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 寮を出るときから、巡野は機嫌がよかった。金曜のお昼はいつもだ。
 十三時に間に合うように、北白川にある集賢閣《しゅうけんかく》に向かっている。集賢閣は大学の附属施設だ。大正年間に建てられた洋館で、建物のほぼ全体が書庫として機能している。
 疎水沿いの桜並木の下を、わたしと巡野は並んで歩いた。

「わたしが先生の部屋で手伝いをしてる間、きみは何してるの?」
「何って、書庫をうろうろしているだけです。気になる本があれば読んでみたり」

「集賢閣の本は持ち出し禁止だから、読書には不自由でしょ。途中でやめなきゃいけない」
「全部読めなくったっていいんです。僕は生きた研究者ではありません。気が向いたときに気が向いたものを読むだけの、根拠薄弱な幽霊に過ぎないんですよ」

 巡野はさらさらした髪を掻き上げた。生意気そうな流し目は、ばしばしに長いまつげに縁どられている。
 鼻歌でも歌いそうなご機嫌な横顔は、不自然に白い。紅葉した桜並木の下を歩いても、巡野には影が落ちないのだ。木漏れ日は巡野の体を素通りして、地面の上で揺れている。巡野自身の影もない。

 巡野は誰にでも見えるし、食事もする。その気になれば姿を消したり壁を通り抜けたりできるが、めったにやらない。生身の人間であるかのように振る舞いたがる。そのくせ、幽霊であることを隠すわけでもない。変なやつだ。

 対面から自転車がやって来た。リンリン、とベルを鳴らして漕いでくる。近所の主婦だろうか。北白川の疎水沿いには、古くからの大きな家が多い。大学のそばではあっても、学生向けのマンションはほぼない。

 左右に分かれて道を譲ろうとしたら、巡野に腕を引かれた。分厚い綿入れ越しにも、巡野の手の冷えた感触が伝わってきた。

 すれ違いざま、自転車の女性が、じーっと巡野の顔を見ていった。目が釘付けにされたのかもしれない。巡野は確かにきれいな顔をしているが、あまりに人目を惹きすぎるところはちょっと呪いじみている。

「腕、離して」
「なぜです?」
「逆に訊くけど、なぜつかんだままなの?」
「肉の感触が心地よいので」
「この野郎!」

 わたしは黙ってトートバッグで巡野をぶん殴った。ぼすっと手応え。巡野は声を立てずに笑っている。
 巡野はしつこくわたしの腕をつかんだまま歩き出した。

「さなはもっと肉が付いてもいいくらいですよ。初めて会ったときに比べれば、ずいぶんマシになりましたが」
「マシって」
「僕は、女性は肉感的なくらいのほうが好きですから」
「きみの好みはどうでもいい。ねえ、腕、冷たい」
 わたしの苦情を、巡野はにこやかに無視した。