見留めて眉根を寄せた。それは、山羊角が特徴的な紳士、マルセイユ公爵だった。隙のない三揃いの礼服を身に纏い、考えの読めない笑みを顔に貼り付けている。
「……申し訳ございませんが、体調が優れないのです。御用はまたの機会でもよろしいですか?」
「私はよろしいですけれどね。よろしくないのはイヴ様だと思いますよ」
回りくどい言い方に頭痛がした。はっきりと顔をしかめ、言葉を区切って口に出す。
「御用は、一体、なんですか」
公爵の唇が大きく弧を描いた。腰を屈め、イヴにぐいと顔を近づける。妙な異国の香水の匂いが香った。
「あなたの失った大切な者に、もう一度会いたくはないですか?」
イヴは短く息を吸い込む。扉を押さえる手から力が抜け、その隙を逃さず公爵は屋敷の中に足を踏み入れた。
扉が閉まる。薄暗い玄関ホールで、イヴは公爵と二人きり向かい合った。
「ど、どういう意味ですか」
喉がひきつる。公爵の笑顔が深くなった。
「あなたは、死者の魂を黄泉から呼び戻すことができる。そうですね?」
「馬鹿にしないでください。私が成し遂げるのは単純な魂下ろしなどではありません。生前と全く同じ組成の肉体を創造しそこに現世を離れた魂を固着させる魔術です。ただし一度肉体を離れた魂を再び現世に物質化させるには」
「分かりました分かりました」
急速に早口になったイヴに公爵がうるさそうに手を振った。片手で角を撫でながら、
「つまり、あなたは死者を蘇らせることができる。そうですね?」
「まあ……そうですね」
イヴは頷く。単純化すればそういうことになる。ただし条件がある、と再び口を開こうとしたイヴを公爵が押し留めた。
「ただし、死者の肉体の一部が必要。そのためにあなたはご両親の形見を探していたとのことですが」
「なぜあなたがそれを知っているかはともかくとして、その通りです」
胡乱な目つきで見上げるイヴを、公爵は気にも止めずに話を続けた。
「それでは、あの人狼──ヴィンセント=ガルニエの肉体の一部をあなたにお売りすると言ったら?」
イヴは鋭く息を呑む。奥歯を噛みしめ、公爵を睨みつけた。
「……なぜあなたが?」
公爵はにこやかに胸に手を当てる。
「私とてあの人狼の持ち主でしたから。少しばかり儲けを得ようと、彼の血を拝借したのですよ。人狼の血に値段をつける者はいくらでもおりますからね。それが最後の一瓶残っております」
公爵のもとにいたときのヴィンスの扱いにまた目眩がしたが、イヴはその場に踏ん張った。
「いいわ、私が買います。対価は何かしら」
公爵の瞳の底が不穏に光った。
「あなたの死後、あなたの脳を瓶詰めにして飾ってもよいですか?」
イヴは一拍おき、正直な気持ちを口にした。
「気持ちわる」
「なんとでも仰ってください」
公爵は穏やかな微笑みを崩さない。
「私はあなたのような引きこもりで挙動不審で人付き合いに難のある専門分野でのみ早口になるような人間は好みではないのですが」
「急に罵りますね」
「しかし、私はあなたの魔術式を高く評価していると申し上げたでしょう。あの素晴らしい数々の魔術式を生み出すあなたの頭脳のことは、大変に愛しているのですよ」
ですからあなたの脳をください、と続ける公爵に、イヴは口元に手を当てて考え込んだ。
「公爵が私より先に死ぬ可能性はないんですか」
「あり得ませんよ。どうして私が頭からこんな山羊角を生やしていると思います? 悪魔の呪いを受けて、普通の人間よりは長い寿命を手に入れました」
噂は本当だったのだ。イヴは内心頷きながら、この交渉の着地点を探した。
ヴィンスはきっと、彼を蘇らせるためにイヴが彼女の一部を売り払ったと聞けば負い目を持つだろう。少なくともイヴならそう思う。だから、絶対にこの条件を飲むわけにはいかなかった。
「……その長い時間、私の脳みそを眺めて過ごすんですか? きっと飽きますよ。あなたは優れた商人なのに、私という人間の価値を見誤っているのではないですか」
「……何が言いたいんです?」
公爵が笑みを消し、眉を寄せた。彼女は悪辣に笑ってみせる。
「あなたは私にこう言うべきなんです。──その素晴らしい魔術式を生み出す術を、後世に残してください、とね」
「……というと?」
イヴは両手を広げ、確信を持って言い放った。
「私は後進を育てましょう。私とは違う魔術式を生み出し、あなたを楽しませる者たちを。引きこもりで人付き合いに難のあるこの私が、そうしてやると言っているんです。頷くなら今のうちですよ」
玄関ホールが静まり返る。イヴと公爵は無言で睨み合い、二人の間に何かが通じ合った。
やがて、公爵は笑い出した。
「どうやら私は、イヴ様を見誤っていたようですね。……確かに、その方がよっぽど面白そうだ。いいでしょう、交渉成立です」
だが、呼び鈴は鳴り止まない。訪問者は根気よく何度も何度も鈴を鳴らしているようだった。
太陽の角度が変わるくらいの時間が経っても呼び鈴は鳴り響き続けていた。イヴはとうとう根負けし、ふらつきながら立ち上がって玄関へ向かった。顔色はひどいし髪もボサボサ。淑女の顔ではないがこれを見れば誰だって立ち去るだろう。
重い扉を開け、隙間から顔を半分だけ覗かせる。
「……どなたですか」
「おや、ずいぶんひどい顔をなさっていますねえ」
イヴは訪問者を見留めて眉根を寄せた。それは、山羊角が特徴的な紳士、マルセイユ公爵だった。隙のない三揃いの礼服を身に纏い、考えの読めない笑みを顔に貼り付けている。
「……申し訳ございませんが、体調が優れないのです。御用はまたの機会でもよろしいですか?」
「私はよろしいですけれどね。よろしくないのはイヴ様だと思いますよ」
回りくどい言い方に頭痛がした。はっきりと顔をしかめ、言葉を区切って口に出す。
「御用は、一体、なんですか」
公爵の唇が大きく弧を描いた。腰を屈め、イヴにぐいと顔を近づける。妙な異国の香水の匂いが香った。
「あなたの失った大切な者に、もう一度会いたくはないですか?」
イヴは短く息を吸い込む。扉を押さえる手から力が抜け、その隙を逃さず公爵は屋敷の中に足を踏み入れた。
扉が閉まる。薄暗い玄関ホールで、イヴは公爵と二人きり向かい合った。
「ど、どういう意味ですか」
喉がひきつる。公爵の笑顔が深くなった。
「あなたは、死者の魂を黄泉から呼び戻すことができる。そうですね?」
「馬鹿にしないでください。私が成し遂げるのは単純な魂下ろしなどではありません。生前と全く同じ組成の肉体を創造しそこに現世を離れた魂を固着させる魔術です。ただし一度肉体を離れた魂を再び現世に物質化させるには」
「分かりました分かりました」
急速に早口になったイヴに公爵がうるさそうに手を振った。片手で角を撫でながら、
「つまり、あなたは死者を蘇らせることができる。そうですね?」
「まあ……そうですね」
イヴは頷く。単純化すればそういうことになる。ただし条件がある、と再び口を開こうとしたイヴを公爵が押し留めた。
「ただし、死者の肉体の一部が必要。そのためにあなたはご両親の形見を探していたとのことですが」
「なぜあなたがそれを知っているかはともかくとして、その通りです」
胡乱な目つきで見上げるイヴを、公爵は気にも止めずに話を続けた。
「それでは、あの人狼──ヴィンセント=ガルニエの肉体の一部をあなたにお売りすると言ったら?」
イヴは鋭く息を呑む。奥歯を噛みしめ、公爵を睨みつけた。
「……なぜあなたが?」
公爵はにこやかに胸に手を当てる。
「私とてあの人狼の持ち主でしたから。少しばかり儲けを得ようと、彼の血を拝借したのですよ。人狼の血に値段をつける者はいくらでもおりますからね。それが最後の一瓶残っております」
公爵のもとにいたときのヴィンスの扱いにまた目眩がしたが、イヴはその場に踏ん張った。
「いいわ、私が買います。対価は何かしら」
公爵の瞳の底が不穏に光った。
「あなたの死後、あなたの脳を瓶詰めにして飾ってもよいですか?」
イヴは一拍おき、正直な気持ちを口にした。
「気持ちわる」
「なんとでも仰ってください」
公爵は穏やかな微笑みを崩さない。
「私はあなたのような引きこもりで挙動不審で人付き合いに難のある専門分野でのみ早口になるような人間は好みではないのですが」
「急に罵りますね」
「しかし、私はあなたの魔術式を高く評価していると申し上げたでしょう。あの素晴らしい数々の魔術式を生み出すあなたの頭脳のことは、大変に愛しているのですよ」
ですからあなたの脳をください、と続ける公爵に、イヴは口元に手を当てて考え込んだ。
「公爵が私より先に死ぬ可能性はないんですか」
「あり得ませんよ。どうして私が頭からこんな山羊角を生やしていると思います? 悪魔の呪いを受けて、普通の人間よりは長い寿命を手に入れました」
噂は本当だったのだ。イヴは内心頷きながら、この交渉の着地点を探した。
ヴィンスはきっと、彼を蘇らせるためにイヴが彼女の一部を売り払ったと聞けば負い目を持つだろう。少なくともイヴならそう思う。だから、絶対にこの条件を飲むわけにはいかなかった。
「……その長い時間、私の脳みそを眺めて過ごすんですか? きっと飽きますよ。あなたは優れた商人なのに、私という人間の価値を見誤っているのではないですか」
「……何が言いたいんです?」
公爵が笑みを消し、眉を寄せた。彼女は悪辣に笑ってみせる。
「あなたは私にこう言うべきなんです。──その素晴らしい魔術式を生み出す術を、後世に残してください、とね」
「……というと?」
イヴは両手を広げ、確信を持って言い放った。
「私は後進を育てましょう。私とは違う魔術式を生み出し、あなたを楽しませる者たちを。引きこもりで人付き合いに難のあるこの私が、そうしてやると言っているんです。頷くなら今のうちですよ」
玄関ホールが静まり返る。イヴと公爵は無言で睨み合い、二人の間に何かが通じ合った。
やがて、公爵は笑い出した。
「どうやら私は、イヴ様を見誤っていたようですね。……確かに、その方がよっぽど面白そうだ。いいでしょう、交渉成立です」