「なに、あれ」
 見送って、不満そうに凜が言う。
「さあなあ。どこかのお坊っちゃま、て風だったけどな」
 対して、柾は心配そうだった。お人好し、と凜が顔を背けてつぶやいている。柾の手が止まっているのに文句を言おうとしたが、続けられなかった。

「あれは、お山の久我家の御曹司で、慎司(しんじ)様だよ」
 横から声がかぶせられる。
 少し離れた辺りに、凜と同様、長々と店に居座って話し込んでいた中年女性たちのうち一人だった。身を乗り出して、興味深げに凜と主に柾を見ながら、教えてくれる。

「慎司様って」
「華族様さ」
「ああ、なるほど」
 妙に納得してしまった。物腰の柔らかさも丁寧さも、育ちだろうか。

「お山に大きな屋敷が見えるだろ。あれが、久我のお家」
 彼女が指さしたのは、町を挟む二つの山のうち北に当たる方だった。見ると確かに、山の中腹から少し下のあたり、木に囲まれた中に大きな屋敷が見える。

「この辺りの土地はほとんど久我の家のものだよ。あの家のある山も、反対の山も。高貴な血筋の方で、皇家の血筋の姫君をお嫁にいただいたこともある家系だそうだ」
「貴族か」
「元は、武家だって聞くけど、今は外国との商売もしているみたいだね。おかげさまで、この町も、他よりは栄えてる」

 なるほど、と再び納得する。
 だから町の人も彼には丁寧に接するのだろう。それに慎司と言う少年自身、町の人に好意をもたれているのだろうことが、なんとなく分かった。

 国が引っ繰り返り、政府が入れ替わり、新政府の立てた新しい政策は、欧米諸国におもねるようなものばかりだった。
 身分の壁を払うために作られた法令もあったが、完全に機能しているとは言い難く、そもそも法令自体が曖昧に過ぎた。完全に捨て去ってしまうには、元々身分を持っていた者が納得しないのだから、仕方ないと言えばそれまでなのだが。

 けれど少年は、平等とは名ばかりの社会で、よほど優位に立つのに、決して高圧的などではなかった。訪ね歩いた誰に対しても、ただの旅人の柾たちに対しても、すげなくされても、丁寧に接していた。町の人も、彼の問いに答えられないのが申し訳なさそうだった。

「名家の跡取りか。それにしては、なんでこんなところを一人でうろついてるんだ」
「ああ、それは」
 少し、言葉を濁すように女性は困った笑みを浮かべた。けれどその顔には少しばかり好奇の色があって、話したがっているのがなんとなく分かる。

「慎司様は学生さんでね。東京の学習院に行かれていたんだけど、先頃、先代のご当主が亡くなられて」
「ああ、跡目相続か」
「そう。跡目のために学業をお休みして帰っていらしている、っていうのが表向きだけどね」
「表向き」
「お葬式の時に、一緒に東京に行かれてた従兄弟と帰ってこられたんだけど、その従兄弟がご病気で。それからずっとこちらにおられるから、ご自身のためというよりは、従兄弟の休養のためなんだろうねえ」
 東京は随分と、狭苦しくて騒がしいところだというからね、と彼女は言う。

「まあ、確かに。ここ程のどかではないね。近頃は、西洋文化を取り込むのに忙しくて、明るくて暗い」
 柾が応じると、おや行ったことがあるのかい、と女は大仰に受けてから、続けた。

「なのに従兄弟の綾都様が、安静にせずに、家を抜け出しては町を徘徊しているものだから、いつも走り回っては探しておられるんだよ。慎司さんは、綾都さんの他に近い身寄りもおられないみたいで、昔からたくさん苦労をなさっていて、おかわいそうだよ」
 この町では、誰もが知っている事情なのだろう。町の名士が、毎日毎日、従兄弟の行方を捜していては、それは話題にもなる。日常の風景にもなるだろう。

 大変だなあ、と柾がため息を落とす。まるで俺みたいだとつぶやいて、凜に手をつねられた。

「それはそうと」
 再び中年女性に声をかけられて、柾は苦笑しながら、問うような眼差しを返す。なんですか、と。
「わたしの肩も揉んでくれると嬉しいわねえ」

 にっこりと毒の無い笑顔で言われて、二人ともきょとんとする。更に、彼女が言い出すといつの間にか彼らに注目していた他の女たちも次々に名乗り出てきて、柾はぽかんとしたまま、どうすればいいものか困惑してしまった。
 どうやら彼女たちはずっと、声をかける機会を狙っていたようだった。慎司が姿を現す前から。

 凜は不満そうに女たちを睨みつけるが、柾は断るという行為があまり得意ではない。相手は客だったし、凜の機嫌を気にしながらも、それじゃあ、と女たちの輪に飲み込まれてしまう。