*
「私は、間違ってない」
――あの時も、自分に言い聞かせるように口にしていたっけ。
アルバイトとして入社し、今の店で働き始めて早々、理不尽な理由で先代の店長から怒鳴られた。
他の店舗への助っ人に何度か行ったことがあった。しかし、そこで交通費はどうなるのかと店長に聞いても聞いておくよ、と一言だけ言われたっきりで当日まで何も言われなかった。その店の社員に事情を話すと、とりあえず小口現金からと渡された。
翌月、当時の店長が「交通費は給料と一緒に入ってるのにどうして受け取った? 給与明細に書いてあるんだからちゃんと読めよ! いつまでも子供だと思って仕事してんじゃねぇ!」と朝一番で怒鳴られたのだ。
その後もらった給与明細を確認したものの、元の交通費が上限を超えているため、書かれていた数字は定められた交通費の上限金額だけで確認できなかった。
そりゃあそうだ。当時から交通費は二千円もオーバーしてたんだから。
後日、また助っ人として呼ばれていくと、真っ先に社員が謝ってきた。
どうやら助っ人に呼ばれる前に店長と一度その話になったものの、曖昧のまま終わってしまったという。つまり、事前に社員が決めておくべきことが定まっていないうちに私が交通費を小口現金から受け取ったことで、会社の本部に指摘されたのだ。
入社して三か月も経たないうちに、とんだとばっちりを食らったことに苛立ちながら出勤すると、店長はとても晴れやかな顔をしていた。一方的に怒鳴ったことで、店長自身の気持ちがスッキリしたらしい。
それからというもの、店長とシフトが被ると毎度嫌味を言われ続けた。
何度もそれを繰り返しているうちに、怒られるのは自分の持ってる知識や技術がないからだと思い込むようになった。同じことを繰り返しては駄目だと思い、コーヒーの知識も先輩たちに教えてもらう他に自分で調べたり、調理師養成学校で学んだ食材の知識も見直して、自分が店でできることを広げるために全部やってきた。
費やした時間の分、スタッフの皆が頼ってくれて、更に良くなるように教えて貰ったり、逆に食材やデザートについて教えることもあった。
どれだけ店のことに時間を費やしたところで、簡単には変わらなかった。
ある日、店長から「調理学校を出ているならデザートを考えて」と言われて、試作を繰り返して指定されたものを渡すと、あたかも自分が作ったかのようにレシピも全て横取りにされた。
更に失敗したら「俺がやった方が良かった。使えない」と嘲笑われ、新しくアルバイトが入ってくると「久野は使えないからシフトの時間を削る。社会保険に入ってたよな、抜けろ」とまで言われた。
何か一つをしただけで全部を否定される日々。耐えてきたけど一年も経てば限界はとっくに超えていて、ストレスからくる吐き気や蕁麻疹が日に日に悪化していった。
しっかり休めといろんな人に言われても、頭の中では店長が「使えない」「辞めろ」と怒鳴り散らす声が繰り返される。仕事が終わってどんなに疲れていても、何度も睡魔が襲ってきても、眠ることが恐ろしくて、一睡もできずに仕事に行くことも少なくなかった。
そんな日々が続いていくうちに、いつの間にか自然と「死にたい」と口にすることが多くなった。
ある日、店長がお客様の前でミスを繰り返してスタッフ内の動線が混乱すると、なぜか私に飛び火して理不尽にお客様の前で怒鳴られたこともあって、より一層考えてしまうことがあった。
どうも腑に落ちない、モヤモヤとした感情のまま駅のホームで電車を待っていると、「回送電車が通過します」と駅構内のアナウンスが聞こえてきた。地下鉄だからか、遠くから聞こえる汽笛もよく響いている。
電車のライトがホームの線路を照らす。それを見て、不意に思ってしまったんだ。
「……飛び込んだら、全部終わりにできるじゃん」
考えることを止めれば、悩む必要も無くなる。何もしなければ怒鳴られることも、否定されることもない。
――なんて素敵なことでしょう!
気付けば私は嗤っていた。
一瞬の不本意が頭を過ぎっただけで、対して何も意味がないこともわかっていながらも、吸い込まれるようにホームの線路に一歩ずつ足を進める。
黄色の点字ブロックの上で止まると、電車が入ってくるタイミングを見計らう。一歩踏み込んで飛び出せば、電車に衝突することができる位置だ。
離れてください、とアナウンスが流れる。電車のライトはもう目の前の線路を照らしていた。
私は片足を前に出して、点字ブロックを越える。
近くにいた電車待ちの人も駅員も、誰も私が飛び出そうとしているのに気付かなかった。
これで全部終わる。幻聴で眠れない夜も、怒鳴られる明日も来ない。――はずだった。
『――――』
何かが聞こえたその瞬間、私の腕を誰かが強く掴んだ。
そのまま後ろに引っ張られたかと思うと、浮いていた片足は点字ブロックの上を跳び越すことなく、体と一緒に下がっていく。その勢いは止まることなく、反動的に私は後ろに倒れ、尻餅をつくように座り込んだ。
顔を上げたと同時に、目の前を倉庫に向かう回送電車が通り過ぎていった。
ガタンガタン、とホームに電車が通り過ぎるが響く中、駆け寄ってきた駅員が「大丈夫ですか」と切羽詰まった声で聞いてくる。私は何も答えることができず、ただ飛び込めなかったことへの後悔が押し寄せてきて、その場に塞ぎ込む。
終わりにできなかった。
明日もまた同じように店長から怒鳴られる。使えないと嗤われる。
そうやってまた、明日も点字ブロックを越えたくなるのか。
明日がまた続くのかと思うだけで怖くて、息ができなくなる。
辛い、逃げたい、辞めてしまいたい。
できるなら、できるなら私なんかが居なかったことになればいい!
追い詰められた自分の脆さと、明日が始まる恐怖から涙がぼろぼろと零れる。まるで今日まで溜め込んできたことを全て吐き出しているみたいで、何度拭っても溢れてくる。
気分が悪くなったと思ったのか、駅員が腕を掴んで引っ張って近くのベンチに座らせてくれると、ペットボトルの水を買って渡してくれた。
涙も止まって呼吸も整ってきた頃には、もう一度ホームに飛び出す気にはなれなかった。不安定な精神の中、どこかで後悔している自分が引き留めていたのかもしれない。
心配してくれた駅員さんに「貧血でふらついてしまった」と嘘をついて事なきを終えると、いつも通り乗っている電車に乗った。
揺られながらスマートフォンを開くと、今までされてきたことを箇条書きながらも書き出して、そのまま会社の人事部にメールを送った。
これが吉と出るかはわからなかったけど、私の中では少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
数日後、人事部の社員と面談することになってすべてを話した。一度会社に持ち帰られたが、パワハラとして取り扱われることになって、店長には会社から厳重注意が出た。
人事部曰く、今回の件について店長は「あれがパワハラだと思っていない」ととても驚いた表情をしていたという。
このご時世、どんな言葉で人が傷ついているのかなどを考えない、自分勝手な発言者が多すぎる。「少し脅かせば言う通りに動く」だなんて考え方が、そもそも問題であることになぜ気付かないのだろう。
店長と会社の間でどんなやり取りをしていたかはわからない。元々翌月後には退職予定だったこともあって、暫くすると店長は給料どころか、退職金もたんまり貰って笑顔で辞めていった。
こんな終わり方を不服と思う私は、おかしいだろうか。
「私は、間違ってない」
――あの時も、自分に言い聞かせるように口にしていたっけ。
アルバイトとして入社し、今の店で働き始めて早々、理不尽な理由で先代の店長から怒鳴られた。
他の店舗への助っ人に何度か行ったことがあった。しかし、そこで交通費はどうなるのかと店長に聞いても聞いておくよ、と一言だけ言われたっきりで当日まで何も言われなかった。その店の社員に事情を話すと、とりあえず小口現金からと渡された。
翌月、当時の店長が「交通費は給料と一緒に入ってるのにどうして受け取った? 給与明細に書いてあるんだからちゃんと読めよ! いつまでも子供だと思って仕事してんじゃねぇ!」と朝一番で怒鳴られたのだ。
その後もらった給与明細を確認したものの、元の交通費が上限を超えているため、書かれていた数字は定められた交通費の上限金額だけで確認できなかった。
そりゃあそうだ。当時から交通費は二千円もオーバーしてたんだから。
後日、また助っ人として呼ばれていくと、真っ先に社員が謝ってきた。
どうやら助っ人に呼ばれる前に店長と一度その話になったものの、曖昧のまま終わってしまったという。つまり、事前に社員が決めておくべきことが定まっていないうちに私が交通費を小口現金から受け取ったことで、会社の本部に指摘されたのだ。
入社して三か月も経たないうちに、とんだとばっちりを食らったことに苛立ちながら出勤すると、店長はとても晴れやかな顔をしていた。一方的に怒鳴ったことで、店長自身の気持ちがスッキリしたらしい。
それからというもの、店長とシフトが被ると毎度嫌味を言われ続けた。
何度もそれを繰り返しているうちに、怒られるのは自分の持ってる知識や技術がないからだと思い込むようになった。同じことを繰り返しては駄目だと思い、コーヒーの知識も先輩たちに教えてもらう他に自分で調べたり、調理師養成学校で学んだ食材の知識も見直して、自分が店でできることを広げるために全部やってきた。
費やした時間の分、スタッフの皆が頼ってくれて、更に良くなるように教えて貰ったり、逆に食材やデザートについて教えることもあった。
どれだけ店のことに時間を費やしたところで、簡単には変わらなかった。
ある日、店長から「調理学校を出ているならデザートを考えて」と言われて、試作を繰り返して指定されたものを渡すと、あたかも自分が作ったかのようにレシピも全て横取りにされた。
更に失敗したら「俺がやった方が良かった。使えない」と嘲笑われ、新しくアルバイトが入ってくると「久野は使えないからシフトの時間を削る。社会保険に入ってたよな、抜けろ」とまで言われた。
何か一つをしただけで全部を否定される日々。耐えてきたけど一年も経てば限界はとっくに超えていて、ストレスからくる吐き気や蕁麻疹が日に日に悪化していった。
しっかり休めといろんな人に言われても、頭の中では店長が「使えない」「辞めろ」と怒鳴り散らす声が繰り返される。仕事が終わってどんなに疲れていても、何度も睡魔が襲ってきても、眠ることが恐ろしくて、一睡もできずに仕事に行くことも少なくなかった。
そんな日々が続いていくうちに、いつの間にか自然と「死にたい」と口にすることが多くなった。
ある日、店長がお客様の前でミスを繰り返してスタッフ内の動線が混乱すると、なぜか私に飛び火して理不尽にお客様の前で怒鳴られたこともあって、より一層考えてしまうことがあった。
どうも腑に落ちない、モヤモヤとした感情のまま駅のホームで電車を待っていると、「回送電車が通過します」と駅構内のアナウンスが聞こえてきた。地下鉄だからか、遠くから聞こえる汽笛もよく響いている。
電車のライトがホームの線路を照らす。それを見て、不意に思ってしまったんだ。
「……飛び込んだら、全部終わりにできるじゃん」
考えることを止めれば、悩む必要も無くなる。何もしなければ怒鳴られることも、否定されることもない。
――なんて素敵なことでしょう!
気付けば私は嗤っていた。
一瞬の不本意が頭を過ぎっただけで、対して何も意味がないこともわかっていながらも、吸い込まれるようにホームの線路に一歩ずつ足を進める。
黄色の点字ブロックの上で止まると、電車が入ってくるタイミングを見計らう。一歩踏み込んで飛び出せば、電車に衝突することができる位置だ。
離れてください、とアナウンスが流れる。電車のライトはもう目の前の線路を照らしていた。
私は片足を前に出して、点字ブロックを越える。
近くにいた電車待ちの人も駅員も、誰も私が飛び出そうとしているのに気付かなかった。
これで全部終わる。幻聴で眠れない夜も、怒鳴られる明日も来ない。――はずだった。
『――――』
何かが聞こえたその瞬間、私の腕を誰かが強く掴んだ。
そのまま後ろに引っ張られたかと思うと、浮いていた片足は点字ブロックの上を跳び越すことなく、体と一緒に下がっていく。その勢いは止まることなく、反動的に私は後ろに倒れ、尻餅をつくように座り込んだ。
顔を上げたと同時に、目の前を倉庫に向かう回送電車が通り過ぎていった。
ガタンガタン、とホームに電車が通り過ぎるが響く中、駆け寄ってきた駅員が「大丈夫ですか」と切羽詰まった声で聞いてくる。私は何も答えることができず、ただ飛び込めなかったことへの後悔が押し寄せてきて、その場に塞ぎ込む。
終わりにできなかった。
明日もまた同じように店長から怒鳴られる。使えないと嗤われる。
そうやってまた、明日も点字ブロックを越えたくなるのか。
明日がまた続くのかと思うだけで怖くて、息ができなくなる。
辛い、逃げたい、辞めてしまいたい。
できるなら、できるなら私なんかが居なかったことになればいい!
追い詰められた自分の脆さと、明日が始まる恐怖から涙がぼろぼろと零れる。まるで今日まで溜め込んできたことを全て吐き出しているみたいで、何度拭っても溢れてくる。
気分が悪くなったと思ったのか、駅員が腕を掴んで引っ張って近くのベンチに座らせてくれると、ペットボトルの水を買って渡してくれた。
涙も止まって呼吸も整ってきた頃には、もう一度ホームに飛び出す気にはなれなかった。不安定な精神の中、どこかで後悔している自分が引き留めていたのかもしれない。
心配してくれた駅員さんに「貧血でふらついてしまった」と嘘をついて事なきを終えると、いつも通り乗っている電車に乗った。
揺られながらスマートフォンを開くと、今までされてきたことを箇条書きながらも書き出して、そのまま会社の人事部にメールを送った。
これが吉と出るかはわからなかったけど、私の中では少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
数日後、人事部の社員と面談することになってすべてを話した。一度会社に持ち帰られたが、パワハラとして取り扱われることになって、店長には会社から厳重注意が出た。
人事部曰く、今回の件について店長は「あれがパワハラだと思っていない」ととても驚いた表情をしていたという。
このご時世、どんな言葉で人が傷ついているのかなどを考えない、自分勝手な発言者が多すぎる。「少し脅かせば言う通りに動く」だなんて考え方が、そもそも問題であることになぜ気付かないのだろう。
店長と会社の間でどんなやり取りをしていたかはわからない。元々翌月後には退職予定だったこともあって、暫くすると店長は給料どころか、退職金もたんまり貰って笑顔で辞めていった。
こんな終わり方を不服と思う私は、おかしいだろうか。