恐る恐る戸を開けて部屋の中を覗きこむと、彼女は、部屋の真ん中で俯き、蹲っていた。
「ユキさん!」
 中へ駆け込み、振り向かせる。ユキは苦しそうに眉をよせ、歯を食いしばっていた。引き寄せた身体も硬直し、汗ばんでさえいる。
「どうしたんです、どこか苦しいんですか?」
 驚いて訊ねても、彼女はなんでもないと首を振る。だが苦しそうだ。両手で腹を抱えるようにして蹲ろうとする。
 そこで正志も気づいた。彼女は妊娠中だ、妊婦が腹を抱えるということは、そこが痛む、ということで、もしかしたら不味い状態なのではないのか? 慌てた正志が病院へ行きましょうと話すと、ユキはまだ大丈夫だと答え、正志から離れようとした。しかし本当に辛そうだ。
「ダメですよ、お腹の子になにかあったらどうするんです? あなたの身体だって心配だ、病院へ行きましょう、救急車を呼びますから」
 離れようとするユキの腕を固く掴み、ダメだと諭しても、彼女は聞かない。自分はなんともないからあなたは家に帰りなさいと言う。だがこんな状態のユキを放ってなど帰れない。
「帰りません! こんなに苦しそうなのに、おいてなんか帰れないでしょう! 救急車が嫌ならタクシーを呼びます、とにかく医者に見せなきゃダメです! 嫌とは言わせませんからね!」
 いつになく強気で話すと、ユキは観念したように、ゆっくり息を吐いた。呼吸を整えようとするその仕草が、手負いの獣のようで、少し怖くなった。落ちてきた前髪を面倒臭そうにかき上げる手つきが、ピリピリした野生を感じさせ、妙に緊張する。
 学生時代、ガラの悪い先輩たちに囲まれたときのような、自分が捕食される側だとひしひしと感じる、命の危険さえ覚えるような緊張感だ。
 だんだん楽になってきたのか、ユキはゆっくり瞼を閉じる。少しずつ、少しずつ、いつもの彼女に戻って行くのが、見ていてもわかる。数秒後にはもう、普段どおりの彼女だ。

「すみません、もう治りました、大丈夫です」
「ぇ、でも……」
 妊娠中の腹痛はバカに出来ない。なんかあってからでは遅い。こんな辺鄙な場所では医者だってすぐには行かれない。ユキが住んでいる海辺の家から一番近くの総合病院まで、車で行っても一時間近くかかる。ましてこの時刻、夜中になったらさらに困難だ。夜も浅い今のうちに、行くべきだと力説する。彼女もそこはわかっているのだろう、医者には行きますと答えた。だが一人で行けるので、正志には帰れと言う。
「途中で何かあったらどうするんですか、一緒に行きますよ」
「いいえ、本当に大丈夫です、準備もありますので、正志さんはもうお帰りください」
「手伝いますよ!」
「帰ってください」
 何度言っても、ユキは譲らなかった、だが正志も譲れない。自分が帰ってしまい、一人きりになったとき、なにか異変があったらどうするのだ。動けなくなったら、意識を失ったら、人を呼ぶことも出来なくなる。意地や遠慮など緊急事態の前にはなんの意味もない、邪魔なだけだ。
「帰りません、準備があるならなさってください、僕は部屋の外で待ちます、出来たらタクシーを呼びますから、医者までは同行させてください」
 それで頷かないなら、今ここで、あなたを抱えて医者に駆け込みますよと話すと、ユキも呆れたらしい。俯いた唇の端を少し上げた。
「聞かん男やな……」
 小さく漏らされた言葉にホッとしながら、先にタクシー会社に電話を入れる。そして再び、部屋と戻ると、ユキはさっきと同じように腹を押さえ、部屋の真ん中で蹲っていた。
「ユキさん!」
 痛むのかと聞いたが今度は返事がない。意識がないわけではない、返事をする余裕がないのだ。
 これはかなりの緊急事態だ。正志は、多少強引かと思いながらも、蹲るユキと、ユキが用意したのだろう持ち物を抱えて部屋を出た。今度はユキも抵抗しない。
 外に出ると、丁度さっき呼んだタクシーが来たところだった。急いでその後部座席にユキを乗せる。そこでユキは少し痛みが和らいだのか、顔を上げた。
「ここへ……」
 そう言って彼女は一枚の紙を差し出す。そこには彼女の家から車で二十分くらいかかる住所が書かれてある。彼女のかかりつけなのだろう、場所は「然有産室」
 病院ではなく、産院のようだ。

 彼女はいつも静かで、涼しい顔をしていた。我慢強く、水臭いくらい気丈な人だ。きっと、もっと早い時間から調子が良くなかった違いない。そういえば今日はいつにも増して口数が少なかった。喋るときは喋るが、黙り込むと数十分黙ったままだった。おそらく、そのころから痛みを抑えていたのだ。
 彼女が自分から苦しいと言い出すわけがないのに、なんで気づいてやれなかったのだと悔やみながら、苦しげなユキの横顔を見つめる。
「……っ」
 そのとき……細く、小さく、途切れがちになったユキの声が聞えた。
「ゆきさん……?」
 聞き違えかなと思いながらユキの顔を覗きこむ。だが彼女は声を上げたことに気づいていないようだ。口を固く結び、目も閉じたままだった。
 その言葉は、思わず漏れた、というふうに彼女の口から零れ、そのまま宙に浮いて消えた。

 やがて産院に着き、ユキが中へ入って行く。正志も荷物を持って後を追った。そこは古い民家を改装して使用しているらしく、病院とか産院という雰囲気ではなかった。在中しているのも、年老いた老人一人だ。産院というと、お産婆さんのイメージがあったので、当然女性がいるものと思っていた正志は少し驚いた。ユキは気丈に立ち振舞い、その老人と何か話し合ってから、その場で入院手続きをして小部屋に通される。正志も慌ててついて行く。

「大丈夫ですか?」
 正志が声をかけると、ユキは肩で息をしながらも、大丈夫ですと静かに答えた。だがまだ辛いのだろう、元気がない。このまま一人でおいておきたくないと考え、正志は付き添いを申し入れた。しかしユキは帰ってくださいと言う。
「帰ってください、ここまで連れて来ていただいたことは感謝しますが、もう大丈夫です、お帰りください」
「しかし……」
 それでも心配だと食い下がる正志に、ユキは帰れとだけ告げて黙り込む。その眼差しは真剣で硬い。あの写真の男以外の奴に、傍にいて欲しくない。その思いが垣間見えた気がして、切ない。
 本当は一人でなどいたくないだろうに、気丈さにもほどがある。なんであなたは、と苛立った正志は、車内からずっと気にしていたことを聞いた。
「彼を、呼ばなくていいんですか?」
「彼?」
「あの写真の男ですよ、彼、アキラって言うんでしょ」
「え……?」
 その言葉に、彼女は首を傾げる。おそらく自覚がないのだ。ということは、あれは、思わず漏れた彼女の本音だ。そう信じた。
「さっき、車の中であなたは彼を呼んだ」
「呼んだ? 私が?」
「ええ、覚えてませんか?」
 意識朦朧としたそのときに、思わず知らず、呼ぶ名前……それが最愛の男の名でなくてなんだというのだ。そう確信して訊ね返すと、ユキは目を見張り黙り込んだ。思いがけず垣間見えた彼女の弱さが可愛らしく思え、正志の胸も熱くなる。

 彼女はいつも冷たい顔をしていた。一人でいいと言い、彼には見せないと言っていた。だがそれは虚勢だ。本当は寂しくてたまらない、会いたくて堪らない。毎日欠かさず作る、多過ぎる食事も、本当は彼に食べてもらいたくて作っていたに違いない。そう思えば、言わずにはいられなかった。
「隠さないでください、本当は会いたいんでしょう? なぜ避けようとするんですか」  問い詰めるれば問い詰めるほど、ユキの顔色は悪くなる。これ以上言ってはいけない。そう感じつつも、思いは止められなかった。
「彼の子供なんでしょう? いま会わないなんて、おかしいですよ、それとも会えない理由でもあるんですか」
 思わず怒鳴ると、ユキは泣きだしそうな赤い目をして、あなたになにがわかると叫んだ。
「彼と私の問題です、あなたには関係ない! 帰ってください!」
「待って、別に僕は……っ」
 いきなり激高したユキに驚いて思わず立ち上がる。だがユキは感情が治まらなくなったのか、ベッドの上で半身を起こし、正志を睨みつけた。

「帰れ言うとるやろ! さっさと行かんと叩き出すで!」

 そう怒鳴ったユキは、苦しそうに歪んだ顔でベッドから降りた。その瞳は青味を帯びて光り、身体からは青白い炎のようなオーラが立ち上って見える。
 もちろんそれは錯覚だろう、だが正志には、くっきりとそれが見えた。
 ユラユラと水蒸気のように全身を包み、炎のように天を目指して立ち昇る青いオーラ……それはまるで伝説の中に棲む、海龍の娘のようだ。
 とても自分が捕まえておける女じゃない。
 急にそれに気づいた正志は、震える足でそろそろと下がる。下がる正志を威嚇するように、顔を歪ませたまま、ユキが迫ってくる。部屋の空気が重苦しく、息がし辛い、足も異様に重い。まるで海中を歩いているようだ。このままこの空気に押しつぶされ、死んでしまうのではないか? 急に怖くなった正志は、慌てて身を翻し、その部屋から走り出た。。

 自分は何を見た?
 誰と一緒にいた?
 あの娘は誰だ?

 人ではない、あれは、人の娘ではない。海龍の娘だ。頭の中にはそんなあり得ない思いが駆け巡り、混乱した正志は、そのまま自宅まで走って逃げた。