絵筆を放り出し、いつの間にか眠っていた慎司は、床の上で伏していた顔をあげて身を起こす。
「待って」
唇から声がついてでた。瞳を開き、瞬いて、目の前を確認する。うつらうつらとしていた眼差しのまま。
嫌な夢を見た。
あの夜の、静かな夢。
「綾、どこなの」
ゆらゆらと、まどろむように現実と夢を行き来する。ただよって、ただよって、目覚める気もないまま、ただ揺られている。
たくさんの感情と理性が、人の心の中で渦巻いている。憎しみ、恐れ、憐れみ、優しさ、純真、名のついた細い糸が織り込まれて、ひとりの人間の心を形作っている。
けれどもまるで、ひとつひとつ、その糸をほぐしていくかのように。
きちんとていねいに織り込まれ文様を形作っていたところから、くしゃりと絡まっていたところから、そうしてようやく保っているそこから、狂気と言う名の指先がほぐしていくかのように。
男ならしゃんとして武術を学べ、とやかましく言う祖父もいない。久我の次期当主が絵だなんて、と叱る祖母もいない。父も母も、始めから記憶には遠い。そして。
慎の絵は奥が深いな、と悟ったような、半分おどけたような口調で言ってくれた綾都も、もういない。幼い頃からずっと一緒に育って、助け合いながら生きてきた綾都は。
彼はもうあの頃のように笑ってはくれない。
深く深く病の底に眠るだけで。
「綾?」
ぼんやりとした声を出しながら、立ち上がる。仕草が危うく、歩くことを覚えたばかりの赤子のように、ぽてぽてとした動きで、歩を進める。
「綾都」
そして庭を眺めて、少年はふわふわとした笑みを浮かべる。嬉しそうに笑う。
綾都は寒椿が好きだった。雪の中に、緑と赤の花はとても鮮やかによく映えた。
静謐の中にも、綾都がとても華やかだったように。けれど決して賑々しくはなかったように。精悍でも、存在を強く教える強い花。だから、慎司も好きだった。
今、その花はもうない。
変わりに、別の季節を告げる色とりどりの花が、むせ返るような匂いを振り撒き、満ちている。
先陣を切る沈丁花。淡い色合いとは真逆に、香りを撒き散らす花。
艶やかな寒緋桜。つぼみをつけた鶯神楽。家を出れば、蒲公英や菫が咲き始めているはずだ。命が沸き返る季節。
だけど、少年の姿は。
すこしずつ、ひとつずつ、壊れていく。
ゆるやかに。