柾も掏摸の被害を届け出れば良いのに、まるでその気はないようだった。凜の言う通りに、わずかしか持っていなかったからということもあるのだろうが、例え大金が入っていても、届け出なかっただろう。
 役人は苦手だから、と分かるような分からないような理由で。

 おもしろがって、凜が先刻からからかっている。もう山を越えることは出来ない。この町に一日足止めを食らうのも一向に気にした様子もなく、店に居座っていた。

「はい、お客様。お団子とお茶をお持ちしました」
 盆に乗せた皿と湯飲みを持って、柾が再び凜のところへくる。
 淹れたてのお茶の爽やかな匂いが、湯気と共に漂った。凜の横に気をつけて置くと、引っ込もうとした柾の腕を凜が掴んだ。満足げな中に、新しい思いつきをした、底知れない笑みをして。

「ねえ、店員さん。肩こっちゃったあ。そのくらいおまけして欲しいなあ」
「お前な」
「ぼくがさっきからこの店でどれくらいお金使ってるか知ってるよね」
「それとこれとは別問題」

 あきれたように柾が言って、店の中をうかがって振り返るが、会話が聞こえているはずの店の主人は彼らの方を見ていない。怒られないと言うことは、別に構わないということだろう。
 実際今は忙しい時間ではなく、客などちらほらといる程度だった。つい、つぶやいてしまう。

「俺の方が肩揉んでほしいくらいだよ」
「なんか言った」
「いいえ、なんでもありませんよ」
 柾はため息をついて、少し行き過ぎていた体を戻すと、凜の細い肩に手を置いた。
「こってるところがあったら言ってくださいねえ」

 やれやれ、という調子の声音ではあるものの、投げやりではなかった。もともと、人に何かをしてあげることが好きな彼である。それに、にこにこと笑って嬉しそうな凜を見るのが嫌なことではないので、ついつい甘やかしてしまう。

 そんな彼らの視界に、違和感が飛び込んでくる。
 道を行き交う人々、立ち止まって話をしている人々、その向こうに困惑した顔の少年が見えた。形振(なりふ)り構わないほどに必死な様子で、目に留まる人を捕まえては何かを聞きまわっていた。きちんとした洋装を着込んでいるから、それがまた目立つ。

「道にでも迷ったのかねえ」
 凜の後ろで、柾が気にかかったように言う。けれど少年はそんな様子ではなかった。

 道を尋ねるのは町に不慣れな者で、ここならば、旅人と相場が決まっている。ところが、尋ねられている人々は少年のことを知っている様子だった。
 声をかけられ、困った様子で問いかけられると、皆申し訳なさそうに首を振る。彼が何を問いたいのかもう知っていて、応えられないのが申し訳ないというように。

 観察していた凜たちの視線に気がついたのか、少年はふと首を向けた。目があって、柾は困ったように笑う。すると少年は彼らの方へ駆けてきた。

「すみません。お尋ねしたいのですが」
 声をかけられて、凜は渋い顔をして相手を見遣った。

 問いかける声は丁寧で、慌ててはいても捲し立てるようなものではない。おっとりしているような印象があった。相手を見る眼差しも仕草も上品だ。
 纏っている洋装は、一目で仕立がいいのが見て取れた。皺ひとつなく、それがどれだけ手入れされているかも分かる。たが少年自身に、どこか疲れた雰囲気があるのは否めない。

「道聞かれてもわからないよ。ぼくら地元の人間じゃないし」
 柾が何かを答える前に、凜が言った。あまり善意とは言えない態度の凜にも気にせず、少年は続ける。それだけ、必死なようだった。

「いえ、あの。人を探しておりまして」
「ああ。人探しか」
 今度は、凜が何か言う前に、柾が応える。それで先程の光景に得心がいった。

久我(くが)綾都(あやと)という人を探しております」
「男の子なのか」
「ええ、歳はぼくと同じで。短い真っ黒な髪をしています。ちょっときつめの顔の子なのですけれど。今日は、緑の着物を着ていたはずで。……もしかしたら、少し様子がおかしいかも知れません」
 様子がおかしいとは、やはり尋常ではないようだった。もう興味を失った凜のかわりに、柾が首をひねる。

「この辺りに来たのは、確かなのかな」
「いえ、それが分からなくて」
 行方をくらました、ということか。柾は随分と長い間この店にいるが、そういった少年は見かけていない。

「ごめんな、見かけてないよ。どうかしたのか」
 すわ、かどわかしか、迷子か。心配して問いかける。
 けれど少年は、少し困ったように笑った。期待した答えが返ってきたわけではないのに、それほど気落ちしているようではなかった。当てが外れるのに慣れているのか。急いでいるからだろうか。

「いえ。お時間取らせてしまって申し訳ありません。ありがとうございました」
 少年は礼と謝罪をしただけで、事情を教えてはくれなかった。それだけ急いでいるのだろうに、すげない印象を与えない丁重さで頭を下げる。

 そして身を翻して駆けていくと、また同じように人を捕まえては問いかけている。そうして人混みにまぎれて遠ざかって行ってしまった。