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黒い沼に水を擦り合わせる。水は滲み、黒が染み出し、濁りを帯びた光りを放つ。
硯に満ちた黒い波に、まろい手の握る筆が浸された。丁寧に筆先に墨を含ませ、白い紙の上に降ろす。柔らかな紙に触れると、黒い染みが落ちた。
迷いのない曲線は形を成していき、ましろな世界に命を吹き込んでいく。
その軌跡を横から見ていた少年は、形作られていくものに、感嘆の息を吐いた。
「椿」
紙面に、墨だけで描かれた椿の花。色彩のない世界に鮮やかさはないものの、ぱきりとした椿の、清涼な佇まいが静かに描き出されていた。
「うん。ちゃんと、椿に見えるかな」
「当たり前だ。うまいな、慎司は」
幼い少年の顔が華やかに笑う。
「綾、椿が好きでしょう」
うん、と今度は綾都が笑って応える。
「これ、すごく好きだ」
「もっとたくさん、色が使えたらいいのに」
慎司は、小さく嘆息してつぶやいた。
鮮やかな、赤。花弁に色を添えたい。そうしたら、もっと綺麗に咲いてくれるだろうに。色見のない自分のようではなく、命の明るさに溢れた綾都のように。
「俺はこれも好きだけど、確かに、色があっても綺麗だろうな」
絵の道具がほしいな、と悔しそうに綾都が言う。
外には雨が降っていた。開け放した戸から、さざめく様な音が忍び込んでくる。
降りしきる紅雨に、庭に満ち満ちた緑が、花が、土が、煙るような香りを漂わせていた。湿り気を帯びた、匂い香のように閉じ込められた空気だった。
軋む廊下を歩く足音が聞こえ、絵を描いていた慎司は、ぎくりと顔を上げる。筆を置き、座卓の上の紙を隠そうとしたが、失敗した。
慌てたせいで筆を置き損ね、黒い墨を吸った筆は、白い紙の上に咲いた花の上に落下した。無残な染みを残し、転がっていく。
姿を見せた老女は、その物音に、眉根を寄せた。
動きを止めた筆を見て、慎司の前に置かれたものを見た。
「慎司さん。またそのような」
少し癇の強さを滲ませた声が降る。
老いた女に姿勢の歪みも少しなく、背筋を伸ばして立っている。佇まいは品に溢れ、仕草は優美だ。
だけども彼女の姿は、気の強さを、折れ曲がることを知らない、許せない性格を感じさせる。声そのままの、神経質さの表れた顔立ちだった。
「すみません」
でも、と続けると、祖母は更に顔を顰めた。
不快、というわけではなく、不機嫌と言うわけではなく、ただつまらないことを耳にした、と言う顔だった。
「でも、などと。慎司さん。そのような、はしたない物言いをなさるものではありません」
少年は、ますますうなだれて、はい、と応える。
「あなたは、久我のお家を担って行かなければならないお人です。絵など描いて遊んでいる間に、たくさんやらければならないことがおありでしょう」
「……はい」
「書き取りは」
「終わりました」
隣に広げた論語の書籍と、ずっと続けていた書き取りを見せる。祖母はそれを認めても、良いとも悪いとも何も言わず、ただ、つと手を出した。
「お貸しなさい」
問うように、窺うように、そっと慎司が見上げる。相手の目線は彼の手元を見ている。
慎司は再び目を落とし、もう、すでに命を無くした椿の花を、祖母に渡した。
細く骨筋ばった手で、祖母はつまらなそうに受け取ると、そのまま紙を二つに切り裂いた。何の感慨もない表情で、無慈悲に。簡素な音が空気を細く乱す。
「せっかく、慎が描いたのに」
高い声が上がった。
背筋を伸ばし、座卓に手を突いて半ば膝立ちになった綾都が、鋭く続ける。
「きちんと、言われたことは終わらせていました。慎司は悪くありません」
「終わったなら、次にすべきことがある筈です。怠けてよろしいなどと言ってはおりません」
「でも、慎司には折角、才があるのに」
「そのような小才、役には立ちません」
「おばあ様に、小才かどうか、分かるのですか」
はきはきとした声で、綾都が言い返す。さすがに言い過ぎだ、と慎司は色白な頬を更に青褪めさせた。綾都の袖を引く。
けれど綾都は少しの怯んだところもなく、歪みない眼差しで祖母を見上げていた。
「綾都さん、あなたは黙ってらっしゃい」
祖母の眦が釣り上がる。
「どうしてですか」
「綾都さん」
声が乱れる。辛うじて、甲高く喚き散らしたものにならないのは、彼女の矜持からか。
「あなたは、久我の家の者であって久我の家の者ではありません。泥の血の混ざる子は、お黙りなさい」
慎司の顔がますます蒼白になる。対して、綾都は怒りに頬を染め、強く相手を睨みつけた。更に言葉を口にしようとするのを、慎司が必死に袖を引いて止める。
それにようやく気がついて、綾都は慎司を振り返った。そこにある怯えた、そして悲しそうな顔を見て、瞳に篭っていた怒りが引いた。腰を落とし、座り込む。
「口答えの罰です。二人とも、廊下に出て正座していらっしゃい」
しかしとうとう、祖母の勘気に触れてしまったようだった。雨の吹き込む渡廊を指して、彼女は言った。いつまで、とは言わない。
以前も、数刻もの間、同じように座らせられていたことがあった。冬の寒い最中に、凍えて立てなくなる程。
「お爺様にもお伝えしておきます。明日には戻っていらっしゃいますから」
祖父は、武士が刀を挿して歩いていた頃の、武家の人間だ。今は貿易などの事業を主に人間を動かしているが、元は武断の人だった。厳格で、融通の利かない、そして弱いものが嫌いな人だった。
かつて武家には絵も和歌も、たしなみであったはずなのに、それを教養のうちとは認めない。子供たちが自分の許容の内にないことをすれば、容赦なく打ち据えた。
祖母の言葉に、慎司の肩が震える。それを見て、今度は綾都が、悲しそうに、そして再びの怒りを込めて唇を噛み締めた。