綾都が倒れました、と伝えたとき、祖父はいつもと変わらず大きな机の前に座していた。夏の日差しは強く、風も凪いで、頭の中までもが茹で上がりそうな日だった。
 洋風に設えられた東京の本宅で、英国から取り寄せた家具に囲まれて、彼はいつも書類を見ている。もう、無表情でそうなのだとしか思えない、厳しい顔で。

「霍乱か」
 顔も上げずに、積みあがった書物の向こうから言葉が返る。日射病のたぐいか、と。

「違います」
 いつものことだから、普段は少しも気にしないのに、慎司もこの日ばかりはそんな祖父の態度に苛立った。
 話をしているのは、他でもない孫である綾都のことなのに、倒れたと言っているのに、このいつもと変わらない様子は何だろう。

「医師に見ていただきました。自分では難しいと」
 嫌がる綾都を無理に引っ張って、あちらこちらの医師を訪ねた。誰もが申し訳なさそうに首を振る。今の日本では難しいだろうと。

「そうか」
 淡々と応えが返る。
「どこにいる」
「部屋で休んでいます」
「手立てはないのか」
「独逸に行けば、あるいは」
「洋行は構わん。お上も薦めておられるし、いずれはその必要もあるだろう。だが今その必要は無い」
 変わらない口調で言い切られ、慎司は愕然とし、今度は一気に血が引いて、体が冴えた。上下する感情の変化に、体が驚いて、眩暈がする。

 この人は、何を言っているのか。
 すぐには言葉を返せなかった。何を言っているのだろうか、目の前の老人は。

 必要ならある。否、海外に行くことが必要かどうかの話をしているのではない。綾都のために、何をすれば良いかという話をしているのであって、単に外へ行きたいわけではないのだ。

 何を履き違えているのかと驚き、同時に怒りが湧き上がってくる。慎司は、顔に血が集まるのを感じていた。熱い。夏の熱気のせいだけではない。顔が高潮している。

 本当に、分かっていないのか。
 慎司が単に、綾都と外へ出ていきたいだけだと思っているのか。ただの勘違いなのか。それともまだ、綾都を軽んじるつもりなのか。
 何を考えているのか分からない。どういう経緯で、祖父がそんな結論に辿り着いたのか分からない。理解できず、分からないということが気持ち悪かった。

 わざとでもない限り、病だ、治療のために海外に行かなければと口にされて、「必要ない」などと言うだろうか。
 財が無いわけでは決してない。手立てを持っていないわけではない。彼自身は座っているだけでも手配することが出来る、それなのに。

「今でなければならないんです。早ければ早いほど良いことです」
 わかりきったことを驚いたまま口にしたので、言葉に力が無かったかもしれない。
 そのようなことより、と祖父は言う。

「お前は、こちらに出てきてから、身元の卑しい人間とよく会っているようだが」
 言われて、また慎司は驚く。
 東京に出てきて、色んな人に会った。人伝に、絵描きに会う機会もあった。そういった物事についてたくさん語り合うことのできる知り合いも出来たが、勿論、家の人間に知られないようにと、気を配っていたはずだった。隠れてこそこそとやっていた事だった。

 もし知られれば、こんな風に言われるのが分かっていたから。
 そして慎司がそういった物事に触れられるように、家の人間に知られないように、誰よりも気を配ってくれたのは、綾都だった。

 けれど驚いたのは、それを相手が知っていたことにではない。今、そんな話はしていない。そんなことは、別のときにいくらでも責めればいい。そんなことは今、本当に、どうでもいい。
 何を言っているのだ、この人は。何を考えているのだ。

「その話なら、あとでお聞きします。今は綾都のことです」
 怒りを誘うのを承知で、慎司は強く言った。
 少しの間が空く。紙が触れる音と、祖父が何かの書付をする音が、微かに沈黙を彩っている。
 重く言葉が落ちた。

「自分の管理が出来ていないからそういうことになるのだろう」
「ぼくはともかく、綾都は、こちらに来ても、武芸の稽古を欠かしてはいません。決して、自堕落で倒れたわけではないのです」
「十分では無かったと言うことだろう」
 ゆっくりと、昂ぶっていた気持ちが引き始める。底知れない恐怖が胃の腑に重くわだかまり始める。

 この数歩の距離が、あまりにも遠い。同じ部屋に立っているとは思えない。祖父との間に、薄く、けれど強い膜が張っているかのようだ。その向こうとこちらに温度差を感じる。
 言葉が、意志が通じない。僅かの血の通った情意も感じられない。

 ずっと疑ってはいた。――知っていた。けれどそれが形を持って、事実が迫ってくる。

 父も、病で死んだと聞いていた。その時もこの人は、こんな風に言ったのだろうか。少しも慌てずに。否や、父は長男だから、慌てたかも知れない――いや、すでに慎司がいたから、やはり気にもとめなかったかも知れない。

「あきらめろ」
 顔も上げずに告げられた言葉だった。
 感情が冴えていった反動で、噴出すように、殺意が沸いた。
 ――だから今の表情を見られなかったのは、幸いかもしれなかった。どす黒く、醜い形相をしていただろう。
 けれどそれも束の間のことだった。