「今日から新しい単元です。その導入として、教科書を読むより、ぼくの普段の仕事のことを話しますね。ぼくは、みんなも知っているとおり、看護師ではありません。ヘルパーと呼ばれる職業です。肢体不自由者生活介助士、というのが正式な名称なんだけど」
 風坂先生は教室前方の壁に貼られた黒いデジタルボードに「肢体不自由者生活介助士」と板書した。
 黒いボードに指先で触れて文字を書くときの風坂先生の手、すごく好き。長い指、目立ち気味の関節、キッチリ切られた爪、手の甲の静脈、ポコッと飛び出した手首の骨。
 字があんまりうまくないのはご愛敬。風坂先生もこっそり気にしてるっぽくて、自分の書いた字をしげしげと見て、苦笑いすることがある。すんなりした人差し指でほっぺたを掻いたり、「まあ、いっか」とつぶやいたりしながら。いちいちカッコかわいい。
「ぼくの本業は、こうして教壇に立つことではなくて、体が不自由な人の一人暮らしを支援することです。自立生活支援という仕事はね、社会福祉というより、サービス業に近いんですよ。ぼくの利用者さんはお金を出して、ぼくの仕事を買ってくれます」
 風坂先生の物腰は丁寧で、生徒の前でも絶対に上から目線になったりしない。ぐるっと教室を見渡して、話についてきてるかなーって顔で首をかしげる。一呼吸置いて、そして話を再開する。
「サービス業なんです。例えば、車の免許を持たない人がタクシーを利用するように、お金が間に入ってる。ボランティアではない。だからお互い、利用する側と提供する側の関係でいられて、利用者さんは遠慮せずに、ぼくに仕事を振ってくれるんです」
 我慢する関係だと苦しいんだって、4月最初の授業で風坂先生は話した。「こうしてほしい」って言えない利用者さん、「自分は奴隷じゃない」と感じるヘルパーさん。お互いに我慢してたら関係は長続きしないから、利用者さんの一人暮らしに支障が出る。
「ぼくの利用者さんの1人は、ぼくの親友でもあります。それでも、お金を介在させるサービス業のルールは守っています。親しいからこそ、割り切るべきところは割り切る。そのためには、お金というものはとても便利なんです」
 経験から出る言葉って、どっしりした手応えがある。教科書を何十ページ読んだってわからないことが、風坂先生のたった一言には詰まってる。そう感じる。
「ちなみにね、彼は、今は寝たきりになっているんだけど、昔はよく一緒に遊んでました。彼の車いすを押して、ロックバンドのライヴに行ったりね。彼は21世紀初頭の懐メロなロックが好きで。普段は、2人でゲームをするのが日課でした」
 ゲームって言葉に、くすっと教室から笑いが漏れる。風坂先生も笑顔。いつも笑顔。ほっぺたには、えくぼって呼んでいいのかな、縦長のくぼみが刻まれてる。
「だんだん体の自由が利かなくなる病気だった彼は、腕が動かなくなってもゲームが好きでした。ぼくが代わりにプレイして、彼は隣で見ていた。楽しんでくれていた。利用者さんと趣味を共有することも、ぼくらヘルパーの仕事です」
 さらりと、優しすぎる笑顔のままで、風坂先生はつらい現実に触れた。腕が動かなくなったっていう、それすら過去形。今は寝たきりって、どういう「寝たきり」なの? 意識は? 人格は? 感覚は?
 風坂先生が教室じゅうを見回す。
「みんなはナースを目指してるよね? 患者さんに接していれば、きっと、苦しいこともあると思う。命の形に、じかに触れる経験をするかもしれない。ぼくはもうとっくに大人で、31歳になってます。でも、現場ではまだ、割り切れないことばかりです」
 静かな笑みでそう締めくくって、風坂先生は教科書を起ち上げるよう指示をした。ハッと夢から覚めたように、クラスみんなが端末の操作を始める。
 引き込まれる声としゃべり方だよね、風坂先生って。見惚れる隙を与えてくれないっていうか、めっちゃ集中できる。だからあたし、ナースⅢの成績だけは点数いいんだよね。全部の教科でこれくらい集中しろって話か。