「あんたは、爵位にこだわっていないだろう。綾都が落ちつくまで、東京にも戻りたくないはずだ」
「それは、できればそうしたいと思っていますが」
「そうやって世俗のものを捨ててしまうのは、妙な覚悟があるように見えるよ」
やはり、綾都と同じように。二人とも。
「息が、つまらないか」
閉じ込められた、田舎の町。
思い出だけが鎮座して囲む場所。この家も。慎司は、それにすがり付いている。
「ええ、でも」
薄く、儚く笑う。
「綾都が、ここがいいと言うものですから」
「不便じゃないのか」
「医師ならば、いくらでも、お金を払って来てもらえますし」
「金持ちは言うことが違うね」
「それしか、ぼくにできることはありませんから」
医者を手配して、綾都が望むようにして。彼が、少しでも快適に過ごせるように。少しでも、回復してくれるように。
「一ツ橋の病院にも行きました。帝国大学の先生にも相談しました。日本にいらしていた、独逸の先生にも診ていただきました。できることなら、洋行してあちらで医者にかかりたかった。でも、まだ、あの人たちが生きていたから」
そして、その人たちが去った今はもう、海外に行く程の力が綾都に残っていない。
慎司の顔が急に歪められた。憎々しげに、白い頬に紅がにじむ。
上品な佇まいで、いつも細く憂いを含んだ笑みを浮かべる彼からは想像も出来ないような、綾都を背負った柾を見たときのような、黒い感情の塊。
整えられた体裁と、その蓋で閉めてしまえない感情。押し込められ続けたものは、ふとしたことで噴出す。時折よぎる激情は、彼が危うい均衡の上にいるのを露呈していた。
「弄言が過ぎました」
ふと気づいた様子で、慎司は苦笑して、慎司は口を閉ざす。
柾はまったく気にした様子もなく、のどかな仕種で、湯飲みを持ち上げた。両手で抱えるようにしてすする。
「子爵様も大変だな」
「ええ、まあ。でも、ぼくには綾都がいますから」
灯された薄明かりの中で、彼の顔は微かな橙に染まっている。悲哀の色が濃い。縁取られた陰影が、何よりも悲しみを描き出している。
「綾都は走るのが得意だった。乗馬も得意だった。武道だってできた。ぼくなんかよりも、ずっと明るくて、優しかった。それなのに」
机の上で握られた手が震えた。
卑しくも、語られる噂がある。表沙汰にではなく、名家に隠された事情を楽しみ覗き見ようとする人の暗い意志によって、町の人間が囁いていたこと。
同じ年の従兄弟。同じ頃に死んだ父親たち。
どちらが長男の子供なのかなど、分かりはしない、と。
次男が長男の嫁に触れ、結果身篭ったのが慎司ではないかと。実は放蕩のあまりに死んだのは長男で、あまりにも外聞が悪いから理由を次男に押し付けのでは。
入れ替えたのではないかと。
そもそも長男に子ができたのかどうかさえ不明だと。
歪んだ家の主は、財力を、権力を使って事情を押し隠すこと、人の口を閉ざすことにばかり長けている。不都合なことは覆い隠す。だから余計に、真相は捻じ曲がる。
だがもう真相など分かりはしない。
とにかく、血だ。
名家の血。大名の血。皇族の血。それだけは、成り上がっても決して手に入れることが出来ないもの。生まれたときにのみ、与えられるものだ。
綾都はずっと、祖父母の罵りを受けても、卑しいものを見るような眼を隠しもせずに、見せ付けられ続けても、決して項垂れることはなかった。顔を上げ、先を見据え、希望を湛えて笑っていたのに。
それなのに、病に倒れてから、切り札のように、忌み言を繰り返すようになった。
自分たちはただ、家を守るための祖父たちの企みで、命運を切り分けられただけなのではないかと。その上、自分だけが更に失うのかと、暗に繰り返す。
決して、そんな感情を表にあふれさせる人ではなかったのに。近づいてくる暗い影が、綾都を追い立てている。精彩を放っていた存在が、霞かかったように遠くなる。
「どうして、こんなことになるんですか……」
痩せていく肩。青白い頬。少し歩いただけで、息を切らせて苦しそうにする。
不甲斐ないとよく叱られた慎司よりもずっと体力もあったのに、町へ降りるのが精一杯のようだった。
食欲旺盛でいつも食べすぎだと言われていたくらいなのに、もう、食べ物が喉を通らなくなっている。
あと、どれくらい生きてくれるのだろう。
どれだけ。
慎司は俯き、卓を見つめたまま、柾に尋ねる。
「あなたは、あなたの半身を失ったら、どうしますか」
「考えたくない事を聞くね」
ため息混じりに、けれども穏やかに柾は言った。
「できたらそれは、凜に聞いた方が良いと思う」
「……どうしてですか」
半ば答えを予想しながら、むしろ理解していながらも、慎司は尋ねていた。柾も慎司がわかっているだろうということなど、予想済みだろう。
けれども――だからこそ、口にするのをためらうようにしながら、ゆっくりと答えた。
「これを言うと怒られるから、あんただけに教えてやるけど、多分俺は凜より長生きをすることはないと思う。俺は盾だから」
「ずるいですね」
「そうだな」
ただ、柾は少しの後ろめたいところもなく、笑った。
「それは、できればそうしたいと思っていますが」
「そうやって世俗のものを捨ててしまうのは、妙な覚悟があるように見えるよ」
やはり、綾都と同じように。二人とも。
「息が、つまらないか」
閉じ込められた、田舎の町。
思い出だけが鎮座して囲む場所。この家も。慎司は、それにすがり付いている。
「ええ、でも」
薄く、儚く笑う。
「綾都が、ここがいいと言うものですから」
「不便じゃないのか」
「医師ならば、いくらでも、お金を払って来てもらえますし」
「金持ちは言うことが違うね」
「それしか、ぼくにできることはありませんから」
医者を手配して、綾都が望むようにして。彼が、少しでも快適に過ごせるように。少しでも、回復してくれるように。
「一ツ橋の病院にも行きました。帝国大学の先生にも相談しました。日本にいらしていた、独逸の先生にも診ていただきました。できることなら、洋行してあちらで医者にかかりたかった。でも、まだ、あの人たちが生きていたから」
そして、その人たちが去った今はもう、海外に行く程の力が綾都に残っていない。
慎司の顔が急に歪められた。憎々しげに、白い頬に紅がにじむ。
上品な佇まいで、いつも細く憂いを含んだ笑みを浮かべる彼からは想像も出来ないような、綾都を背負った柾を見たときのような、黒い感情の塊。
整えられた体裁と、その蓋で閉めてしまえない感情。押し込められ続けたものは、ふとしたことで噴出す。時折よぎる激情は、彼が危うい均衡の上にいるのを露呈していた。
「弄言が過ぎました」
ふと気づいた様子で、慎司は苦笑して、慎司は口を閉ざす。
柾はまったく気にした様子もなく、のどかな仕種で、湯飲みを持ち上げた。両手で抱えるようにしてすする。
「子爵様も大変だな」
「ええ、まあ。でも、ぼくには綾都がいますから」
灯された薄明かりの中で、彼の顔は微かな橙に染まっている。悲哀の色が濃い。縁取られた陰影が、何よりも悲しみを描き出している。
「綾都は走るのが得意だった。乗馬も得意だった。武道だってできた。ぼくなんかよりも、ずっと明るくて、優しかった。それなのに」
机の上で握られた手が震えた。
卑しくも、語られる噂がある。表沙汰にではなく、名家に隠された事情を楽しみ覗き見ようとする人の暗い意志によって、町の人間が囁いていたこと。
同じ年の従兄弟。同じ頃に死んだ父親たち。
どちらが長男の子供なのかなど、分かりはしない、と。
次男が長男の嫁に触れ、結果身篭ったのが慎司ではないかと。実は放蕩のあまりに死んだのは長男で、あまりにも外聞が悪いから理由を次男に押し付けのでは。
入れ替えたのではないかと。
そもそも長男に子ができたのかどうかさえ不明だと。
歪んだ家の主は、財力を、権力を使って事情を押し隠すこと、人の口を閉ざすことにばかり長けている。不都合なことは覆い隠す。だから余計に、真相は捻じ曲がる。
だがもう真相など分かりはしない。
とにかく、血だ。
名家の血。大名の血。皇族の血。それだけは、成り上がっても決して手に入れることが出来ないもの。生まれたときにのみ、与えられるものだ。
綾都はずっと、祖父母の罵りを受けても、卑しいものを見るような眼を隠しもせずに、見せ付けられ続けても、決して項垂れることはなかった。顔を上げ、先を見据え、希望を湛えて笑っていたのに。
それなのに、病に倒れてから、切り札のように、忌み言を繰り返すようになった。
自分たちはただ、家を守るための祖父たちの企みで、命運を切り分けられただけなのではないかと。その上、自分だけが更に失うのかと、暗に繰り返す。
決して、そんな感情を表にあふれさせる人ではなかったのに。近づいてくる暗い影が、綾都を追い立てている。精彩を放っていた存在が、霞かかったように遠くなる。
「どうして、こんなことになるんですか……」
痩せていく肩。青白い頬。少し歩いただけで、息を切らせて苦しそうにする。
不甲斐ないとよく叱られた慎司よりもずっと体力もあったのに、町へ降りるのが精一杯のようだった。
食欲旺盛でいつも食べすぎだと言われていたくらいなのに、もう、食べ物が喉を通らなくなっている。
あと、どれくらい生きてくれるのだろう。
どれだけ。
慎司は俯き、卓を見つめたまま、柾に尋ねる。
「あなたは、あなたの半身を失ったら、どうしますか」
「考えたくない事を聞くね」
ため息混じりに、けれども穏やかに柾は言った。
「できたらそれは、凜に聞いた方が良いと思う」
「……どうしてですか」
半ば答えを予想しながら、むしろ理解していながらも、慎司は尋ねていた。柾も慎司がわかっているだろうということなど、予想済みだろう。
けれども――だからこそ、口にするのをためらうようにしながら、ゆっくりと答えた。
「これを言うと怒られるから、あんただけに教えてやるけど、多分俺は凜より長生きをすることはないと思う。俺は盾だから」
「ずるいですね」
「そうだな」
ただ、柾は少しの後ろめたいところもなく、笑った。