***
正面玄関ではすでに二つの陣営が向かい合っていた。
御蔭寮陣営の中心に立つのは更紗さん。彼女を守るように左右背後に控えたオペレーションRの戦闘要員たちは、腕組みをして敵陣営をにらみ据えている。
対する熊野寮陣営は、一段下がった靴脱ぎに居並んでフォーメーションを組んでいた。
更紗さんはにっこり微笑んだ。まるで甘く熟れた毒林檎。香り高い誘惑に満ちた、危険な笑みだ。
「あら、寮長たるわたくしを呼び付けておきながら、そちらは熊野寮長さん直々のお越しではないのね。あなたは確か、渡辺さんだったかしら」
熊野寮陣営の今次の突撃隊長は、見覚えのある男だった。スクエア型のメガネを掛けた、いかにも癖の強そうな風貌。したたかな策略家で、御蔭寮は過去に一度、彼に寄って痛い目にあわされている。
去年、御蔭寮における放送室争奪戦の際、渡辺は寮住まいの幽霊の前で、禁則武器であるトウガラシ爆弾をちらつかせた。幽霊はそれを告発。協議の結果、渡辺は爆弾を使わなかったから罪に問われず、御蔭寮はY2条約違反による失格を言い渡された。
渡辺は芝居がかった仕草で手を胸に当て、浅いお辞儀をしてみせた。
「不満そうな顔をなさるな、御蔭寮長どの。熊野寮長は、自分がまもなくその座に収まる。今の寮長の座を奪ってな」
「クーデターということかしら」
「自分こそが寮長にふさわしいからだ。実力もないのに寮長の座に居座るほうが不自然というもの」
「今の熊野寮長が実力不足だなんて、わたくしは思いませんけれど」
「熊野寮は武断派でね。生ぬるい退屈を是とする今の寮長は、われわれ寮生と反りが合わんのだ」
沖田は焦れたようにわたしの袖《そで》を引いた。
「これは何の茶番なんだ?」
「寮間戦争っていう本気の遊びだよ」
「遊び?」
「本気のね。真正面から対等な条件でぶつかり合って競うの。缶蹴りとか陣取り合戦とか隠れんぼとか、雪が降ったら雪合戦とか、競技はいろいろあるけど」
「何それ」
「だから、寮間戦争。今日はオペレーションRだからレース、つまり競走。ロの字になってる御蔭寮の一階廊下を先に三十週したほうが勝ちの、雑巾がけ競走」
沖田はぽかんと口を開けた。
「雑巾がけ競走?」
「そう」
「そんな遊びが、襲撃?」
「そう。ちなみに、寮間戦争は三つの寮の間でおこなってるんだけど、勝ち星を二つそろえれば、自分が所属するところの寮長に交代を迫ることができるの。今回攻めてきたあいつは、そうやって今の熊野寮長を追い落とそうと考えてるみたい」
大学周辺にはいくつか寮がある。寮間戦争をおこなうのは、御蔭寮と吉田寮と熊野寮の三陣営だ。
三つ巴の寮の間には戦争があるだけでなく、交易もおこなわれている。扱う品目は、各寮の農園や工房で生産したもの。寮は百年来の栄励気の吹き溜まりだから、表から見える姿よりずっと広大だ。最大面積を誇る吉田寮なんか、裏山で狩りができる。
今、熊野寮の突撃部隊は、カゴいっぱいの卵を持参している。もちろん、熊野寮の牧場で採れたものだ。雑巾がけ競走に負けたらこれを置いていく、というわけ。逆に御蔭寮が負けたら、さて何を要求されるやら。
沖田は頬を掻いた。
「道場破りごっこっていうところ?」
「たとえ破られたとしても看板は下ろさないから、他流試合の定期戦かな」
「他流試合か。負けたら道場の名折れだっていう意地も、それなりにあったりするわけだ」
「負けるよりは勝ちたいと思ってるよ。わたしはそう熱心なほうじゃないけど、更紗さんは毎回本気だし」
沖田は力の抜けた笑い方をした。ははっと軽やかな声まで上げた。
「更紗さんって人は、近藤さんみたいだ。首や金を賭けてるわけでもないのに、全力でさ。あんたはおれと似てるかな」
近藤さん。
新撰組局長、近藤勇《こんどう・いさみ》のことだ。
「江戸の試衛館で、そんな出来事があったの?」
「他流試合ならしょっちゅうやっていた。あのころの江戸は剣術道場があちこちにあって、誰もが腕自慢の名乗りを上げていた」
「山南さんも他流試合がきっかけで試衛館に合流したんでしょう?」
沖田はうなずいた。
「おれたちのこと、あんたはよく知っているんだな」
「有名だから。新撰組」
「悪名高いんだろ? 薄汚い狼の群れだって」
「そうでもないよ。正義の味方って認識でもないけど」
沖田は右の手のひらを開いた。なつかしい手紙でも読み返すように、沖田は手のひらへと柔らかな視線を落とす。
その手は、剣客の手だ。皮が厚くて硬くて、ざらざらしている。わたしはそれを知っている。沖田が熱を出している間に、何度か触れてしまった。
「おれたちは、訓練の行き届いた軍団なんかじゃなくてね。近藤さんから教えを受けた天然理心流の使い手は、おれと土方さんと井上さんだけ。ほかはみんなばらばらだった。でも、だからこそ、うまく噛み合っていた」
「江戸にいたころのこと?」
「そうだね。おれたちが新撰組や浪士組っていう名前を持たなかったころ。京都に行くなんて思い描いてもいなかった。日がな一日、木刀を振り回して稽古をして、強くなれることが、ただ楽しかった」
正面玄関ではすでに二つの陣営が向かい合っていた。
御蔭寮陣営の中心に立つのは更紗さん。彼女を守るように左右背後に控えたオペレーションRの戦闘要員たちは、腕組みをして敵陣営をにらみ据えている。
対する熊野寮陣営は、一段下がった靴脱ぎに居並んでフォーメーションを組んでいた。
更紗さんはにっこり微笑んだ。まるで甘く熟れた毒林檎。香り高い誘惑に満ちた、危険な笑みだ。
「あら、寮長たるわたくしを呼び付けておきながら、そちらは熊野寮長さん直々のお越しではないのね。あなたは確か、渡辺さんだったかしら」
熊野寮陣営の今次の突撃隊長は、見覚えのある男だった。スクエア型のメガネを掛けた、いかにも癖の強そうな風貌。したたかな策略家で、御蔭寮は過去に一度、彼に寄って痛い目にあわされている。
去年、御蔭寮における放送室争奪戦の際、渡辺は寮住まいの幽霊の前で、禁則武器であるトウガラシ爆弾をちらつかせた。幽霊はそれを告発。協議の結果、渡辺は爆弾を使わなかったから罪に問われず、御蔭寮はY2条約違反による失格を言い渡された。
渡辺は芝居がかった仕草で手を胸に当て、浅いお辞儀をしてみせた。
「不満そうな顔をなさるな、御蔭寮長どの。熊野寮長は、自分がまもなくその座に収まる。今の寮長の座を奪ってな」
「クーデターということかしら」
「自分こそが寮長にふさわしいからだ。実力もないのに寮長の座に居座るほうが不自然というもの」
「今の熊野寮長が実力不足だなんて、わたくしは思いませんけれど」
「熊野寮は武断派でね。生ぬるい退屈を是とする今の寮長は、われわれ寮生と反りが合わんのだ」
沖田は焦れたようにわたしの袖《そで》を引いた。
「これは何の茶番なんだ?」
「寮間戦争っていう本気の遊びだよ」
「遊び?」
「本気のね。真正面から対等な条件でぶつかり合って競うの。缶蹴りとか陣取り合戦とか隠れんぼとか、雪が降ったら雪合戦とか、競技はいろいろあるけど」
「何それ」
「だから、寮間戦争。今日はオペレーションRだからレース、つまり競走。ロの字になってる御蔭寮の一階廊下を先に三十週したほうが勝ちの、雑巾がけ競走」
沖田はぽかんと口を開けた。
「雑巾がけ競走?」
「そう」
「そんな遊びが、襲撃?」
「そう。ちなみに、寮間戦争は三つの寮の間でおこなってるんだけど、勝ち星を二つそろえれば、自分が所属するところの寮長に交代を迫ることができるの。今回攻めてきたあいつは、そうやって今の熊野寮長を追い落とそうと考えてるみたい」
大学周辺にはいくつか寮がある。寮間戦争をおこなうのは、御蔭寮と吉田寮と熊野寮の三陣営だ。
三つ巴の寮の間には戦争があるだけでなく、交易もおこなわれている。扱う品目は、各寮の農園や工房で生産したもの。寮は百年来の栄励気の吹き溜まりだから、表から見える姿よりずっと広大だ。最大面積を誇る吉田寮なんか、裏山で狩りができる。
今、熊野寮の突撃部隊は、カゴいっぱいの卵を持参している。もちろん、熊野寮の牧場で採れたものだ。雑巾がけ競走に負けたらこれを置いていく、というわけ。逆に御蔭寮が負けたら、さて何を要求されるやら。
沖田は頬を掻いた。
「道場破りごっこっていうところ?」
「たとえ破られたとしても看板は下ろさないから、他流試合の定期戦かな」
「他流試合か。負けたら道場の名折れだっていう意地も、それなりにあったりするわけだ」
「負けるよりは勝ちたいと思ってるよ。わたしはそう熱心なほうじゃないけど、更紗さんは毎回本気だし」
沖田は力の抜けた笑い方をした。ははっと軽やかな声まで上げた。
「更紗さんって人は、近藤さんみたいだ。首や金を賭けてるわけでもないのに、全力でさ。あんたはおれと似てるかな」
近藤さん。
新撰組局長、近藤勇《こんどう・いさみ》のことだ。
「江戸の試衛館で、そんな出来事があったの?」
「他流試合ならしょっちゅうやっていた。あのころの江戸は剣術道場があちこちにあって、誰もが腕自慢の名乗りを上げていた」
「山南さんも他流試合がきっかけで試衛館に合流したんでしょう?」
沖田はうなずいた。
「おれたちのこと、あんたはよく知っているんだな」
「有名だから。新撰組」
「悪名高いんだろ? 薄汚い狼の群れだって」
「そうでもないよ。正義の味方って認識でもないけど」
沖田は右の手のひらを開いた。なつかしい手紙でも読み返すように、沖田は手のひらへと柔らかな視線を落とす。
その手は、剣客の手だ。皮が厚くて硬くて、ざらざらしている。わたしはそれを知っている。沖田が熱を出している間に、何度か触れてしまった。
「おれたちは、訓練の行き届いた軍団なんかじゃなくてね。近藤さんから教えを受けた天然理心流の使い手は、おれと土方さんと井上さんだけ。ほかはみんなばらばらだった。でも、だからこそ、うまく噛み合っていた」
「江戸にいたころのこと?」
「そうだね。おれたちが新撰組や浪士組っていう名前を持たなかったころ。京都に行くなんて思い描いてもいなかった。日がな一日、木刀を振り回して稽古をして、強くなれることが、ただ楽しかった」