「なんか、凄いですね、ユキさん」
「そうですか?」
「ええ、驚きました、お好きなんですか? 身体を動かすのが……なにかスポーツでもなさってたとか?」
「ああ、いいえ、ただやりたいだけです、怠けているとすぐ筋力落ちますからね」
「筋力、いるんですか?」
 女性なのに? というニュアンスで聞くと、ユキは、いりますよと答え、ニコリと笑った。その微笑にどこか悲愴さを感じ、なんでそんなに鍛えなきゃならないのか、差し支えなかったらと掘り下げて訊ねた。すると彼女は、自分を信じたいからと静かに答えた。
 自分を信じたいから身体を鍛え、自分を信じたいから料理にも全身全霊で取り組む。そして、一人でここにいるのだと話したユキの目は、強く、熱く、しかしどこか儚い。
 本当は一人でなどいたくない。寂しい、恋しいと、その背が言っているような気がした。この人を護りたいと、素直に思え、心が熱くなる。

 そこからずっと、二人で並んで歩いた。時々星空を見上げて、あれは何座かなと他愛無い話を織り交ぜながら、身体の鍛え方や料理の話など、話題は尽きなかった。そして、明日も、明後日も、これから先ずっと、一生彼女の隣にいたい……そう思い始めたころ、彼女の家に着いた。着いてしまったことが寂しい。
「明日も、来ていいですか?」
「いいですよ」
「……良かった」
 ホッとしてそう呟くと、ユキはおかしなことをと笑った。
「これまでも、毎日来てたじゃないですか」
「そうですね、すみません、でも、ご迷惑じゃないかなと思って……」
「迷惑なんかしてませんよ」
 愛する人がいて、その人の子を生むという彼女に、自分はあなたが好きですと告白をした。普通なら警戒され、迷惑とされるところだ。しかしユキはそんなことは気にしないでいいと話す。
「食事も、トレーニングも、誰かと一緒のほうが楽しいです、やり甲斐も出ます」
「そう言っていただけると……でも」
 彼女の答えがあまりに素直だったので、少し不安になった。そんな簡単に、よく知らない男を家に上げていいのか、おとなしそうに見えても相手は男だ、急に襲い掛かってきたらどうするのか、心配になる。だが、それを訊ねると、彼女は大丈夫だと答えた。
「大丈夫? なんで?」
「私のほうが強いですからね」
 なんなら、試しますかと聞き返され、正志も白旗をあげる。たしかに、彼女には敵わない。いやもちろん、本気でやれば、男と女だ、自分が勝つに決まっている。だが自分は彼女を力で征服したいというわけではない。ただ、護りたい、愛したいだけだ。彼女の意思を無視してまで、手を出そうとは思えない、出来ないだろうと思った。

「じゃあ今夜はここで、また明日、窺います」
「はい、いつでもどうぞ」
 家の前まで送り、手を振って別れた。ユキもニコリと笑い、会釈してくれる。まるで恋人同士のような気がして、胸元が擽ったい。
 いつか、本当にそうなれればいいと思う。だがその前に、あの写真の男が何者で、なぜ今ユキと一緒にいないのか、それを聞きたい。そしてできれば、そいつのことを忘れさせたい。
 それにはまず、自分が東京に置いてきた恋人、津子と決着をつけなければならない。津子ときちんと別れてからでなければ、ユキに求愛する資格はない。
 そう考えた正志は、ユキと見上げた星空を一人で見上げ、ゆっくりと家路に着いた。

 ***

 それから数日間、毎日、正志はユキの家に行った。
 ユキは毎日、変わらぬ態度で正志を向かえ、新しく考えた料理や、正志が取材した店の看板料理の再現からアレンジまでして見せる。それを味見して、感想を言うのが正志の役目だ。
 昼過ぎにユキの家に行き、少し話をして、彼女が夕食を作るのを待つ。ときには買い物に付き合ったりもして、まるでユキと付き合っているかのような錯覚に心が騒ぐ。
 自分は自制心の強いほうではない。だからそれほど好きでもなかった津子に簡単に手を出したのだし、身勝手なセックスの結果、妊娠までさせた。だからユキに対しても、最初は下心タップリだった。それなのに、なぜか、手が出せない。それは彼女が今、自分ではない男の子供を宿しているから、という理由だけでないような気がするのだが、それがなぜなのかは思い当たらなかった。

「そこ、そこで醤油を一差しすること」
「え?」

 毎日毎日、美味しい思いをして浮かれていたが、彼女のほうがそれだけで満足できなくなってきたのか、教えてやるからあなたも作ってみないかと言い出した。料理を習うというのを口実に、より彼女に接近できる。そんな姑息な考えで、やりますと言った正志は、それから毎日、その日食べる夕食のこしらえをユキと一緒にやるようになった。そしてその日もスパルタなユキについて、おひたしを作っていたのだが……。
 たかがおひたしだ。もちろん、茹で加減や食材の選び方、切り方にはいろいろあるのだろうが、それでもたかだか、洗って茹でて切るだけ、料理とも呼べない料理、誰だって出来ると思っていた。だがユキはそれにすらダメ出しをする。
「ここで、って……え、ここで?」
「そう、そこでです」
 そこというのは、まな板の上だ。茹でた小松菜を鍋から取り出し、丈を揃えてまな板に並べた。それだけの段階で、ユキはそこに醤油をかけろと言う。小松菜はまだ水切りもしていない、水浸し、だがユキは早くしろと睨んだ。
「出汁醤油ではなく、生醤油を、量は多くなくていいんです、ほんのひと垂らし、気持ち少量、かけてください」
「あ、はい……」
 言われるまま、なにも考えずに醤油をかけた。少量と言われたのでほんの少しだ。だがユキはかけ過ぎ、と釘を刺した。
「すいません」
「まあいいです、で、そのまま切って、それから軽く絞って盛り付けです」
「はい」
 それから付きっ切りで教わったおひたしを食卓に出し、彼女と差し向かいで食べた。
「あ、最初は醤油をかけないで食べてみてください」
 そのほうが美味しいですよとユキは話す。正志は半信半疑ながら、彼女の言う通りにして、おひたしを口に運ぶ。それがとても美味かった。
 小松菜の青味や瑞々しさはそのままに、ほんのり香るカツオ節、それに醤油をかけていないのに、しっかり味がする。たかがおひたしなどと思ったのが恥ずかしくなるくらい、それは自分の知る品とは別物だった。
「美味い……」
 驚いて顔を上げると、ユキは満足そうに笑った。
「茹でるとき、塩と一緒に、少量の砂糖を入れたでしょう? 塩は小松菜の青味を際立たせるため、そして砂糖は、その後にくる香りを受け入れ易くさせてやるという意味があるんです」
「へえ……」
「入れすぎちゃダメですよ? 甘いおひたしなんて妙ちくりんです」
「はあ」
「で、茹で上げて水に晒し、切る前に生醤油、ここで繊維が柔らかくなって香りを受け入れ易くなっていた小松菜に、醤油の味と香りを染み込ませるんです」
「でもあのときはまだ水びたしで、醤油は殆ど流れちゃったし、すぐ水切りしちゃったじゃないですか」
 それでなんで香りが残るのかと聞くと、ユキは残るようにしたからですよと答えた。
「最初に柔らかくしておいて、次に来る香りを染み込ませる、その量が少しでも、充分沁みるくらい、柔らかくなっていた食材は、一滴の醤油にも反応して色づくんです、多過ぎては逆に味付け過多になり、食材の味が生かしきれません」
「そういうもんですか……」
「相手を女だと思って考えてみればわかります」
「え?」
 思いがけない話に、つい間抜けに口を開け、聞き返すと、ユキは少し得意気な顔で口角を上げた。その表情が好戦的に見えて、ドキリとする。
「女を落とすなら最初が肝心、怖いと思ってた相手が思いがけず優しかった、それも自分だけに優しいように見える、そう感じれば女はそいつに目がいくようになる、そこでいつもと違う刺激を与えてやれば、その量が少しでも、新鮮な感動を与えられるもんです……で、その後は軽く包んでやればそれで完了、女はそいつの思うままって寸法です」
「……なんだか、やったことがあるような言い方ですね」
 ユキは女性だ。本来なら、そうされたことがあるのかと聞くべきなのだが、彼女の表情からは、待つ身ではなく、切り込む性が見える気がして、つい、そう聞き返した。すると彼女はニタリと笑った。そうですよと言われている気がして、落ち着かない。
「正志さんは器用だし、筋は悪くないです、今度、作ってあげるといいですよ」
「……そうですね」
 言われた言葉に、何気なく返事をすると、ユキは急に真顔になり、真正面から正志を見つめた。目が合ってしまい、どきりとして、思わず視線を下げる。すると、頭の上で、彼女の涼しい声が聞えた。
「誰に?」
「え?」
 誰に、とは何の話だ? という疑問に、彼女の言葉が答えを示した。
「この料理、今あなたは誰に食べさせたい、作ってやりたいと、思いましたか?」
「え……」
 戸惑い、声を失う正志に、ユキは静かに微笑む。彼女の中には、揺ぎ無い信念と、人への愛情があるような気がした。
「思いのありったけを込めて、今作れる最高の品を作る、そしてそれを食べてもらいたいと思う相手、そんな相手がいるとしたら、それがあなたの一番大切な人です」
 ニコリと笑って話されるその言葉に、正志は動揺した。胸の奥がふつふつと擽られているように疼く。

 ユキに訊ねられ、何気なく答えたそのとき、頭に浮かんでいたのは、東京に置いてきた恋人、津子の顔だった。
 動揺する正志を横目に、ユキは、早く帰って作ってあげるといいですよと呟いて席を立った。その背を見つめ、正志は残して来た津子のことを、本当に久しぶりに考えた。

 津子は、今頃なにをしているだろう?
 いい加減で不安定な恋人は、子供が出来たと告げたとたん、なにも言わずに消えた。逃げたのだ。
 彼女は自分のことを酷い男だと思っただろう、事実酷い男だ。だが、別に、捨てようと思ったわけではない。彼女に不満など、なかった。ただ少し、子供、赤ん坊というモノが鬱陶しく思えただけだ。
 子供が出来て、結婚などしたら、自分の時間がなくなってしまう。息が詰まる。そんな気がして、嫌になった……だが、それで彼女を嫌いになったというわけでは、決してなかった。

 数日前、ユキに、今彼女を子供ごと欲しいという男が現れたら喜んで譲るのかと聞かれたが、結論は出なかった。だがそれは思い過ごしだ。迷ったのも、彼女を疎ましく思ったのも、彼女を愛してないからではなく、幸せにしてやる自信がないからだ。ユキは、最初からそうとわかっていたのか、遠回りしながらでも、自分にそれに気づかせてくれたのかもしれない。
 正志は思わず立ち上がり、部屋から出て行ったユキを追った。だが、きっと食後のお茶を出すため、台所にいる、そう思って駆け込んだそこに、ユキの姿はなかった。
 ではどこだと考え、キッチン横の小部屋を思い出す。そこはユキのプライベートルームだ。そこにいるに違いない。
 入っていいものかどうか、暫し悩んだあと、その戸を開ける。

「ユキ、さん……?」