――何もかも嫌になって辞めてきただなんて、一体どういうことなのだろう。バイトと、何を辞めたのだろうか。もしかして大学?

 そんなふうに考えていることがすべて顔に出ていたのかもしれない。
 私をジッと見つめていた裕樹は、小さくため息をついて、苦笑いを浮かべた。

「昨日のうちに話そうと思ったんだけどさ、何か話しにくかったし、姉さんも聞かずにいてくれたからそれに甘えちゃってたんだけど……ちゃんと今から、全部話すから」

 一体どんな告白が始まるのかと思うと不安になって、私はただ頷いて、口の中に溜まった唾をゴクリと飲み下すことしかできなかった。

「すごくくだらないことだよ。きっと姉さんが心配しているようなことじゃなくて、すごくすごくくだらないこと。でも、俺はそのくだらないことに疲れきって、こうして逃げてきちゃったってわけ」

 おそらくこれは、助走のようなものなのだろう。裕樹にとってこれから話すことは、高跳びや跳び箱なんかみたいに、助走なしでは口にできないことなのだろう。
 裕樹が話すことが、この前振りのように本当にくだらないことであればいいけれど……と、私はどこか祈るように思う。

「俺、高校のときから演劇やってるんだけど、高校のときは役者だったのが、段々と興味が演出とかのほうになっていったんだよ。だから、大学では脚本を書くようになったんだ。古典の超解釈だとか、オリジナルだとか、仲間と相談して作るのが楽しくてさ。それで、最初は大学の部だけでやってたのが、声をかけられて小劇場で公演してるような劇団にも顔出させてもらうようになったんだ。そこの人たちにはすごくよくしてもらって、勉強になったし、バイトとかも紹介してもらったりもしたんだけど……座長におかしな脚本を書くよう言われて、それが嫌で逃げてきたんだ」

 そこが区切りだったらしく、裕樹は長いため息をついた。すごく疲れた顔をしているから、相槌を打つべきかどうか迷ってしまう。

「おかしなって、どんな?」
「劇団のある女優の子を主役にした脚本を書けって言われたんだけどさ、その子は練習熱心じゃないし、はっきり言って演技が下手なんだ。だから、その……大して演技がいらない、でもその子の見せ場がたくさんあるような脚本にしろって言われて、腹が立ったんだよ」

 吐き捨てるように話す裕樹の顔は苦しげに歪んでいた。その顔を見て、私はピンときた。

「その子ってさ、もしかして座長に枕して贔屓されてるの?」
「……うん」
「裕樹にも?」
「……ううん。何か、やたらとベタベタしてくるし、積極的にアプローチしてくるけど、俺に近づいてきたときは別の彼氏がいたからかわしてたんだ。でも、そのうち座長とそういう仲になってて、今回のことってわけ」
「なるほど……ひどい話だ」

 裕樹の話を聞いて、私はどこかホッとしていた。裕樹にとっては確かに災難だっただろう。胸糞悪い話だ。自身の求めるところとは違うものを書けと言われ、その理由がビッチの我儘だなんて、とんでもないことだ。
 でも、「ひどい話だ」と言ってあげられる話でよかったと、私は思う。
 人妻と恋仲になったのが旦那にバレて慰謝料請求されているだとか、犯罪をおかしたとか、あるいは……死んでしまいたいほど辛いとか言われるのではないかと、私は悪いことばかり考えていたのだから。

「それで、演劇とかバイトとか全部投げてきちゃったってわけね。大学は?」
「それはさすがに」
「なら、まぁよし。逃げてきたってことは、いまいち裕樹の苦しい思いが周りに理解してもらえなかったからでしょ?」

 おそらく、裕樹の周りの男性たちは軒並みビッチの毒牙にかかっているか、その予備軍なのだろう。もしくは、女のそういった狡さに無関心なのか、長いものに巻かれるタイプか。とにかく、裕樹の味方はいなかったと見える。
 こういうことに他の女の子を巻き込むのも考えものだし、裕樹が逃げ出したのも仕方がないと言えるだろう。
 文化系の人間には文化系の人間たちの闇があるのだ。体育会系の人たちが想像できないような、トラブルやこじれがあるのだ。
 その闇を覗いたことがない人たちには裕樹の話したことなんて信じられないだろうし、大げさに話したと思うだろう。
 でも、残念ながら痴情のもつれや人間関係の泥沼は、文化部あるあると言ってもいい。
 私も高校時代、演劇部部長が自分の彼女のためにただひたすら彼女の役と自分の役がイチャつく脚本を書いて他の部員の顰蹙を買ったという話を友人から聞かされていたし、吹奏楽部内でカップルができたり別れたり横取りしたりという話はあまりに有名だった。
 そんな私も女だらけの茶道部に所属して、女の泥沼を見ている。お菓子が食べられるという言葉につられて入部し、お菓子のみを頼みに三年間辞めずにいたのは自分でも呆れるやら感心するやらだけれど。

「誰かひとりくらいは味方になってくれたかもしれないけどさ……何かもう、ただ疲れちゃって。誰かに説明してわかってもらおうって気もおきないくらい疲れてたんだ」

 話し終えて疲れたのか、それとも精神的な疲れなのか、裕樹はしょぼくれて見える。
 本当なら、嫌なことがあったとはいえ投げ出して逃げてきた無責任さを姉として叱ってやるべきなのかもしれない。
 でも、おそらく自分でもわかっているだろうし、向こうに戻れば誰かに言われることだ。
 だから、私は避難場所として、ただ受け入れるだけにしようと思う。

「まぁ、疲れちゃって追い詰められるより、姉ちゃんのところで休もうって思ってくれたのはよかったよ。だからさ、しばらくいていいよ」
「……ありがとう!」

 元から追い出される気なんてきっとなかったくせに、裕樹は心底安心したという顔をして笑った。笑うと目がなくなって、人懐こい顔にさらに愛嬌が出る。弟になったばかりの頃も、この可愛い顔が見たくて、構い倒して、しまいにはくすぐったりもしたくらいだ。

「それで、姉さんは俺の話を聞くまで、一体どんな心配をしてたの?」
「どんなって……まぁ色々」

 裕樹の話が本当に何でもないことだったとわかってホッとしているところに、不意打ちの質問だった。人妻がどうとか、犯罪がどうとかいうのは裕樹の気持ちを傷つけやしないかと気になって、口にするのはためらわれる。

「だってさ、一万円もポンとお小遣いとして渡してから仕事に行くなんて、相当心配したんでしょ? 不動産屋さんってそんなに給料良いイメージないし」
「う……まぁね」

 確かに、私の給料から考えると一万円は大きな出費だ。でも、そこまで深く考えて渡したわけではないから、まさかそこを突っ込まれるとは思わなかった。

「……人妻との不倫がバレて逃げてきたのかな、とかは考えたね。でも、違ってよかった」
「何それ! 俺、年上キラーにでも見える?」
「見える見える。あんたみたいな懐っこい男の子が好きってお姉さんは結構いるんだよ」

 食べてそのままになっていた食器をシンクに運びながら、私は適当に答える。若い燕が似合うだなんて言われて微妙な気持ちだったのか、裕樹は何とも言えない顔をしていた。

「まぁ、年上が好きっていうのは、否定できないかな」

 そう言うと裕樹は、私をシンクの前から追いやって洗い物を始めてしまった。夕食を作ってもらって片付けまでさせるのは、と思ったけれど、好意に甘えることにした。
 お腹が満たされたことと裕樹の事情がわかって安心したのとで、急に眠気ざしてきたのだ。
 水が流れる音とお皿がカチャカチャする音を聞くともなしに聞いているうちに、どんどん意識は遠くなっていく。太るとはわかっていても食後のまどろみに身を任せるのは、いつだって心地良い。

「姉さん、起きなよ。お風呂入ったり、着替えたりしないと。そういう生地のスカートって、吊るしてないと皺になるだろ」
「……ん、起きる」

 どのくらい寝ていただろうかと慌てて壁の時計を見ると、まだ三十分も経っていなかった。洗い物を終えてすぐに声をかけてくれたらしい。

「ごめん、寝ちゃって」
「いいよ。やっぱ、働いて帰ってくると疲れてるだろ。そんなことより、食後のデザート代わりに美味しい飲み物いれたから」

 テーブルの上には、お気に入りだけれど滅多に使わないタンブラーグラスが二つ並んでいた。ひとつはリス、もうひとつはウサギのシルエットが底に近い部分にぐるりと描かれている。可愛くて割りたくなくて、奥にしまっていたのだ。

「カルピス?」
「うん。でも、ちょっと普通のと違うから飲んでみて」

 ウサギのグラスを勧められ、私は言われるままそれを口にした。
 それはカルピスというよりも、もっと濃厚な、飲むヨーグルトに近い舌触りと味だった。

「美味しい……何これ」
「カルピスの牛乳割り。しかも、ちょっとレモンも入れてる」
「だからちょっとラッシーっぽい味なのか」

 私は本格カレー屋さんで頼む、あの飲み物のことを思い出していた。美味しいけれど、飲みすぎるとカロリーが気になってしまう、あの飲み物だ。

「……裕樹にご飯作ってもらってたら、私、きっと太っちゃうな」
「なら、運動すればいいんだよ。食べることは悪いことじゃない。動かないのがいけないんだ」
「う……」

 ポツリと口にしたある意味幸せな愚痴を、裕樹は聞き逃さなかったらしい。健康的でしなやかな裕樹に言われてると、動くのが嫌で安易に食事制限をしてしまうことが恥ずかしくなる。
 動けばいいのか。そうか、そうですね。

「そういえばさ、この家の食器ってもしかして高いもの?」

 飲み終えたグラスをシンクに運びながら裕樹がちらりと食器棚になっているカラーボックスを見た。三段のカラーボックスを二つ並べて使っているけれど、そのどちらも結構キチキチに食器が並んでいる。

「ううん。ほとんど雑貨屋さんで手に入れたよ。最近はオシャレな百均もあるからね。この食器棚に入ってるほとんどのものが『Kitchen Kitchen』っていう雑貨屋さんで買ったもの。東京にもあるでしょ? 百円で可愛いもの買えるから人気なんだよ」
「うそ! この可愛いコップも? このグラタン皿も? このガラスのティーセットも? 全部百円?」
「あ、そのティーセットは、カップとコースターの二セットが五百円、ポットが五百円の計千円のお品でございます。ちなみにこれは『Salut!』って店で買ったの。ここは北欧雑貨を中心に可愛いものが揃ってていい店よ」
「おお……」

 食器棚を前にして、裕樹が細い目を見開いている。もしかしたら、高いものかもと思って緊張しながら洗ったのだろうか。そうなのだとしたら申し訳ないことをした。でも、私の素行を知っていれば、そんな高級品をおけないこともわかるだろうに。

「姉さん、食器とか雑貨とか好きだったんだな」

 部屋を見渡して、裕樹がしみじみと言った。
 壁には控えめな色と柄のファブリックと、かすれたエッフェル塔がプリントされた時計。テレビ台の上にはブリキのミニバケツに入ったサボテン。そのテレビ台も無垢材を使った柔らかな色味をしているのがこだわりポイントだ。
 私の部屋は全体的に森ガールっぽいテイストに仕上がっている。大学時代からコツコツ集めたものが、この部屋には溢れている。
 雑貨屋さんで安く手に入れたものや、ヨーロッパの蚤の市を模したイベントで見つけた掘り出し物もある。少し古臭くて、誰かの温もりを感じるこれらのものは、気に入ったものを長く持ち続けたい私の性分と合っているのだ。

「お母さんと一緒にいた頃は、何かを持ち続けることって、できなかったでしょ?」
「ああ……そうだったね」

 私の母は、私の真逆で物に執着のない人だ。今でいうところの断捨離を生活の中に自然と取り入れている人で、何かの節目ごとに潔く、情け容赦なく物を捨ててしまう人だった。
 おかげで家はいつも綺麗で整っていたけれど、ある日突然お気に入りのものがなくなる生活は、私にとってはすごく辛かったのだ。

「一人暮らし始めたら、絶対に好きなものに囲まれて生活するって決めてたんだ」
「そうなんだ。……いいね、俺、この部屋好きだ。姉さんの部屋って感じがする」

 部屋を眺めるのに飽きたのか、裕樹はキルトラグの上にゴロンと横になった。それはまるで猫が自分のお気に入りの場所を見つけたような仕草で、見ていると何だか私もほっこりした。