柾が踵を返し、薄雨の向こうに消えていくのを見送って、慎司は外の松明や人の怒号を気にもかけず、ひたひたと音を鳴らして歩き出した。
霧のようだとは言え、ずっと雨の中に立っていたせいで、着ている物や髪が濡れて重い。庭から上がり、広々とした廊下を歩くところに、水の跡が残っている。
外はけたたましいのに、門と塀を隔てた屋敷の内は、寂として重い。光の届かないところばかりだ。闇が息を潜めている。
慎司は倉へ行き、西洋灯のための燃料を入れた一斗缶を引きずり出した。
油を滴らせながら、また屋敷の中を歩いていく。独りでいるには、あまりにも広い。そして目に付く部屋に向かって、順番に、念入りにぶちまける。
綾都が寝ていた部屋にも。
祖父の部屋、祖母の部屋、両親や綾都の両親が住まった部屋。
食事をした部屋、遊んだ庭、美しい草木が咲き誇った庭にも。
むせ返るような油の臭いが、しめやかな空気の中に満ちていく。花の香は雨に閉じ込められ、重みを持った油の臭いに蓋をされる。
そして慎司は、自分の部屋に戻ってきた。部屋に満ちた油彩の臭いと石油の臭いが混じって、部屋の中で重く淀んでいる。
燐寸を擦り、西洋灯に火をつけた。暗い室内を、日中のような明かりが照らす。色とりどりの絵画を。
祖父母が亡くなってから、この部屋でひたすら絵を描いた。描きあげたたくさんの絵と、画材と、絵画の勉強のためにかき集めた本が積み上げてある。貴重で、大事な書物だった。
祖父母が生きていた間は、こういったものに気づかれ、取り上げられるのをひどく恐れたものだ。今はそれすら遠い。
慎司はまるで何かの儀式のようにランプを持ち上げ、たくさんの絵の上に落とした。硝子の割れる鋭い音が響き、炎が噴き出した。火の舌は、絵を舐めあげていく。
「鬼の所業を繰り返して、綾都のところに行けるわけもないのにね。清らかな者の元に行ける道理もあるわけないのに。死んでからでさえ、引き離される羽目になるのに」
だけど悔やんでいない。死した人に、謝罪の気持ちも、哀れだという思いもない。
このまま朽ちれば、自分はどうなるのだろう。どこに行くのだろう。鬼は死んだらどうなるのだろう。
塵になって、消えるのだろうか。どこへ行くことも出来ずに。
目を延べて庭を見る。雨に霞む花が見える。
季節が戻ったような錯覚に陥らせる、雪柳。枝の上に、空の欠片が降り積もったかのようだ。重たげに枝を揺らしている。溶ける事なく。消えることなく。
彼が笑んでそこに佇んでいた頃を、錯覚させる。
「綾都。ぼくに嫌われようとして懸命だったけど」
雨がなでるように降っている。だけど大した妨げにはならないだろう。
「嫌いになるわけ、ないんだよ」
炎は、油にまみれた床を本を舐め広がっていく。
「ごめんね」
ぼくのために一生懸命になってくれたのに。
「江月照松風吹 永夜清宵何所為」
月の光はあえかなり、雨の帳は、幽冥への扉。
そこにただある風景。
美しい風景。
ぼくの目に映る世界を彩るものすべて。
何のためかなんて。
それはただ、君のためだけだったのに。
了