「……え?」

 いつまで経っても痛みは襲ってこない。それどころか体にのしかかる重さが消えていた。イヴは何度か瞬き、呻きながら立ち上がった。

「どういうこと……?」

 狼は床に伏せ、背中の毛を逆立てていた。耳が垂れ下がり尻尾は後ろ足の間に挟んでいる。呆然と見つめていると、弱々しく唸った。威嚇にもならない。
 イヴは膝をつき、ゆっくりとにじり寄った。甲高く吠える狼に、「怖くないわ」とささめいてそっと腕を伸ばす。
 狼の体が震えた。それをなだめるように、出来る限り優しく背を撫でた。

「大丈夫、大丈夫よ……」

 指の間を逆立った毛が通り抜ける。皮膚は強張って筋肉が硬い。辛抱強く撫で続けていると、やがて震えが収まり毛皮がふわふわとした感触を取り戻した。
 狼が鼻先をすり寄せる。それを見て、どうやらイヴの拳が彼を恐慌状態に陥らせたのだと勘付いた。

「ごめんなさい、痛かったわね……」

 頭を撫でる。甘えるように顎を膝に乗せてきた。ずっしりとした重みになぜか涙が出てきた。
 頬を伝う涙を狼が舌で舐めとる。次から次へと溢れて止まらなかった。

「ごめんね……」

 両腕で狼の首にしがみつき、イヴはすすり泣く。彼の受けたであろう仕打ちの根深さも、自分の無力さも、何もかもが彼女を打ちのめしていた。
 そうして朝まで、彼と彼女は寄り添っていた。