祖父の手が止まる。ペンを握るその手が震えていた。皺の刻まれた顔が険しくなる。束の間、怒っているのか、何をお前に怒る権があると思い、様子が違うのに気がついた。
 祖父の眉間の皺が深くなる。苦しそうに眉根を寄せて、祖父はうめき声を上げた。

「おじい様」
 問うように、慎司が声を上げる。
 片手で胸を押さえて、祖父は、何でもないというように逆の手を振った。

 ここのところ、祖父も具合を悪くしていることが多いようだった。けれどいつもの厳しい表情に押し隠していることが多く、長く武士であった祖父は、体の不調を人に訴えない。
 時折堪えられないのか、こうして表に出るが、祖父は大袈裟に取り合うのを嫌った。慎司も、老人の体に夏の熱気は堪えるのだろうと思っていた。このときは。
 誰か、と大声を上げると、慌てて駆けてくる幾つかの足音が聞こえる。



 日差しが目を射る。容赦の無い光に焼かれて、思考が黒く濁る。
 祖父の部屋を出て、勢いのまま玄関を出た慎司は立ち眩み、煉瓦造りの壁にもたれて、顔を俯けた。

 酷く泣きたい気持ちだった。
 怒りと悲しみが同時に襲ってきて、ただ感情が昂ぶって、何を考えればいいのかも分からない。千切れたような感情が、ぐるぐるとひたすら逆巻いている。

 ――守らなければ。
 唱えるというよりは、誓うというよりは、ただ実感を持って、その意識が心を浸す。
 分かっていたことだ。だけど、心のどこかで期待していたのかもしれない。
 いつも自分は、どこか甘いのだ。だけど今回ばかりは許せなかった。彼らが生きている限り、何も出来ないと痛感した。その事実が改めて体を縛った。

 あの人たちがあのままである限りは、本当に何一つ出来はしない。だからこそ他に何も無い。綾都以外には、何も無いのに。
 いずれは開ける道だから、耐えていればいいと思っていた。少しの辛抱だと思っていた。

 だけど今は待っている余裕が無い。
 何だと思っているのだ。綾都を、ぼくを。ぼくたちを。
 誰も頼れない。分かってなどくれない。
 この手でぼくが、何をしても、綾都を守らなければ。
 生きていけない。綾都もぼくも。