【改稿版】ハージェント家の天使

 そして、流星群の日の夜。
 屋敷で夕食を済ませたモニカとマキウスは、アマンテにニコラを預けると、馬車に揺られて、鬱蒼とした木々に囲まれた小高い丘にやってきたのだった。

「マキウス様、ここは……?」
「私たちのお気に入りの場所です」

 厳密に言えば、ここはブーゲンビリア家が所有する土地の一つであり、今は木々が生い茂っているだけのただの小高い丘になっているらしい。
 モニカは魔力で灯した明かりを持ったマキウスの手を借りつつ、舗装されていない、剥き出しの土の道を歩いて、丘を登っていた。

「私が子供の頃、この近くにはブーゲンビリア侯爵家が所有する小さな屋敷が建っていました。夏にはペルラたちに連れられて、姉上と一緒に避暑に来ていました」
「この世界にも夏があるんですね」
「この国の季節も天気と同じで、地上に住んでいた頃を忘れない様に、夏や冬があります。夏は日照りが続いて暑く、冬は雪が降って寒く、それ以外の季節はその中間の気候といえばいいのでしょうか」
「私の世界と同じなんですね……」
「貴女の世界にも夏や冬があるんですね」

 マキウスは感心した様な顔をしつつも、丘を登る足を止めることなく教えてくれたのだった。

「毎年、夏の時期になると、私と姉上の母上は体調を崩して寝込んでいました。夏にも流星群の日がありますが、基本的に流星群の前後は父上も騎士団の仕事で忙しく、夜遅くに帰宅していました。
 ですが、私や姉上、アマンテやアガタといった子供たちは体力を持て余しており、屋敷で騒がしくしていました。そこで、母上たちの療養の妨げになるからと、夏の間はペルラたちに連れられて、この地に連れてこられたんです」
 
 マキウスがまだブーゲンビリア侯爵家にいた頃。
 夏の間も、姉弟の父親である侯爵は騎士団に所属していたので、季節に関係なく、なかなか休みが取れなかったらしい。
 また、マキウスの母親は身体が弱いので屋敷から出られず、ヴィオーラの母親も夏場は体調を崩し気味で、屋敷から出られなかった。
 けれども、子供たちは元気を持て余していたので、夏場も関係なく屋敷の内外で遊び回っていたらしい。
 そんな子供たちが母親たちの療養の邪魔にならないように、夏場は姉弟の乳母であるペルラと、ペルラの夫のセルボーンに連れられて、この屋敷に来ていたとのことだった。
 
「この辺りは昔から自然に溢れており、私たちは毎日この森で遊んでいました。……最も、私は虫と日焼けが嫌いだったので、屋敷で本を読んでいたかったのですが、姉上が連れ回すので仕方なく」
「……女の子みたいだったんですね。マキウス様」

 モニカの呟きに言葉が詰まったマキウスだったが、すぐに返してきたのだった。

「……子供の頃は、日焼けすると肌が赤く腫れるから嫌だったんです」

 やはり恥ずかしかったのだろうか。
 いつもより早口で話したマキウスに、モニカが小さく笑っていると、マキウスはすぐに話しを続けたのだった。
「ここに来ていたある年の夏。私と姉上は、一緒に遊んでいたアマンテたちとはぐれて、森の中で迷子になってしまいました。
 ずっと泣いている私の手を、姉上が叱咤しながら引いてくれて、私たちは森の中を歩いていきました」
「泣いているマキウス様と、そんなマキウス様を励ますお姉様の姿が想像出来ます」
「最終的には、姉上も私に釣られて泣いていました。……それでも、私の手を離すことは決して無かった」

 泣きべそを掻く幼少期のマキウスと、そんなマキウスを「しっかりしなさい!」と叱咤しつつ、自分も辛いのをグッと堪える幼少期のヴィオーラの姿が想像出来て、モニカは微笑ましい気持ちになる。

「やがて、私たちは森を抜けて、丘の上に出ました。森で迷子になった私たちでしたが、いつの間にか森を抜けて、丘の頂上に出ていたんです」

 そうして迷子になった幼き頃の姉弟が辿り着いた丘の頂上は、見晴らしの良い開けた場所となっていた。
 周りに木々はなく、草原の様に草花に覆われて、どこよりも空を見渡せる様な場所になっていたのだった。

「森で迷子になった日も、流星群の日でした。私たちは迷子になったのも忘れて、すっかり星々に魅入ってしまいました」
 
 その日は、たまたま流星群がピークの日であった。
 絶え間なく丸い空を流れる流星群だけでなく、丘に咲いていた夜咲きの花までもが、星々に釣られて輝いている様に見えた。
 そんな幻想的な光景を前に泣いていたマキウスも、マキウスに釣られて泣いていたヴィオーラも、時間も、迷子になったのも忘れて、二人はペルラが探しに来るまで、ずっと見惚れていたのだった。
 
「それから、ペルラに丘の頂上への行き方を聞いた私たちは、毎年、流星群の日はここにやって来ました」

 姉弟はたまたまこの場所にやってきたが、屋敷からこの場所まで、舗装されてはいないが一応、道があった。
 それが今、モニカたちが登っている道だった。

「ペルラによると、元々、私たち姉弟や父上のずっと前の代のブーゲンビリア侯爵は、今私たちが向かっている丘の頂上に、別荘となる屋敷を建てるつもりで、この地を買い取ったそうです。
 けれども、毎年、丘の頂上までやって来るのに丘を登る必要があったのと、また屋敷を建てるのに森の木々を伐採する必要があったことから、周囲の反対にあったそうです。
 それで、結局、丘の頂上に屋敷は建てず、何もない開けた場所だけが残ったそうです」

 丘の頂上に屋敷を建てることを反対された当時のブーゲンビリア侯爵は、その後、丘の麓に小さな屋敷を建てた。
 それが、マキウスたちが夏場に来ていたという屋敷だったらしい。

「ですが、その屋敷も、老朽化が激しく、もう使用する者がいないからと、何年か前に、亡くなった父上の跡を継いで、ブーゲンビリア侯爵となった姉上の母上ーー先のブーゲンビリア侯爵夫人の命令で、取り壊してしまったそうです」
「そうだったんですね……。うわぁ!」

 モニカが地面の窪みに足を取られて転びかけると、すかさずマキウスが腕を引いて、助け起こしてくれた。

「気をつけて下さい。この辺りは暗いので、視界が悪いんです。私たちは夜目が効きますが、貴女たちはそうではないでしょう」
「そうですね……。すみません。ありがとうございました」

 身体能力が高いマキウスたちは夜目が効くらしいが、モニカにはほとんど何も見えなかった。
 ただ薄っすらと木々の形が見えるだけで。
 モニカはマキウスに引っ張られるようにして、丘を登ったのだった。
 
「着きました。ここです」
「ここですか……わぁ!」
 マキウスに連れられてやって来た丘の上は、草花が生えているだけの見晴らしの良い場所だった。
 空を見上げると、幾千もの星々が輝く星空が、視界一杯に広がっていた。
 周囲に明かりがないので、これなら糠星(ぬかぼし)まで見えそうだった。

「綺麗ですね。星空もよく見えます」

 元の世界でもなかなか見られなかった壮麗な夜空に弾んだ声を上げると、モニカは無意識の内に歩き出そうとしていた。
 そんなモニカの腕を、マキウスは掴んだのだった。

「そうやって、上を見上げたまま歩いたら危険です。万が一、石に躓いて、転んで怪我でもしたらどうするんですか?」
「そうですよね……。すみません」

 肩を落としたモニカに、マキウスは「いえ」と首を振ったのだった。

「怒っている訳では無いんです。ただ、頭上で輝く星々にも負けない美しさを持つ、可憐な金の花に怪我でも負わせてしまったらと思うと、私がどうにかなってしまいそうだったので」
「えっと……。頭上の星々に負けない美しさ? 可憐な金の花?」

 立て板に水の様に、淀みなくスラスラと話したマキウスについていけず、反芻することしか出来なかったモニカだったが、そんなモニカを気にする様子もなく、マキウスは一点を示した。

「あの辺りに座りましょう」

 モニカはマキウスに腕を引かれると、丘の一角に連れて行かれた。
 そうしてマキウスは懐からハンカチを取り出すと、草の上に敷いてくれたのだった。

「ここに座って下さい」
「でも、マキウス様はどうするんですか?」
「私は直接地面に座るので、気にしないで下さい。昔と違って、今は虫は平気ですので」
「そ、そうですか……」

 そうは言いつつも、魔力の明かりに照らされたマキウスの顔が、いつもよりやや青く見えたのは気のせいだろうか。

(本当に平気なのかな……?)

 モニカは苦笑しつつも、マキウスの言葉に甘えて、そっとハンカチの上に座ったのだった。

「寒くはありませんか?」
「大丈夫です。マキウス様は?」
「私も大丈夫です」

 モニカの隣に座ったマキウスが、気遣う様に声を掛けてくれる。
 そんな気遣いに胸が温かくなっていると、マキウスは持っていた魔力の明かりをそっと消した。
 周囲が暗くなると、二人を包む光は、天上で輝く幾千幾万もの星々だけとなったのだった。

 二人はしばらく無言で夜空を流れて行く星々を眺めていたが、やがて「やっぱり……」とモニカは口を開いた。

「寒くなってきたので、近くに行ってもいいですか?」

 おずおずと声を掛けると、マキウスはすぐに頷いてくれる。

「勿論です。それなら、私が近くに行ってもいいですか?」
「はい!」

 モニカが頷くと、マキウスはそっと近づいてきた。
 肩がぴったりとくっつくところまで、マキウスは近づいてくると、二人はまた空を眺めたのだった。

「綺麗ですね」
「そうですね」

 流星群はピークに達してきたようで、一つ、また一つと、方角に関係なく、空には幾千の星々が流れていったのだった。
「私がいた世界では、『疲れている時ほど、空を見上げなさい』っていう言葉があります。下ばかり見ていないで、上を見なさい。普段は気づけないものが、そこにはあるからと」

 何の本に書かれていたかは忘れてしまったが、確か、星空に関する写真集に添えられていた一文だった気がする。

 疲れている時や忙しい時など、心に余裕がない時ほど、空を見上げてひと息つきなさい。
 そこに答えがあるかもしれない。解決の糸口が見つかるかもしれないから。
 そんな意味だったと思う。

「良い言葉ですね」
「そうですよね!」
「この世界で暮らし始めた頃、慣れない生活に余裕が無くなって、空を見上げない日が続いていました。これまでも、もしかしたら、流星群の日はあったかもしれないのに……。そう考えたら惜しい気持ちになって、その時にこの言葉を思い出したんです」

 モニカが元いた世界でも、流星群はあったが、その時の天候や時間帯の関係で、必ずしも毎年見られる訳ではなかった。
 それが、この世界では毎年必ず見ることが出来る。それも自分の目で。
 人工的に生み出された星々とはいえ、本物と瓜二つの流星群を観ないのは、損した気持ちになったのだった。

「空を眺める余裕がないくらいに、目の前のことに手一杯になっていたんです。この言葉を思い出してからは、常に空を見上げられるくらいの余裕を持つ様にしています。そうすれば、いざ何かあった時、正常な判断を下せると思うので」

 常に心に余裕を持たなければ、人は思考力や判断力が狭まり、正しい答えに辿り着くことは出来ない。
 この言葉は、疲れている時ほど空を見上げて、心にゆとりを取り戻すようにしなさいという教えの様だと思った。

「貴女が目の前のことに手一杯になるのも当然です。貴女の世界とこの世界は、何かと勝手も違うでしょうし、ニコラも看なければならないので、大変だったでしょう」
「そうでしょうか……」
「そうです。これからはもっと私や周囲を頼って下さい。ニコラの母親も、私の妻も、貴女の他に代わりはいないのですから」
「はい……」

 マキウスは空を見上げたので、モニカも一緒に見上げると、星が連なる様に流れていったところだった。

「今度はニコラも連れて三人で来ましょう。もう少し大きくなってから」
「そうですね! ニコラが大きくなったら、私とマキウス様も合わせた三人で来ましょう」

 また二人の間には、沈黙が流れた。
 それを破るように、モニカは「私……」と口を開く。

「本当は、今でも迷っています。私はここに居ていいのか。ニコラの母親として、マキウス様の妻として、ここにいるのが相応しいのか……」

 マキウスが頭上に向けていた顔を、くるりとモニカに向けてきたところで、モニカはずっと胸に秘めていた思いを吐露したのだった。
「元の世界での私は貴族ではないので、貴族の夫人として相応しい教養やマナーが身についているとは思えません。
 今は貴族の女性らしくになれるように、ペルラさんから教養やマナーを教わっていますが、まだまだ付け焼き刃の程度です。マキウス様の隣を歩くにはまだまだ未熟です」
「気にする必要はありません。そんなものは、これから身につけていけばいいんです。時間をかけて、ゆっくりと……」

 マキウスの言葉が胸に染み入る。
 モニカは膝を抱えると、そこに顔を埋めるようにして続ける。

「それに、私はこれまで育児や結婚どころか、男性と付き合ったことさえありません。……男性が怖いんです」
「男が怖い……?」

 聞き返したマキウスに、モニカは小さく頷く。

「それにも関わらず、結婚して、子供が欲しいとも思っていました。……身の程知らずにも、かつての私は」

 御國だった頃、学生時代の同級生や職場の人たちから、恋人が出来たという話を聞く度に、羨ましいと思った。
 結婚して、子供が出来たという話を聞くと、もっと羨ましくなった。

「友人や職場の人たちから、彼氏や夫の話を聞く度に羨ましい気持ちになって、その人を妬んでばかりいました。
 私は恋人も結婚も出来ないのに、どうしてこの人は出来たんだろうって。……最低ですよね」
「そんなことは……」

 言葉に詰まったマキウスに、モニカは苦笑しつつそっと首を振った。

「私も勇気を出して、恋人を作って、結婚して、子供を産めばいいだけの話なんです。
 でも、どうしても出来なかった。怖いから……」

 そうして、モニカは自分で自分の身体を抱きしめたのだった。

「今の私はマキウス様に触れられたい、もっと親密な関係になりたいーー愛されたいと思っています。けれども、どこかで触れられるのが怖いとも思っています」
「そうだったんですか……?」

 モニカの言葉が意外だったのか、マキウスは驚いているようだった。
 そんなマキウスに、どこか後ろめたさを感じながら、モニカは口を開いたのだった。

「私、子供の頃に男性に乱暴されたことがあります。ーー強姦されそうになったんです。それから、ずっと男性が怖いんです」

 宵闇の中で、マキウスのアメシストの様な目が大きく開かれたのを見ながら、モニカは自分の過去について話し出したのだった。
「あれは、私がまだ中学生ーー学生だった頃です。たまたま、同じクラスになった男子学生がいたんです。とても優しい人で、マキウス様ほどではありませんが、見目麗しくて、文武に秀でていました。性格も明るくて、学年中の人気者でした。
 対して、あの世界での私は、取り立てて良いところはありませんでした。
 勉強も運動も普通で、顔はあまり良くなくて。性格も暗くて、教室の隅で本を読んでいるようなタイプでした。
 明らかに、私とその男子学生は真逆の存在でした。けれども、その男子学生は、何故かそんな私に気兼ねなく話しかけてきたんです」

 その男子学生は話しかけてきただけではなかった。
 モニカの代わりに、重い物を持ってくれて、勉強でわからないところがあれば、何でも教えてくれた。
 学年でも男女問わず人気のある男子学生だったが、そんな彼が何も取り柄がないモニカにも優しくしてくれたのだった。

「最初こそ、その男子学生を警戒しました。けれども、それが半年も続く頃にはすっかり気を許していました。
 だから、その子が優しくしてくれる分、私もその子に優しくしました。誰かに優しくされたら、その人にそれを返す。まだまだ未熟だった私は、そう信じていたんです」

 モニカは大きく息を吐き出すと、絶え間なく星が流れていく空を見上げる。

「秋が終わりかけのある日、私の近所に住む友人が自宅にやって来ました。男子学生が私に会いたがっていて、でも御私の自宅がわからないから、その子の自宅で待っていると言って。その頃には、男子学生に対する警戒心は全く無くなっていたので、愚かにも私は何も不審がることもなく、その友人の自宅に行きました」

 それが、そもそもの間違いだった。
 それ以前に、そのモニカを呼びに来たという友人は、子供の頃はほどほどに仲が良かったが、中学生になってからはほとんど話していない友人だった。
 いくら男子学生が仲介を頼んだとはいえ、そんな友人がわざわざモニカの自宅に来て、モニカを呼びに来たことさえ怪しむべきだったのだ。

「その友人の後について、友人の自宅まで行きました。友人は自宅で待っているという男子学生を呼んでくると、自宅に戻りました。
 友人の自宅から出て来た男子学生は、私を近くの公園に連れて行きました」

 連れて行かれたのは、住宅街の中にある小さな公園だった。
 秋暮れの時期だったので辺りは暗く、街灯も少ない公園だったが、近くの民家からの明かりもあって、ほどほどに明るかった。

「男子学生は、その公園のベンチに座ると、隣に座るように言いました。そうして……」

 その時のことを思い出して、だんだん息苦しくなってきた。
 唇が震えて、心臓が嫌な音を立て始めた。
 心なしか身体を抱きしめていた手まで震えているような気がした。

 そんなモニカの様子に気づいたマキウスが、そっと背中をさすってくれた。

「辛いなら、無理に話さなくても大丈夫です」
「大丈夫です。マキウス様には知って頂きたいんです。御國()のことを」

 モニカはなんとか息を吸い込んで、心臓を落ち着かせると、そっと口を開く。

「言われた通りに隣に座ると、男子学生は私をベンチに押し倒して……襲い掛かってきました」
「なっ!?」

 それまで、黙ってモニカの話を聞いていたマキウスだったが、今のモニカの言葉に叫びそうになったのか、顔を逸らすと、大きく息を吐き出して、気持ちを抑えているようであった。
 そうして、「すみません。続けて下さい」とすぐに謝ってきたのだった。
「ベンチに押し倒されて、必死に抵抗しました。何も考えられなくなって……無我夢中でした」
「それから、どうなったんですか?」
「ベンチから転がり落ちるように離れて、なんとか男子学生から逃れることが出来ました。……本当に間一髪でした」
「何も無くて良かったです」

 マキウスは安心したのか、肩の力を抜いたようだった。
 それがどことなく嬉しくて、少しだけあの時の雪辱を晴らせた様な気がした。

「それで、私は聞いたんです。『いきなり何をするの!?』って。
 そうしたら、その男子学生は納得がいかないような顔で言ったんです。
『ヤらせてくれるから、ここに来たんじゃないの?』って。
 その言葉に私は頭に血が上りました。それで、公園を後にしようとしました」

 怒り心頭に発していたモニカは「最低!」とだけ吐き捨てると、男子学生を置いて公園の出入り口に向かっていた。

「公園の出口に向かっていると、後ろから舌打ちが聞こえてきました。足を止めて振り返ると、今度は後ろから背中を蹴られました。
 その場にうつ伏せに倒れると、近づいてきた男子学生は私の背中を踏みつけました。
 そして私の髪を引っ張ると、側頭部を殴ってきました」
「女性を殴るなど言語道断です。まして、モニカを殴るなど許せません!」
「でも、そもそも私がついて行ったのが悪いので……」
「貴女は何も悪くありません! 優しい貴女を利用して、自分が誘ったら貴女がついて来る様に、あらかじめ親切にする振りをして用意していたんです! 下衆がやる手口です!」

 これまで見たことがないくらい、声を荒げて激怒してくれるマキウスに、またモニカの胸中が軽くなっていくのを感じていた。

(やっぱり、マキウス様に話して良かった)

 馬鹿みたいに簡単に男について行って、強姦未遂に遭ったと話したら、呆れられて、嫌われるんじゃないかと、ずっと心の中で恐れていた。
 ーー実際に御國だった頃、この話を聞いた周囲は呆れ返っていたから。

「男子学生に言われました。『なんだよ。使えないな』、『この為に、こんな身体以外良いところのない、生きている価値のない奴に優しくしてきたのに』って」

 男子学生は吐き捨てるように言うと、足を退かした。
 その隙に逃げようとしたが、痛みと衝撃から身体に力が入らなかった。

「地面に手をついて、なんとか起き上がろうとすると、今度は私の背中に馬乗りになって、服の中に手を入れてきました。必死に抵抗しましたが……下着の上から胸を掴まれ、揉まれました。執拗に何度も」

 触られた時、身体中を悪寒が襲ってきた。
 嫌な汗が流れてきて、どうにか身体を退かせないかと手足を動かしてもがいた。

「『止めて!』って叫んだら、『うるさい』と言われて、また髪を引っ張られて、顔を殴られました。地面に叩きつけられた時、口の中に入った砂の味を今でも覚えています。ジャリジャリして、どこか塩辛い味までしてきて。
 そうしている間に、男子学生は私の下着を脱がそうとしました」

 そこは未熟な男子中学生と言えばいいのか、ブラジャーのホックの外し方がわからなかったようで手間取っていた。
 その隙にモニカは男子学生をつき飛ばすと、脇目も振らずに、自宅へと逃げ帰ったのだった。

「下着を脱がされる前に男子学生を突き飛ばして、どうにか自宅に帰ると、すぐに部屋に駆け込みました。
 男子が触った胸ーー特に胸の乳房の辺りが気持ち悪くて、何度もタオルで拭きました」

 モニカはドレスの上から、自分の胸の頂に触れた。
 今でも、この男子学生のことを思い出すと、胸が痒くなり、擦ってしまいそうになる。
 モニカは胸を擦らないように、強く手を握り締める

「赤くなって、皮膚が破れて、タオルに血が滲んでも、何度も拭きました。とにかく気持ち悪かったんです……吐き気がしました」

 乳房とその周辺から血を流しながら、何度もタオルで擦っていた時を思い出して、また気持ち悪くなってくる。深く息を吸い込んで、どうにかして気持ちを落ち着かせる。
 落ち着いた代わりに、モニカの両目からは自然と涙が溢れてきた。
 それをマキウスに見られないように、モニカは目線を落としながら話しを続けたのだった。
「その時になって、ようやく気付きました。私は男子学生に利用されたんだって。私には身体以外、何も取り柄がないんだって」

 これは後から知ったが、この時のモニカは学年でも胸が大きく、発育が良い方で、水泳の時間や体育などの薄着になる時に、男子学生たちはモニカの身体を舐める様に見ていたらしい。

 御國の頃の話を聞いたマキウスは、爪が食い込むまで両手を強く握りしめて、歯を食いしばっていた。

「やはり、許せませんね。モニカに……女性にそのようなことをするなど。その時に私がいたら、相手が後悔するまで苦しめたというのに……」
「もう昔のことです。それに、その男子学生も怒られたはずです。その日の内に、私の異変に気付いた親に事情を聞かれて、白状させられたので……」

 嗚咽を殺して、泣きながら何度もタオルで胸を擦っていると、異変に気付いた母が部屋にやって来た。
 事情を聞かれたがら、安易に男子学生について行って、強姦されそうになったのが恥ずかしくて黙っていた。

「さすが母親と言えばいいのか……娘の顔に殴られた痕があって、手足に擦り傷まで作って、自室にこもって泣きながら出血するまで胸を擦っていた様子から、異変を悟った母に説得されて、話さざるを得ませんでした」

 その夜の内に、母親は学校に電話をすると、事の次第を話した。
 次の日、男子学生は学校に登校するなり、すぐに担任に呼び出された。そうして、その日は授業が終わっても、教室に戻ってくることはなかったのだった。

「それから男子学生は口を聞かなくなりました。次の年にはクラスが別れたので、この日以降、一度も口を聞きませんでした。でも、問題はその後です」
「その後? それで、解決しなかったんですか?」

 マキウスの問いかけに、モニカは小さく頷く。

「表向きは解決したことになりました。でも、男子学生がその話を広めたようで、しばらくは学年中で話題になりました。話はすぐに収まりましたが、そうしたら、今度は私が同じ学年の女子たちから虐めを受けるようになったんです」
「どうして、貴女が虐めを受けるんですか? 貴女は悪くありません。悪いのは、貴女を辱めようとした相手です」
「その男子学生、学年の女子たちの間で人気の高い男子だったんです。以前から、私と男子学生が親しくしているのが気に入らなかったみたいで……」

 男子学生に優しくされていた頃から、なんとなく女子の中でも派手なグループから睨まれているような気はしていた。
 ずっと気のせいだと思っていたが、強姦未遂の後から気の所為ではなくなった。

「この話がどこかで間違った形で広まったみたいで、それを信じたみたいです。この機会に私を懲らしめようと、様々な虐めをされました」
「間違った形で広まったんですか?」
「『私が男子学生を誘惑して、行為に及ぼうとした。けれども、それを誤解した私の母が、男子学生が娘を強姦したとして、男子学生を学校に言いつけた。だから男子学生は被害者で、悪いのは私だ』といった感じに広まったらしいです」

 もしかしたら、間違った形で広まったのではなく、最初から男子学生が違う形で広めたのかもしれない。今のモニカには、もう確かめようが無いが……。

「理解出来ません。何故、そんな話が広まって、貴女が虐めを受けねばならないのですか。貴女は被害者だというのに……」

 マキウスはまるで理解が出来ないというように、 頭を振っていた。
 マキウスの気持ちもわからなくない。モニカも最初はそう思った。
「人伝てに伝わっていく内に、話に尾ひれがついたのかもしれませんし、男子学生がわざと違う形で話を広めたのかもしれません。
 それからは、ずっと虐めを受けていました。男子学生との話が収まっても、男子学生とクラスが離れても、中学校を卒業するまで、ずっと……」
「無実を訴えなかったんですか? 誰かに相談することも」
「誰も信じてくれなかったんです……。先生や親に相談しても何も変わらなかった……。それどころか、虐めはますます悪化して、私は孤立しました」

 男子学生との話が広まってから、仲の良かった友人たちは距離を置くようになった。女子たちからの虐めが始まってからは、ますます誰も近寄らなくなった。

「悪口は当たり前、持ち物が無くなるのも、壊されているのも当たり前。体育の授業中は石や砂をぶつけられて、雪が降った日には雪玉をぶつけられました。先生に相談すれば、『被害者ぶるな』、『大して可愛くないのに誘惑するな』、『ブス』、『キモい』、『死ね』などと書かれた紙を、机や鞄、下駄箱に入れられました」
「そんな凄惨な過去を経験されていたんですね……」

 言葉を失っているマキウスを安心させる様に微笑みかけると、これ以上、不安にさせない様にわざと明るい調子で続ける。

「今となっては、そんなことは別に大したことじゃないんです。あっ! でも、たくさん書かれた中でも、『死にたいなら、いつでも手首を切っていいよ』と書かれた時が一番傷つきました。
 あの頃、虐めが辛くて、私が死にたがっていたこと、見抜かれていたんだって……。でも、一番傷ついたのは、母の言葉です」
「何を言われたのですか……?」
「『お前が安易に男について行って、隙を見せるからこうなったんだ』って。その頃には、母も学校から私が虐めを受けている話を聞いて、頭を悩ませていました。
 物を壊したり、無くしたりしているので、それを買い直すのに負担をかけてしまったんです。うちは普通の家庭で、お金とかあまりなかったので、それなのに無駄にお金を使わせてしまったので……。仕方がないですよね。きっと、本音が出てしまったんだと思います。そして、それは本当のことだと思っています。全ては私の相手に付け込まれる隙の多さが原因だって」

 今でも癇癪を起こした母に言われた言葉を一字一句思い出せる。
 母の言う通りだった。モニカがもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかった。
 モニカが母に負担をかけてしまった。だから、全てはモニカが悪い。虐められる理由を作ったのも、無意識に男子学生を誘惑していたモニカが悪いのだと。

 モニカの心には、あの男子学生に強姦未遂されたのが恐怖として刻まれた。
 更にその後の虐めが原因となって、モニカは異性恐怖症になったのだった。

「これ以上、母に負担をかけさせたくなかったので、学校は毎日通いました。本当は行きたくなかったんですが、自分に嘘をついて、心配してくれる先生たちにも平気だと言って、卒業まで我慢して通いました」

 中学校を卒業すると、モニカは地元から遠い女子高校に入学して、そのまま付属の女子大学に入学した。
  学生の間はなるべく異性とは関わらないようにしていた。大学生になると、同級生は合コンやコンパに行っていたが、モニカは目立たず、大人しくして、たとえ合コンやコンパに誘われても、何かしら理由をつけて断るようにした。そうして、静かな学生生活を送ったのだった。