「なあ、明日実(あすみ)、うちの貸家に住んでる風祭ユキさんって、何をしてる人なんだ?」
 毎日毎日、ユキのことばかりが気にかかり、ある日とうとう、妹に聞いてみた。家を貸しているのだから、素性も多少は知っているはずだと思ったのだ。だが妹、明日実は、出戻りの勘か、正志の邪心を鋭く見抜き、凄い剣幕で眉を吊り上げた。
「お兄ちゃん、風祭さんに気でもあるの? やめてよね、東京に恋人がいるんでしょ!」
「別に! いいじゃないか、まだ結婚したわけじゃなし、好きになるのは自由だろ」
「なに言ってんの? それはきちんと身辺整理できてから言ってよね、彼女、妊娠してるんでしょ、新しい女、作る前に、そっちをなんとかしなさいよ」
「うるさいな、なんとかはするよ! けど……」
「けどじゃないわよ、そんないい加減な男に、独身女性の身の上なんか話せません!」
 妹は、けんもほろろだ。たしかに、子供が出来たと言ってきた彼女に、それは本当に俺の子かと聞き返して、喧嘩して、それからなんの意思表示もせず実家へ帰って来た自分が悪い。それはわかる。正志はそれ以上の反論はやめ、今度は母親に聞いてみることにした。
 なにしろ、明日実は、ユキのことを、「独身女性」と言ったのだ。彼女が独り身だという確約はとれた。あとはどんな曰くがあるのかないのかを聞くだけだ。そう思って旅行中の母親に電話をすると、妹と違い、口の軽い母親は、すらすらとユキの事情を明かした。

『ああ、風祭さんね、詳しくは聞いてないけど、たぶん、どこかのお金持ちの二号さんね、突然あの家を貸してくれって黒服の使者が来て、たいそうな前金と心付をいただいたのよ、お陰で当分左団扇だわ、大事にしてよ、失礼のないようにね』
「ちょっと待ってくれよ、二号って、そんな……親かもしれないだろ」
『そんな感じじゃないわよ、いかにも執事さんって風体だったし、日本語も下手だったわ、きっと外国人ね』
「外国人……」
 母親の言葉には、妙に納得できた。ユキは、顔だけ見れば日本人だが、言葉遣いが少し変だ。イントネーションも違うし、たどたどしいというか、普段使い慣れない言葉を無理して使っている感じがする。それで初対面のときも、外国籍なのかもしれないと思った。しかしそれで彼女が誰かの囲われ者だとは思いたくない。彼女はそんな人じゃない。
「国籍は知らないけどさ、それだけで決め付けるなんて失礼だろ、いい加減なこと言うなよ」
 つい、強気で反論した。だがそれにムッとしたのか、母親は確信があるのとまくし立てる。
『いい加減じゃないわよ、彼女はどこかのお金持ちのお妾さんだと思うわ、正妻に内緒でご主人の子を生むために、こんな辺鄙な町に来たのよ、きっと』
「だから! 憶測だけでそういうこと……」
『憶測じゃないわ、本人がそう言ったんだから』
「え……?」
 その返事には、思わず固まった。頭の中が真っ白になる。
 あの清廉そうなユキが妊娠してる? そんなまさかと口ごもる。すると母親は、ご丁寧に彼女が来たときの話しをしてくれた。

 それによると、五月半ば、黒いスーツを着て黒メガネをかけた五十代くらいと思われる男がやって来て、海岸近くにある貸家を貸して欲しいと言って来たらしい。相場の三倍の家賃を向こう半年分前払いし、礼金も相場の十倍を出すという申し出で、その話を母は即諾したと言う。離れの貸家はかなり古く、長い間、空家になっていたので丁度いい。
 やって来た間借り人は女性で、風祭ユキと名乗った。殆ど身ひとつでやって来たユキは、最初の顔合わせで、深々とお辞儀をし、家を貸してくれたことに対する謝辞を述べた。そしてそのとき、彼女は、自分は今、妊娠中なので、出来るだけ静かに過ごしたいと思っていますと言ったのだそうだ。
 そんなバカなと頭の中が沸騰し、正志は乱暴に電話を切った。
 信じられない、信じたくない、そんな話、あり得ない。納得出来ない苛立ちとジレンマに駆り立てられ、ユキのもとへと走る。

「ユキさん!」
 妊娠してるって本当ですか? そう聞くつもりで彼女の家に飛び込んだ。しかし姿が見えない。どこに行ったんだと探しまわり、台所の横にある、小さな部屋に気づいた。
 そこは昔、納戸になっていたスペースで、部屋とはいえない。しかし、自分が知らぬうちに改装されたらしく、小さいながらも人の生活できる一室になっているようだ。その小さな部屋で微かに音がする。ここにいるのかと察し、正志はそっと扉を開けた。
「ユキ……さん?」
「正志さん?」
 狭い三畳ほどのスペースの部屋を占領するように敷かれた布団の上に胡坐をかくようにして、ユキはいた。
 突然やって来た正志を怪訝そうに見上げる彼女は、とても華奢に見えた。ボディラインを強調しない緩めの作務衣を纏っているとはいえ、妊娠中にしてはスレンダー過ぎる。あり得ない……しかし、母は彼女から直接聞いたと言った。まさか本当にそうなんだろうか? 妊娠も極初期なら体型に変化もないだろうし、あり得ないとは言い切れない。
 不安と疑念で締め付けられる胸を抑え、正志はおどおどと言い淀んだ。 
「ぁ、いや……その」
 妊娠してるんですか? 何度もそう言いかけて、飲み込み、ちらちらとユキの様子を窺う。やはりどう見ても、妊娠中には見えない。母の聞き違えなんじゃないのか? そう思い始めたとき、彼女の後ろ、壁際にある鏡台に目が留まった……いや、正確には、その鏡台に貼り付けてある写真に、目が留まった。
 そこには、ショートヘアのユキと、その横に並ぶ髪の長い男がいる。

 あれは誰だ?

 写真の中のユキは、今よりずっと短い髪で、美しく微笑んでいるように見える。隣の男はユキに近過ぎず、遠過ぎずの微妙な距離を保ちながらも、意識はユキを追っているようだ。心の動きは僅かにユキのほうへ伸ばされている指先でわかる。まさかと思いつつ、正志の声は震えた。
「ユキさんは、結婚とか、してるんですか?」
 思わず訊ねた言葉に、ユキは怪訝に首をかしげ、いいえと答えた。だがでは、あれは何者だ?
「じゃあ、恋人……ですか?」
 突然の問いに、意味が掴めなかったのか、ユキは不信気に首を傾げる。その物慣れない仕草が、酷く心を抉った。
 こんな純粋で清廉な人に手を出したの誰だ? その写真の男か? もしそうなら、そいつはなぜ今、ここにいないんだ? あんな幸せそうな顔をさせておいて、子供が出来たら放り捨てたのか? そうだとしたら、許せない。
 自分のことを棚に上げ、怒りに震えた正志は、鏡台の上の写真に手を伸ばした。
「この男ですよ! こいつは、ユキさんのなんなんです!」
 そう叫ぶつもりだった。しかし伸ばしかけた手は、写真に届く前に、払い除けられ、出かけた声も途中で止まる。
 正志の手を退けたユキの目は、穏やかに手料理を振舞ってくれるときとは別人のように鋭く冷たかった。射るような瞳で正志を見つめ、さりげなく後ろ手で写真を剥がす。
「他人のもん勝手に取ったらアカン」
 ユキは、剥がした写真を鏡台の引き出しの中に仕舞いながら、きつい瞳で話した。その声はいつもよりずっと冷たく突き放して聞える。
「別に、取りはしません、ただ気になって、その写真の男は誰ですか?」
「あなたには、関係、ありません」
 気を取り直したのか、ユキはさっきよりは少し和らいだ声でゆっくりと答えた。相変わらず発音がたどたどしい。
 だが彼女が無口なのも、話し方がぎこちないのも、素性を隠すためと思えば納得できる。
 あの写真の男が恋人で、そいつの子供を生むためにここに来ているとしたら、それで素性を隠したいのだとしたら、それは秘密にしなければならない理由があるということになる。その理由はなんだと考えると、「不倫」という単語が頭に浮かんだ。
 もしくは、写真の男とは既に別れていて、その後、妊娠が発覚、悩んだ末、彼女はそいつに内緒で、子供を生もうと考えた……とか?
 そこまで考えて胸がズキリと痛んだ。
 彼女は、こんな辺鄙な土地で、たった一人で子供を生もうとしている。一人で生んで、一人で育てようとしている。そんな、寂しい生き方を、なぜ、選んだのだ? それほどに、その男が好きだったのか? 今も、愛してるのか?
 気丈な表情のユキとは正反対に、正志は動揺した。彼女に、そんな寂しい道を歩かせたくない。そんな男のことなんか忘れて、自分と生きて欲しい。モヤモヤと蟠り、胸の内だけで勝手に思い詰めた正志は、自分を突き離そうとするユキの頑なさを無視するように、一歩前へ出た。
「関係あります、僕はあなたが……」

――好きです。

 そう言いかけた言葉は、不意に見せられたユキの笑顔に動揺し、留まった。彼女は臆した正志を静かに見つめていた。

「正志さん、あなたにも恋人はいるでしょう?」
「え、僕ですか、いや、僕は……」
「いるでしょ?」
 いませんよと答えようとしていた正志に、ユキはきっぱり、いるはずだと言い切った。胸の奥を見透かされたような気がしてドキリとする。
「なんで……そう思うんですか?」
「なんで? わかりますよ、だって、慣れてらっしゃるし」
「慣れてる? 僕がですか?」
「はい、普段から女性とよく話しているでしょう? それも、極親しい女の方と」
「いや、それは……」
 なんでわかるんだと戸惑った。しかし彼女は確信しているようだ。そこで誤魔化すことも出来ない。正志も仕方なく、東京に置いてきた恋人の存在を認めた。
「隠せませんね、実は東京では彼女がいました」
「いました?」
 過去形の答えにユキが視線を上げる。正志はそれに便乗し、彼女とは別れるつもりなのだと話そうと考えた。しかしそれにしても、あまり悪い男という印象を与えたくない。どう話すべきかと言い淀む。
「はい、でも、喧嘩しちゃって……最近うまくいってないんです、相性が悪いというか……」
「喧嘩、ですか」
「はい、まあ」
「理由はなんです?」
「え、いやそれは……」

 それは彼女が妊娠したと言ってきたからだ。そして決断を迫った。
 自分は子供を生む、それはあなたの子だ。だからあなたにも子供の父親としての責任がある、世間体もある。子供の将来と、自分たちの立場を考えれば、結婚するしかないだろう。彼女はそう言っていた。
 いや、言葉に出しては言わなかったが、言ったも同じだ。恋人を妊娠させて逃げた最低の男と言われたくなければ結婚しかない。暗にそう迫っていた。だから逃げた。
 しかし、そう言ってしまうと、ユキに酷い男と思われてしまうだろう。それは嫌だ。
 身勝手に我侭に、そう考えた正志は、さらに言い濁した。
「喧嘩のわけなんか、些細なことなんです、些細過ぎて忘れてしまったくらいだ、ただなんというか、自信がなくて」
「なんの?」
「彼女のことが本当に好きなのか、わからなくなってしまって……ただなんとなく、成り行きで付き合ってるだけなのかもしれないと」
「そうですか」
 自信がないと話すと、ユキは真顔で小さく頷いた。だからわかってくれたのかと思った。だがそうではなかったようだ。彼女は、少し怒っているような目をして、そう思うなら、そのまま別れればいいんじゃないですかと答えた。
「いやでも、そんな簡単には……」
 そこではい、そうしますと言ってしまうと、渡りに船というか、待ち望んでいたかのようで決まりが悪い。正志はわざと躊躇して見せた。ユキに、誠実な男と思われたいからだ。
「好きか好きじゃないか、簡単な話です、好きでもない、愛せない女と一緒にいても疲れるだけでしょう? あなたも、ですが、お相手のほうだってそうです」
「相手?」
「はい」
 少しでも、ユキの気を引きたいと姑息な思いで言った言葉に、彼女は真摯に対応した。だがその意味がよくわからない。聞き返すとユキは、女にだって思いはありますよと答えた。
「彼女にだって先はあるんです、あなたとの未来が望めないなら、早々に見切りをつけて、もっと実りのある恋を探すことも出来る、そのためにも、あなたがはっきりしなければ……愛してないなら早くそう言うべきです、そうすれば女は先を見ることが出来る」
「先って、まさかそんな」
「なにがまさかです? 正志さんのほうこそ、、まさか女はいつまでも待ってるものと思ってるんですか? 彼女に思いをよせる男が一人もいないとでも?」
 ずいぶん自惚れ屋なんですねと、ユキは真顔で言った。その言葉で思考が止まる。