部屋の照明を落としてオレンジ色のデスクライトだけにする。
『拝啓』そう書いて、私はペンを握ったまま四角い窓の向こうに目を向けた。
視線の先に鮮やかな夜空が広がっている。月や星がとても綺麗だ。空気が澄んでいるからだろう。
書きかけの手紙をそのままにして、しばし、痛々しいまでに美しい風景を堪能する――と、目の端に、通りを肩をすぼめながら行く人の姿が映る。
「寒そう……」
あの人が誰かは知らない。でも、児童養護施設育ちの私より、きっと幸せな人生を歩んできたと思う。なのに、今この瞬間は、温々とした部屋にいる私の方がずっと幸せに思える。
だから私は冬が好きなのだ。自然の下では誰もが平等。そう思えるから。
○◇○
〝あしながおじさん〟は、アメリカの作家が書いた著名な児童文学作品だ。それを初めて読んだのは、確か……小学四年生だったと思う。
手紙形式で書かれた内容に、『これが小説?』と違和感を持った。
きっと、自由という言葉を知らなかったからだろう。
『物語はこうあるべき!』
『食事はこうあるべき!』
『人間はこうあるべき!』
そんな風に、私は型にはまったものが唯一無二の存在だと思っていた――といっても、施設が子供たちを規則で雁字搦めにしていたわけではない。私が、見えない何かに縛られている、そう感じていただけだ。
それから月日は流れ、再びそれを手にしたのは中学一年生の時だった。
きっかけは何だったか忘れたが、そのときの私は〝あしながおじさん〟って、もしかしたら恋愛小説なの? そんな風に思った。
しかし、その頃の私もまだ何かに囚われていた。
エンディングまで読んで、こんな風に環境の違う二人が幸せになるはずがない、と文句を言ったのを覚えている。
そして……現在の私は純粋にこの物語が好きだ。何冊かある愛読書の一冊でもある。こう思えるようになったのは、今が幸せだからだろう。
しかし、だからといって、主人公に自分を重ね、宛名の主を〝足長おじさん〟と呼んでいるわけではない。そう呼んで欲しいと言われたからだ。
足長おじさんとの付き合いは、遡ること六年前、中学二年生の晩夏からだ。
きっかけは……。
おそらく夏休みに入る前、第一回の進路調査で第一希望の欄に『就職』と書いたからだと思う。
児童養護施設は最長十八歳までいられる。ここ〝ヒマワリ〟も例外ではない。
だが私は、中学を卒業したらここを出る、と決めていた。囚われていると思っていた〝何か〟から逃げたかったのだ。
しかし、学校の先生も施設の先生方も、それを良しとしなかった。
たぶん成績が良かったからだろう。
「十代半ばで社会に出ても苦労するだけだ。君の成績なら奨学金が貰える。悪いことは言わない。進学しなさい」
今ならその言葉の意味が十分すぎるほど良く分かる。だが当時の私は……やはり、まだ子供だった。
「なら、どうして進路調査なんてするんですか? さっさと高等学校を義務教育化すればいいじゃないですか。そうしたら、私だって従います」
生意気にもそんな風に反発した。
すると、それまで黙って聞いていた施設長が、「将来、ソラは何になりたいの?」と尋ねた。
私は用意しておいた答えを言った。「漠然とですが、調理師になろうと思っています」と。
これなら、生涯、食べるには困らないだろう。そう思ったのだ。
それに、資格試験の条件は、中学校卒業と実務経験二年以上。それさえあれば受けられるからだ。
「そうね、貴女は食べることが好きだったわね」
施設長はふっと笑みを浮かべて、「それが将来、誰かのための食事になるといいわね」と言っただけで、反対はしなかった。
しかし、学校の先生は苦虫を噛み潰したような顔で、「夏休み明けに再度提出して頂く。それまでにしっかり相談しておいて下さい」と調査用紙を突き返した。
施設の先輩がその話を聞き、「今はね、中卒者の就職を探す方が、進学させるよりも大変なんだよ」と教えてくれた。
だから先生は是が非でも進学させたかったみたいだ。
こんな風に少々波風を立てた私の進路だが、突如、夏休み終盤に決定した。
降って湧いたように養女の申し出があったのだ。
驚いたことに、それは赤井梅施設長からだった。青天の霹靂とはこのことだと思った。
――で、この事がなぜ進路に関係するかというと、養女になるために、三つの条件を提示されたからだ。
一つ、高校、及び、調理師専門学校を卒業すること
二つ、卒業後は施設で働くこと
三つ、理事の一人である、とある方に毎日手紙を書くこと
そんな馬鹿げた条件を。
「手紙の宛先である理事のことは『足長おじさん』と呼んで下さい。今回の提案はその方が申されたことです」
梅さんの言葉に至極当たり前の疑問が浮かんだ。
「なのにどうして施設長が私を養女にするんですか? 普通なら、言い出しっぺの足長おじさんとやらが養女にすべきじゃないですか?」
「確かにそうですね」と肯定はしたものの、結局、梅さんは理由を言わなかった。
「それに、私は物じゃありません。条件付きで養女になるなんてナンセンスです」
だから、きっぱりと断ろうと思ったのだが――。
「ソラの意見は何もかも道理です」
「だったら……」
「ですが、道理だけで生きていけるほど世の中は甘くないのです」
梅さんの言葉に首を傾げた。
『常に正しくあれ。正しい道を行け。幸福はその先にある』
ここの子供たちはそう教えられ育つ。
「施設の教えは間違っているということですか?」
「いいえ、間違いはありません」
梅さんは悲しげな瞳でふるふると頭を振った。
「ですが……厳しい社会で生き抜くには、純粋で真っ直ぐすぎてもダメなのです」
何が言いたいのか、当時の私はさっぱり分からなかった。
「実は私も施設で育ちました」
そんな私に梅さんは告白した。妹さんと一緒に預けられていたらしい。
「ですから分かるのです。純粋に正しい道を行こうとしても、社会がそれを阻み、陥れるということを。悲しいかな、世間の人が常に弱者の味方でいてくれるとは限らないということです」
「だったら、『ずる賢く生きろ』と、どうして教えないのですか?」
「まずは正しい在り方、道徳を子供に教えることが大人の務めだからです」
「矛盾している……」
知らず知らず口から漏れ出た言葉だ。
「そうです。世の中は矛盾だらけです。それが世の中なのです。そんな中で、自分の良心に従い『正しい』を取捨選択できるようになるには、ある程度、社会というものを知らなくてはいけません」
「そんなの、働きながらでも学べるじゃないですか」
「できればそうさせてあげたい。でも……貴女は自分のことをお利口さんだと思っているでしょう? しかし、しょせんは井の中の蛙。飛び出した途端、ペシャンコに潰されるのがオチです。それよりも――」
射貫くような眼で梅さんがニヤリと嗤った。
この人は誰? そう思ったほど、普段の柔和な顔からほど違い悪い顔だった。
「図太く生きなさい。特に貴女は、親兄弟はもちろん親類縁者に至るまで頼る人がいないのだから」
確かにそのとおりだ。頼れるのは自分だけだった。
「差し伸べられた手を掴むのです。タイミングを逃し、後悔しても後の祭りです。よく言うでしょう? 幸運の女神には後ろ髪が無い……と」
どの言葉も正論だと分かっているのに、プライドだけ高くて子供だった私は、さらに反論した。
「先生はいつも甘い話には注意しなさいとおっしゃっています。それだと、私にだけメリットが有って、先生には何のメリットも無いのでは?」
「確かにそうですね。でも、青田買い? 将来に向けての投資だと思ったら――大きなメリットです。私は施設をとても愛しています。貴女はとても優秀です。投資するに値する人物だと思います。施設にとってもプラスになるでしょう」
その言葉が本心から出たものか否かは別にして、恐ろしいほど打算的な意見に、ある意味私は感心した。オブラートに包まず子供扱いしなかったのも気に入った。
だが、提案を呑めば、施設から逃れたいと思っていたのに、私は施設に一生縛られて生きることになる。
やるせないと思った――なのに私は、「分かりました」と承諾していた。
自棄を起こしたわけではない。必要とされている……何となくそう思ったからだ。
承諾と共に、私は足長おじさんとやらに手紙を書き始めた。
そして、梅さんは、私が中学を卒業すると同時に施設長の座を甥の柳瀬学氏に譲り、理事の一人となり、本当に私を養女にしてしまった。
『拝啓』そう書いて、私はペンを握ったまま四角い窓の向こうに目を向けた。
視線の先に鮮やかな夜空が広がっている。月や星がとても綺麗だ。空気が澄んでいるからだろう。
書きかけの手紙をそのままにして、しばし、痛々しいまでに美しい風景を堪能する――と、目の端に、通りを肩をすぼめながら行く人の姿が映る。
「寒そう……」
あの人が誰かは知らない。でも、児童養護施設育ちの私より、きっと幸せな人生を歩んできたと思う。なのに、今この瞬間は、温々とした部屋にいる私の方がずっと幸せに思える。
だから私は冬が好きなのだ。自然の下では誰もが平等。そう思えるから。
○◇○
〝あしながおじさん〟は、アメリカの作家が書いた著名な児童文学作品だ。それを初めて読んだのは、確か……小学四年生だったと思う。
手紙形式で書かれた内容に、『これが小説?』と違和感を持った。
きっと、自由という言葉を知らなかったからだろう。
『物語はこうあるべき!』
『食事はこうあるべき!』
『人間はこうあるべき!』
そんな風に、私は型にはまったものが唯一無二の存在だと思っていた――といっても、施設が子供たちを規則で雁字搦めにしていたわけではない。私が、見えない何かに縛られている、そう感じていただけだ。
それから月日は流れ、再びそれを手にしたのは中学一年生の時だった。
きっかけは何だったか忘れたが、そのときの私は〝あしながおじさん〟って、もしかしたら恋愛小説なの? そんな風に思った。
しかし、その頃の私もまだ何かに囚われていた。
エンディングまで読んで、こんな風に環境の違う二人が幸せになるはずがない、と文句を言ったのを覚えている。
そして……現在の私は純粋にこの物語が好きだ。何冊かある愛読書の一冊でもある。こう思えるようになったのは、今が幸せだからだろう。
しかし、だからといって、主人公に自分を重ね、宛名の主を〝足長おじさん〟と呼んでいるわけではない。そう呼んで欲しいと言われたからだ。
足長おじさんとの付き合いは、遡ること六年前、中学二年生の晩夏からだ。
きっかけは……。
おそらく夏休みに入る前、第一回の進路調査で第一希望の欄に『就職』と書いたからだと思う。
児童養護施設は最長十八歳までいられる。ここ〝ヒマワリ〟も例外ではない。
だが私は、中学を卒業したらここを出る、と決めていた。囚われていると思っていた〝何か〟から逃げたかったのだ。
しかし、学校の先生も施設の先生方も、それを良しとしなかった。
たぶん成績が良かったからだろう。
「十代半ばで社会に出ても苦労するだけだ。君の成績なら奨学金が貰える。悪いことは言わない。進学しなさい」
今ならその言葉の意味が十分すぎるほど良く分かる。だが当時の私は……やはり、まだ子供だった。
「なら、どうして進路調査なんてするんですか? さっさと高等学校を義務教育化すればいいじゃないですか。そうしたら、私だって従います」
生意気にもそんな風に反発した。
すると、それまで黙って聞いていた施設長が、「将来、ソラは何になりたいの?」と尋ねた。
私は用意しておいた答えを言った。「漠然とですが、調理師になろうと思っています」と。
これなら、生涯、食べるには困らないだろう。そう思ったのだ。
それに、資格試験の条件は、中学校卒業と実務経験二年以上。それさえあれば受けられるからだ。
「そうね、貴女は食べることが好きだったわね」
施設長はふっと笑みを浮かべて、「それが将来、誰かのための食事になるといいわね」と言っただけで、反対はしなかった。
しかし、学校の先生は苦虫を噛み潰したような顔で、「夏休み明けに再度提出して頂く。それまでにしっかり相談しておいて下さい」と調査用紙を突き返した。
施設の先輩がその話を聞き、「今はね、中卒者の就職を探す方が、進学させるよりも大変なんだよ」と教えてくれた。
だから先生は是が非でも進学させたかったみたいだ。
こんな風に少々波風を立てた私の進路だが、突如、夏休み終盤に決定した。
降って湧いたように養女の申し出があったのだ。
驚いたことに、それは赤井梅施設長からだった。青天の霹靂とはこのことだと思った。
――で、この事がなぜ進路に関係するかというと、養女になるために、三つの条件を提示されたからだ。
一つ、高校、及び、調理師専門学校を卒業すること
二つ、卒業後は施設で働くこと
三つ、理事の一人である、とある方に毎日手紙を書くこと
そんな馬鹿げた条件を。
「手紙の宛先である理事のことは『足長おじさん』と呼んで下さい。今回の提案はその方が申されたことです」
梅さんの言葉に至極当たり前の疑問が浮かんだ。
「なのにどうして施設長が私を養女にするんですか? 普通なら、言い出しっぺの足長おじさんとやらが養女にすべきじゃないですか?」
「確かにそうですね」と肯定はしたものの、結局、梅さんは理由を言わなかった。
「それに、私は物じゃありません。条件付きで養女になるなんてナンセンスです」
だから、きっぱりと断ろうと思ったのだが――。
「ソラの意見は何もかも道理です」
「だったら……」
「ですが、道理だけで生きていけるほど世の中は甘くないのです」
梅さんの言葉に首を傾げた。
『常に正しくあれ。正しい道を行け。幸福はその先にある』
ここの子供たちはそう教えられ育つ。
「施設の教えは間違っているということですか?」
「いいえ、間違いはありません」
梅さんは悲しげな瞳でふるふると頭を振った。
「ですが……厳しい社会で生き抜くには、純粋で真っ直ぐすぎてもダメなのです」
何が言いたいのか、当時の私はさっぱり分からなかった。
「実は私も施設で育ちました」
そんな私に梅さんは告白した。妹さんと一緒に預けられていたらしい。
「ですから分かるのです。純粋に正しい道を行こうとしても、社会がそれを阻み、陥れるということを。悲しいかな、世間の人が常に弱者の味方でいてくれるとは限らないということです」
「だったら、『ずる賢く生きろ』と、どうして教えないのですか?」
「まずは正しい在り方、道徳を子供に教えることが大人の務めだからです」
「矛盾している……」
知らず知らず口から漏れ出た言葉だ。
「そうです。世の中は矛盾だらけです。それが世の中なのです。そんな中で、自分の良心に従い『正しい』を取捨選択できるようになるには、ある程度、社会というものを知らなくてはいけません」
「そんなの、働きながらでも学べるじゃないですか」
「できればそうさせてあげたい。でも……貴女は自分のことをお利口さんだと思っているでしょう? しかし、しょせんは井の中の蛙。飛び出した途端、ペシャンコに潰されるのがオチです。それよりも――」
射貫くような眼で梅さんがニヤリと嗤った。
この人は誰? そう思ったほど、普段の柔和な顔からほど違い悪い顔だった。
「図太く生きなさい。特に貴女は、親兄弟はもちろん親類縁者に至るまで頼る人がいないのだから」
確かにそのとおりだ。頼れるのは自分だけだった。
「差し伸べられた手を掴むのです。タイミングを逃し、後悔しても後の祭りです。よく言うでしょう? 幸運の女神には後ろ髪が無い……と」
どの言葉も正論だと分かっているのに、プライドだけ高くて子供だった私は、さらに反論した。
「先生はいつも甘い話には注意しなさいとおっしゃっています。それだと、私にだけメリットが有って、先生には何のメリットも無いのでは?」
「確かにそうですね。でも、青田買い? 将来に向けての投資だと思ったら――大きなメリットです。私は施設をとても愛しています。貴女はとても優秀です。投資するに値する人物だと思います。施設にとってもプラスになるでしょう」
その言葉が本心から出たものか否かは別にして、恐ろしいほど打算的な意見に、ある意味私は感心した。オブラートに包まず子供扱いしなかったのも気に入った。
だが、提案を呑めば、施設から逃れたいと思っていたのに、私は施設に一生縛られて生きることになる。
やるせないと思った――なのに私は、「分かりました」と承諾していた。
自棄を起こしたわけではない。必要とされている……何となくそう思ったからだ。
承諾と共に、私は足長おじさんとやらに手紙を書き始めた。
そして、梅さんは、私が中学を卒業すると同時に施設長の座を甥の柳瀬学氏に譲り、理事の一人となり、本当に私を養女にしてしまった。