ユキに問われ、正志は恋人との出会いの日を思い返した。
彼女に初めて会ったのは、友人に誘われていった飲み会の席だ。そこで友人の恋人の友だちとして来ていた、彼女、津子に会った。
第一印象は、普通。別に取り立てて可愛いわけでもないし、ブスでもない。可もなく不可もなく、連れて歩いて恥ずかしい女ではないが、特別自慢になるような美女でもない、ごく普通の女の子という感じに見えた。友人の恋人という女もたいしたことなくて、それは別に良かったのだが、目の前でやたらイチャイチャされるのがちょっと目障りで、ついつい酒を過ごした。そしておそらく飲みすぎたのだろう、気づけば自分は寝入っていたらしい、津子に肩を揺すられ、目覚めたのだ。
時刻はすでに朝と言える午前四時過ぎ、閉店時間だと店員に促され、困った彼女は眠ったままの正志に、起きてくださいと小声で言った。寝ぼけた頭で瞼を開き、彼女の言うまま立ち上がって店を出た。会計はすでに済まされていて、正志のぶんは津子が支払ってくれたらしい。
「ごめん、面倒かけちゃったね、ありがとう」
「いえ」
「おまけにこんな時間までつき合わせちゃって、ごめん」
「しょうがないですよ、寝ちゃってる人、一人でおいて帰れませんし」
友人とその恋人は、ずいぶん早くに帰ってしまったようで、その後は津子が一人でチビチビと飲みながら正志が起きるのを待っていたらしい。そう思うと申し訳ない。
申し訳ないが、ちょっと自惚れたくなる話だ。
普通だったら帰ろうという話になったとき、正志を起こすものだろうし、もしも正志が起きなくて、待っているとしたら、それは友人らのほうのはずだ。初対面の津子がそこに残り、待っているなど、ちょっとありえない。そう話すと、彼女は、二人が良いムードで、早く二人きりになりたそうだったから気を利かせたのだと答えた。
「私なら別に一人暮らしだし、恋人もいないし、時間、気にしなくても大丈夫だから」
「ふぅん」
一人暮らし、恋人はいない……その言葉が耳に残り、さりげないアプローチかもしれないと思った。ちょうどそのころ、正志もフリーだったこともあり、酒の勢いも借りて、かなり大胆に迫ったような気がする。
「もしかして津子さん、僕に気がある?」
「え?」
「だって、ほら、こんな時間まで僕を待っててくれるなんてさ、あり得ないだろ普通、だからそうかなって……」
「……ずいぶん強気のナンパですね」
「ナンパはキミのほうじゃないの?」
「違います」
「じゃあなんで待っててくれたの?」
「糸村さんの会計、私が立て替えてるんですけど、6845円、それに、糸村さんが起きるまでに私が注文しなければならなかったドリンク代とスイーツ代2250円、〆て9095円、今、払えます?」
「え……?」
なんで待ってたのかという問いに、津子は少し考えてから、ニコリと笑い、立て替えた料金の金額を言った。すぐ返せますかと聞き返され、手持ちがそれほど多くなかった正志は、それを出してしまうとタクシーに乗れなくなると答えた。すると津子は、じゃあ後日でいいですと正志の連絡先を聞き、手持ちが出来たら正志のほうから連絡をする、という約束をして、別れたのだ。
そして後日、お金を返すという口実で二人は待ち合わせ、正志は迷惑をかけたお詫びにと食事を奢り、そのまま映画も見た。デートみたいと笑う彼女が可愛く見えて、じゃあデートにしちゃいましょうと話し、それからなんとなく付き合い続けている。
あの日、立て替えた居酒屋料金を請求する津子の顔が、とても可愛く健気に見えて、心引かれた……それがその理由かもしれない。
「思い出しました? で、どうですか、もし今、お腹の子供ごと、彼女を欲しいという男が現れたら、あなたは黙って身を引きますか?」
「え……?」
「ここに彼女はいないんです、取り繕うことはありません、正直に答えてみてください、彼女と、別れたいですか? 欲しいという男が現れたら逆に助かると思いますか?」
「それは……」
ユキの言葉は不思議な響きを持っていた。子供が出来たと言ってきた恋人を放ってきた男である正志にも、別に怒るでもない。ただ正直に、自分の気持ちと向き合えと促してくれる。お陰で正志も、自分の気持ちを真正面から見つめることが出来た。
もしも今、津子に言い寄る男がいたとしたら、そいつが、彼女をよこせと言って来たら……。
迷う正志を、ユキは少し哀しそうな瞳でじっと見つめる。
「人の気持ちは理屈じゃ動きません、道徳観だけで一緒になっても、お互い辛いだけです、愛しているか、いないか、そこはご自身でよく考えてください、」
「でも……」
「結論を急かすわけではありません、でも子供は待ってくれない、とにかくただお互い不幸にならないように、後悔しない道を探すことです」
「後悔しない道」
「はい、あなたの気持ちを正直に彼女に伝えればそれでいいんです、どんな結論が出ても、必ずそうしてください」
「……わかりました」
静かに語り合ったあと、静かなユキの横顔を、切なく見つめた。
あなたは、それでいいんですか? 一人で生んで、一人で育てる。それを相手の男は知ってるんですか? そうと訊ねたくても声に出せない。それはユキがあまりに達観しているからだ。その決心が健気で切ない。卑怯者の自分になにが言えよう……その思いが口を鈍らせる。
だが……。
「ユキさんは、どうなんですか?」
「なにがですか?」
「さっきの写真の男、あいつはあなたがこんなところで一人で子供を生もうとしていることを知ってるんですか? 知ってて放ってるんですか?」
彼女には酷だ。そう思いながらも、つい訊ねた。さっきの例えではないが、もしそいつが彼女をいらないと言うなら、自分が立候補したい。そう思って聞いた。だがユキは、無遠慮なその問いにも笑って答えた。
「彼らは全部知ってますよ、放って来たのは私のほうなんです」
「え……?」
彼ら……と、ユキは複数形で答えた。その意味を頭の中で何度も反復し、考える。それに気づいたのか、ユキはクッと愛らしく笑いかけ、そろそろ夕食の時刻ですねと言った。その笑顔が眩し過ぎて思わず目を伏せる。
「今日はちょっと新しいのを考えたんです、ぜひ味見してってください」
「え、あ、はい」
つい今まで、あなたが好きだとか、東京に置いてきた恋人に子供が出来て悩んでいるとか、かなり深刻な話をしていたはずなのに、ユキの笑顔と言葉は、それらを全て払拭してしまう。正志もごく自然に、ああ、それは楽しみですねと立ち上がった。
それから二人でユキの作った夕食を食べ、穏やかに話しながら数時間を過ごした。話題は殆ど、正志が仕事で取材した各店の特徴や味、そのときの感想などで、個人的な話にはならなかったが、彼女が興味深げに聞いてくれるのが嬉しい。
楽しい気分で食事を終えた正志は、時刻が夜七時を回ったばかりで、まだそれほど遅くないことに気づいた。少し早めの夕食だったようだ。いつもそうなのか、それともなにかあるのかと、ユキの様子を窺う。彼女は正志に食後のお茶を出したあと、ちょっと失礼と中座し、先ほどの小部屋に引き篭もっている。なにをしているのかなと考えたが、ユキは出されたお茶もまだ飲みきらないほど早く、ほんの数分で出て来た。
小さな鞄を手に戻って来たユキは、いつもの白い作務衣ではなく、紺地の地味なスウェット姿だった。肩甲骨のあたりまである長い髪をフワリと下ろしたそのいでたちに、正志は目を見張る。
彼女はいつも、料理の邪魔になるからか、長い髪を一つに束ね、後頭部あたりでクルリと団子にしていた。それでも充分美しかった。だが、今のように自然におろしてみると、さらに美しい。華やかで可憐、テレビに出てくるアイドルタレントのような、ちょっと、いや、かなり、ひと目を引く可愛らしさだ。
そういえば、歳はいくつなのだろう? 二十代半ばあたりだと思っていたが、こうしてみると、前半、いや、十代でもいけそうな気がする。しかし子供を生むと言うし、立ち居振る舞いも、だいぶ落ち着いて見える。実際いくつなのかは想像もできない。正志は、母親に彼女の年齢も聞いておけばよかったなと思いながら、腰を浮かした。
「あの、どこか行くんですか?」
出かけるにしては化粧気もないし、服装も地味なスウェットだが、その華やいだ顔を見ていると、なにかいいことでもあるのかと聞きたくなる。そこで聞いてみたのだが、その問いにユキは、正志さんも一緒にいかがですかと笑った。なんだろうかと思いながらのこのこついて行く。
行き先は、最近できたばかりのショッピングモール内にある、スポーツジムだった。
そこは、モール内にあるにしてはかなり本格的なつくりのジムで、身体を鍛えるための様々な機具が配置されている。バーのついたダンスレッスンルームもあり、柔軟体操用のマットルームも完備されているようだ。しかもシャワー付き。かなり本格的ジムだなと驚きながらあたりを見回していると、ユキは受付に会員証を提示し、正志を差して、連れですと話した。どうやら、会員一人に対し、一人までなら非会員も入れるらしい。彼女はそのまま広い柔軟ルームへと入った。正志も慌てて後を追う。
「正志さんは、ジムは初めてですか?」
「え、ぁ、はい」
「じゃあまずは柔軟体操から入りましょうか、いきなり身体を動かすのは筋肉にも良くないですから」
「ぁ……はい」
話しながら、ユキは受付で借りてきたジャージの上下を正志に手渡す。正志は、なにがどうなっているのかわからずに、もたつきながらもそれに着替え、彼女の横に並んだ。
「そこで見ていて、私のするのと同じようにしてみてください」
「はい」
彼女はマットの上にぺたりと座り、足を大きく広げて身体を伏せたり、伸ばしたりという動きを黙々と続けた。それを横で見ていた正志は、ユキの身体のしなやかさに驚く。元は体操選手かと思えるほどだ。だが驚かされたのはそれだけではない。なんと彼女は、柔軟のあと、疲れも見せず、そのままマシンジムへと取り組んだ。そのメニューが物凄い。
レッグプレス、ペッグデック、ラットプルダウン、ケーブルトライセップにランニングマシン、その種類もさることながら、見事なフォームに見惚れる。妊娠中というのは自分の聞き違いかと思うほど、彼女の動きには無駄も無理もない。ゆったりとしたスピードで、充分に時間をかけて付加をかけ、それをまた、倍近い時間をかけて戻す。その繰り返しは、見ているぶんには美しいが、本人はそうとうしんどいはずだ。それを彼女は呆れるくらい熱心に、黙々と続けた。しかし、さすがに腹筋は不味いだろうと怖くなり、声をかける。
「大丈夫なんですかそんなことして、お腹に障るんじゃ……」
「大丈夫です、ぬるいメニューですし、医師の許可も得てます」
「……そうなんですか」
「はい」
ぬるいメニューと言われて力が抜けた。一緒にどうぞと声をかけられ、同じように始めた正志は、全て数回で挫折したというのに、ユキは涼しい顔だ。ひたいに汗を滲ませながらも、呼吸一つ乱さず、各トレーニングを十分から十五分ずつこなしていった。
そしてジムに着いてから二時間後、一通りのメニューを終えたのか、ユキはようやく息をつき、一度シャワールームに消えてから、帰りましょうかと話した。ジムのベンチに座り、待っていた正志は、まだ少し濡れた髪で戻って来たユキを、眩しく見つめ、黙ってその後に続く。
彼女に初めて会ったのは、友人に誘われていった飲み会の席だ。そこで友人の恋人の友だちとして来ていた、彼女、津子に会った。
第一印象は、普通。別に取り立てて可愛いわけでもないし、ブスでもない。可もなく不可もなく、連れて歩いて恥ずかしい女ではないが、特別自慢になるような美女でもない、ごく普通の女の子という感じに見えた。友人の恋人という女もたいしたことなくて、それは別に良かったのだが、目の前でやたらイチャイチャされるのがちょっと目障りで、ついつい酒を過ごした。そしておそらく飲みすぎたのだろう、気づけば自分は寝入っていたらしい、津子に肩を揺すられ、目覚めたのだ。
時刻はすでに朝と言える午前四時過ぎ、閉店時間だと店員に促され、困った彼女は眠ったままの正志に、起きてくださいと小声で言った。寝ぼけた頭で瞼を開き、彼女の言うまま立ち上がって店を出た。会計はすでに済まされていて、正志のぶんは津子が支払ってくれたらしい。
「ごめん、面倒かけちゃったね、ありがとう」
「いえ」
「おまけにこんな時間までつき合わせちゃって、ごめん」
「しょうがないですよ、寝ちゃってる人、一人でおいて帰れませんし」
友人とその恋人は、ずいぶん早くに帰ってしまったようで、その後は津子が一人でチビチビと飲みながら正志が起きるのを待っていたらしい。そう思うと申し訳ない。
申し訳ないが、ちょっと自惚れたくなる話だ。
普通だったら帰ろうという話になったとき、正志を起こすものだろうし、もしも正志が起きなくて、待っているとしたら、それは友人らのほうのはずだ。初対面の津子がそこに残り、待っているなど、ちょっとありえない。そう話すと、彼女は、二人が良いムードで、早く二人きりになりたそうだったから気を利かせたのだと答えた。
「私なら別に一人暮らしだし、恋人もいないし、時間、気にしなくても大丈夫だから」
「ふぅん」
一人暮らし、恋人はいない……その言葉が耳に残り、さりげないアプローチかもしれないと思った。ちょうどそのころ、正志もフリーだったこともあり、酒の勢いも借りて、かなり大胆に迫ったような気がする。
「もしかして津子さん、僕に気がある?」
「え?」
「だって、ほら、こんな時間まで僕を待っててくれるなんてさ、あり得ないだろ普通、だからそうかなって……」
「……ずいぶん強気のナンパですね」
「ナンパはキミのほうじゃないの?」
「違います」
「じゃあなんで待っててくれたの?」
「糸村さんの会計、私が立て替えてるんですけど、6845円、それに、糸村さんが起きるまでに私が注文しなければならなかったドリンク代とスイーツ代2250円、〆て9095円、今、払えます?」
「え……?」
なんで待ってたのかという問いに、津子は少し考えてから、ニコリと笑い、立て替えた料金の金額を言った。すぐ返せますかと聞き返され、手持ちがそれほど多くなかった正志は、それを出してしまうとタクシーに乗れなくなると答えた。すると津子は、じゃあ後日でいいですと正志の連絡先を聞き、手持ちが出来たら正志のほうから連絡をする、という約束をして、別れたのだ。
そして後日、お金を返すという口実で二人は待ち合わせ、正志は迷惑をかけたお詫びにと食事を奢り、そのまま映画も見た。デートみたいと笑う彼女が可愛く見えて、じゃあデートにしちゃいましょうと話し、それからなんとなく付き合い続けている。
あの日、立て替えた居酒屋料金を請求する津子の顔が、とても可愛く健気に見えて、心引かれた……それがその理由かもしれない。
「思い出しました? で、どうですか、もし今、お腹の子供ごと、彼女を欲しいという男が現れたら、あなたは黙って身を引きますか?」
「え……?」
「ここに彼女はいないんです、取り繕うことはありません、正直に答えてみてください、彼女と、別れたいですか? 欲しいという男が現れたら逆に助かると思いますか?」
「それは……」
ユキの言葉は不思議な響きを持っていた。子供が出来たと言ってきた恋人を放ってきた男である正志にも、別に怒るでもない。ただ正直に、自分の気持ちと向き合えと促してくれる。お陰で正志も、自分の気持ちを真正面から見つめることが出来た。
もしも今、津子に言い寄る男がいたとしたら、そいつが、彼女をよこせと言って来たら……。
迷う正志を、ユキは少し哀しそうな瞳でじっと見つめる。
「人の気持ちは理屈じゃ動きません、道徳観だけで一緒になっても、お互い辛いだけです、愛しているか、いないか、そこはご自身でよく考えてください、」
「でも……」
「結論を急かすわけではありません、でも子供は待ってくれない、とにかくただお互い不幸にならないように、後悔しない道を探すことです」
「後悔しない道」
「はい、あなたの気持ちを正直に彼女に伝えればそれでいいんです、どんな結論が出ても、必ずそうしてください」
「……わかりました」
静かに語り合ったあと、静かなユキの横顔を、切なく見つめた。
あなたは、それでいいんですか? 一人で生んで、一人で育てる。それを相手の男は知ってるんですか? そうと訊ねたくても声に出せない。それはユキがあまりに達観しているからだ。その決心が健気で切ない。卑怯者の自分になにが言えよう……その思いが口を鈍らせる。
だが……。
「ユキさんは、どうなんですか?」
「なにがですか?」
「さっきの写真の男、あいつはあなたがこんなところで一人で子供を生もうとしていることを知ってるんですか? 知ってて放ってるんですか?」
彼女には酷だ。そう思いながらも、つい訊ねた。さっきの例えではないが、もしそいつが彼女をいらないと言うなら、自分が立候補したい。そう思って聞いた。だがユキは、無遠慮なその問いにも笑って答えた。
「彼らは全部知ってますよ、放って来たのは私のほうなんです」
「え……?」
彼ら……と、ユキは複数形で答えた。その意味を頭の中で何度も反復し、考える。それに気づいたのか、ユキはクッと愛らしく笑いかけ、そろそろ夕食の時刻ですねと言った。その笑顔が眩し過ぎて思わず目を伏せる。
「今日はちょっと新しいのを考えたんです、ぜひ味見してってください」
「え、あ、はい」
つい今まで、あなたが好きだとか、東京に置いてきた恋人に子供が出来て悩んでいるとか、かなり深刻な話をしていたはずなのに、ユキの笑顔と言葉は、それらを全て払拭してしまう。正志もごく自然に、ああ、それは楽しみですねと立ち上がった。
それから二人でユキの作った夕食を食べ、穏やかに話しながら数時間を過ごした。話題は殆ど、正志が仕事で取材した各店の特徴や味、そのときの感想などで、個人的な話にはならなかったが、彼女が興味深げに聞いてくれるのが嬉しい。
楽しい気分で食事を終えた正志は、時刻が夜七時を回ったばかりで、まだそれほど遅くないことに気づいた。少し早めの夕食だったようだ。いつもそうなのか、それともなにかあるのかと、ユキの様子を窺う。彼女は正志に食後のお茶を出したあと、ちょっと失礼と中座し、先ほどの小部屋に引き篭もっている。なにをしているのかなと考えたが、ユキは出されたお茶もまだ飲みきらないほど早く、ほんの数分で出て来た。
小さな鞄を手に戻って来たユキは、いつもの白い作務衣ではなく、紺地の地味なスウェット姿だった。肩甲骨のあたりまである長い髪をフワリと下ろしたそのいでたちに、正志は目を見張る。
彼女はいつも、料理の邪魔になるからか、長い髪を一つに束ね、後頭部あたりでクルリと団子にしていた。それでも充分美しかった。だが、今のように自然におろしてみると、さらに美しい。華やかで可憐、テレビに出てくるアイドルタレントのような、ちょっと、いや、かなり、ひと目を引く可愛らしさだ。
そういえば、歳はいくつなのだろう? 二十代半ばあたりだと思っていたが、こうしてみると、前半、いや、十代でもいけそうな気がする。しかし子供を生むと言うし、立ち居振る舞いも、だいぶ落ち着いて見える。実際いくつなのかは想像もできない。正志は、母親に彼女の年齢も聞いておけばよかったなと思いながら、腰を浮かした。
「あの、どこか行くんですか?」
出かけるにしては化粧気もないし、服装も地味なスウェットだが、その華やいだ顔を見ていると、なにかいいことでもあるのかと聞きたくなる。そこで聞いてみたのだが、その問いにユキは、正志さんも一緒にいかがですかと笑った。なんだろうかと思いながらのこのこついて行く。
行き先は、最近できたばかりのショッピングモール内にある、スポーツジムだった。
そこは、モール内にあるにしてはかなり本格的なつくりのジムで、身体を鍛えるための様々な機具が配置されている。バーのついたダンスレッスンルームもあり、柔軟体操用のマットルームも完備されているようだ。しかもシャワー付き。かなり本格的ジムだなと驚きながらあたりを見回していると、ユキは受付に会員証を提示し、正志を差して、連れですと話した。どうやら、会員一人に対し、一人までなら非会員も入れるらしい。彼女はそのまま広い柔軟ルームへと入った。正志も慌てて後を追う。
「正志さんは、ジムは初めてですか?」
「え、ぁ、はい」
「じゃあまずは柔軟体操から入りましょうか、いきなり身体を動かすのは筋肉にも良くないですから」
「ぁ……はい」
話しながら、ユキは受付で借りてきたジャージの上下を正志に手渡す。正志は、なにがどうなっているのかわからずに、もたつきながらもそれに着替え、彼女の横に並んだ。
「そこで見ていて、私のするのと同じようにしてみてください」
「はい」
彼女はマットの上にぺたりと座り、足を大きく広げて身体を伏せたり、伸ばしたりという動きを黙々と続けた。それを横で見ていた正志は、ユキの身体のしなやかさに驚く。元は体操選手かと思えるほどだ。だが驚かされたのはそれだけではない。なんと彼女は、柔軟のあと、疲れも見せず、そのままマシンジムへと取り組んだ。そのメニューが物凄い。
レッグプレス、ペッグデック、ラットプルダウン、ケーブルトライセップにランニングマシン、その種類もさることながら、見事なフォームに見惚れる。妊娠中というのは自分の聞き違いかと思うほど、彼女の動きには無駄も無理もない。ゆったりとしたスピードで、充分に時間をかけて付加をかけ、それをまた、倍近い時間をかけて戻す。その繰り返しは、見ているぶんには美しいが、本人はそうとうしんどいはずだ。それを彼女は呆れるくらい熱心に、黙々と続けた。しかし、さすがに腹筋は不味いだろうと怖くなり、声をかける。
「大丈夫なんですかそんなことして、お腹に障るんじゃ……」
「大丈夫です、ぬるいメニューですし、医師の許可も得てます」
「……そうなんですか」
「はい」
ぬるいメニューと言われて力が抜けた。一緒にどうぞと声をかけられ、同じように始めた正志は、全て数回で挫折したというのに、ユキは涼しい顔だ。ひたいに汗を滲ませながらも、呼吸一つ乱さず、各トレーニングを十分から十五分ずつこなしていった。
そしてジムに着いてから二時間後、一通りのメニューを終えたのか、ユキはようやく息をつき、一度シャワールームに消えてから、帰りましょうかと話した。ジムのベンチに座り、待っていた正志は、まだ少し濡れた髪で戻って来たユキを、眩しく見つめ、黙ってその後に続く。



