あたしはいつの間にか下を向いていた。
 ふわっと、あたしの頭の上にぬくもりが載った。手のひらだ。風坂先生の手のひら。
 懐かしい感触だった。昔、あたしがべそをかくたび、パパがよくこうしてくれていた。
「えみ、いじけた顔をして、どうしたんだ?」
 頭を撫でてくれる手のひらは大きくて温かくて、あたしは顔を上げる。あたしの前にいるのは、パパじゃなくて風坂先生。
 ドキリと、あたしの心臓が大きく打った。
 風坂先生は「あっ」と小さく声をあげた。苦笑いで、手を引っ込める。
「ごめんね、笑音さん。つい、妹にするみたいなことをしてしまって」
 そっか。妹さんか。あたしもパパのこと思い出しちゃったけど。
 あたしは、背が高くて優しくて年上で声がステキな人が好きで。その根っこにあるのはパパの存在だって、急に気付いた。
「風坂先生って、うちの父の若いころに似てます。あたしがちっちゃかったころの父に」
 もちろん、風坂先生のほうが何倍もイケメンだけどね。風坂先生は苦笑いのまま言った。
「年齢的にも、そんなもんかもしれないな。31歳ともなれば、小さい子どもがいてもおかしくない」
 どさくさまぎれに訊いちゃおうかな。
「先生は、結婚とかしないんですか?」
「相手がいないよ。ずーっと、それどころじゃなかったんだ。今も引き続き、それどころじゃないし」
「仕事のためですか?」
 風坂先生が普段の笑い方をした。その表情、あたしにはわかる。「絶対に笑顔でいよう」って、悲しみを閉じ込めるための笑い方。
 先生は何かを背負っているんでしょう? なぜだかわからないけど持たされちゃってる、運命の大荷物。
「ぼくがヘルパーになった理由は、親友のためなんだ」
「親友、ですか?」
「最初にあいつの車椅子を押してから、もう10年になる。あいつがぼくの人生を導いてくれたんだよ」
 過去形だ。
「大切な人のお世話や介助をするのは、つらい仕事ですか?」
 覚悟してなきゃいけない。パパが手助けを必要とする体になったとき、あたしは笑っていたいから。風坂先生がいつも笑ってるみたいに。
「いろいろ思ってしまう、かな。ぼくも浮き沈みするよ。あいつには全部、見抜かれてた」
「笑顔でも隠せませんか?」
「隠すことは難しいな。機能を喪失していくあいつを見てることしかできない。治してやることができない。不甲斐なかった」
 風坂先生の経験は、あたしの未来だ。あたしもきっと、先生と同じことを経験していく。
「瞬一は、治したいって考えてるんです。先端医療を勉強して、難病を治せるお医者さんになりたいって」
「頑張ってほしいね」
 風坂先生の柔らかな声は、切実に響いた。
 それからもう少しだけ、風坂先生と話をした。あたしが料理苦手なこと。反対に、風坂先生は家事全般が完璧だということ。
「ぼくは妹と2人暮らしなんだけど、妹は、料理は全然しないんだ。全部ぼくが作ってる」
 いいなぁ、妹さん。風坂先生の手料理、食べてみたい。エプロン似合いそう。
 風坂先生が料理してるところを想像したら微笑ましくて、笑えてきた。そんなあたしに、風坂先生はホッとした顔を見せた。
 大丈夫だ。
 初生のことも瞬一のことも、1つも解決してない。でも、あたしは元気が出た。まだ笑顔で頑張れる。
 風坂先生、ありがとうございます。