慎司はふらふらと歩を進め、開け放ったままだった門を抜け、ただ惰性で閉めた。
 家の門は、家の大きさを象徴し、外から来る人を圧倒するものだから、こんな場所なのに威圧感を放っている。

 家にあがり、汚れた足のままで長い廊下を、畳の上を歩く。
 屏風で囲まれ、多くの襖で仕切られた室内は、開け放つと、ただひたすら広い。音も無く人の気配も無く、光も無く。

 惰性のまま歩き続け、何とはなしに辿り着いた部屋で足を止める。床が延べられた部屋。
 眠ろうと思っていたわけではなくて、ずっと敷かれたままのもの。その脇にすとんと腰を落として、座り込む。

 そして咥えたままだった血肉の塊を、口から離す。それの指先についた血を舐め、掌を舐めあげ、再び歯を立てる。

 口の中に広がる、苦味。滴り落ちる雫。租借して、飲み下す。
 異物感。それでもまだ、繰り返す。
 不味いとも旨いとも思う前に飲み込んで押し込めていく。

 消してしまわなくては。何もかも、目の前から消し去って。離れることのないように。

 けれど突き上げてくるものがあって、慎司は貪るのをやめた。
 胃から物がこみ上げてくる。激しく嘔吐して、床にぶちまけた。臓腑が拒んでいる。

 腐臭の漂う部屋に()えた臭いが混じる。その臭いに誘われて、また胃の中身が逆流する。体に吸収される前の、形を留めたままの物が、唇から溢れ出た。全身を脱力感が襲う。まるで汚物の溜まりのようだ、この体は。

 精神は常軌を逸しても、臓腑は飲み込むのを、受け入れるのを拒むのか。脳が命じても、無意識は道徳を重んじるのか。意志を持たない物が、正論を語るのか。

 ふいに、笑いがこみあげてきた。くつくつと喉を鳴らす。気がつくとそれは口からあふれて、哄笑が辺りを満たしていた。ごろりと転がって、天井に向かって、笑いを撒き散らす。
 湿った空気の中を、窮屈に広がっていく。

 慎司は口をぬぐい、頬に笑みをにじませたまま立ち上がった。つながる肩のない腕を掴んだまま、ゆらゆらと歩き出す。

 雨が降っている。
 細く儚い雫が、霧のような雨が、地面を叩いている。柔らかい音で、屋根や草木を叩いている。髪や服を湿らすように濡らしていく。

 庭土に降りて、天を仰ぐ。薄く雲の幕を張った空。月が、ぼやけて見える。
 明かりすら薄く、空気は黒い。だが地面に落ちた水が、僅かな光を返してきらきらと揺れている。

「やあ」
 雨の幕の向こうから、庭の中を、ひたひたと地面を渡って歩いてくる影があった。
 目を瞬いて、睫毛に乗る水を落とす。にじむ視界を払って、慎司は相手を責めるでなく、静かに問いかけた。

「どこから入ってきたんですか」
「俺はどこからだって入れる」
 柾は少し物騒で、あまり答えになっていない言葉を、たいしたことではないように答えた。長身を頓着なく雨曝しにして。

「物騒ですね。ここが華族の家だと承知で、勝手に入ってきたのですか」
 責めるような口調で、慎司が言う。けれど問い詰めるようではない。本当に不審に思ったからではなく、こういう時はそう問いかけるものだろうという、ただの惰性のようなもので。

「今更、権力を振りかざすのかい。前はあんなに居てほしいと言っていたのに」
 相手も動揺などせずに、くす、と笑いを落とした。
「綾都が望んだから」
「今は望まないのか」
「さあ、どうでしょう」
 ことり、と音が聞こえそうな仕種で、少年は首を傾ける。ほんの僅か思案してから、けぶるような笑みをうかべる。

「ぼくは綾都で、綾都はぼくだから、ぼくが嫌だと思ったら、綾都も嫌だと思っていると、思います」
 曖昧に答える。眼差しの先は柾を見ているのに、据えられてはいない。柾は束の間口を閉ざし、同じように首を傾けて、淡く笑んだ。

「それじゃあ、綾都に聞く」
「やめてください」
 先刻とは打って変わって、切り返すような声が返ってきた。柾はやはり、動じない。

「どうして」
「関わらないでください。もう」
「どうして。本当のことを見るのが嫌なのかい」
 今度は、慎司が口を閉ざす。
 どうして。

 さわさわと、そぼ降る雨が木の葉を鳴らす。
 答えが返らないことなど気にしない様子で、柾は、問いを降らしていく。