ユキの住む家は、元々小さな雑居ビルだった物を買い取り、改装したもので、作りも普通の家と違う。一階が店、生活空間は四階、二階は身体を鍛えるためのジムになっていて、必要になれば鍛錬の場としても使える。
「さて……」
道場の中へ入り、ゆっくりと振り向くと、吟は殆ど始めて入ったその部屋をを、きょろきょろと見回していた。これから戦うというのに、どこか呑気な顔だ。ユキは自身も気が緩まぬようと気を張り、少し声を落として話した。
「わかっとると思うが、全力で来いや?」
全力で来いと言うと、吟は動揺を見せた。女性相手に本気でというのは気が引けるというらしい。だが自分は女性ではない。吟にはそれがわからないのだろう、ユキはそこが吟の甘さだと思いながら、忠告を入れた。
「なるほどお前の言う通り、女は男に敵わんのかもしれん、けどな、俺も壬晒組総長やった人間やで? どんなになっても、手え抜いて勝てるほど甘ないわ、そんぐらいわかるやろ?」
階段を上りながら頭を冷やし、気持ちを切り替えたユキは、静かに話す。それを見つめ、今ひとつ納得しかねていた吟も、わかりましたと頷いた。
「じゃ、始めるか」
「待ってください、その前に、勝敗のつけ方を決めときませんか?」
「そんなん、動けんようになったモンが負けやろ」
「いや、それじゃ困ります、動けんようになったら、明日の営業に差し支えます」
「勝てる気かいな、まったく……ならどうする」
「どちらかが、負けを認めたとき、というんでどうですか?」
どうやら吟は本当に勝つ気でいるらしい。ユキが動けなくなったら困ると言いたいようだ。ずいぶん見くびられたモノだなと思いながらもその意見に同意した。別にどちらでもかまわない、吟には悪いが自分も負ける気はしない。
「わかった、それでええわ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん、始めるで」
「はい」
勝負を決めるため、ユキは仕事着を景気よく脱ぎ捨てる。その途端吟はムッとした顔で一歩下がった。
「ユキさん、あれほど言ったんに、またノーブラですね」
「あ? 別にええやろ、うっさい奴やな、(上着を)着とけばわからんやんか」
「そういう問題やないですよ! だいたい着とったって触ればわかります!」
「は? 誰が触るんや、お前か?」
「ちゃいますよ! 誰だって……っ」
たぶん吟は最初から気づいていたのだろう、だから余計苛々と心配していたに違いない。だが面倒臭いので改心はしない。吟もユキが聞く耳をもたないと察したのだろう、ムッとした表情のまま、黙り込み、身構える。かなり本気のようだ。
ユキも誰かと本気で組み合うのは久しぶりだった。吟にどれほどの力があるのかわからないし、最初は相手の出方を見てやろうと考えた。つねに先攻方のユキとしては、待ちの態勢は得意ではないが、今回は待つ。確実に勝つために手段など選んではいられなかった。
動かないユキ焦れたのか、吟が先に動き出す。とりあえず正面攻撃というのが潔いなと思いながら、繰り出される拳の行方を見ていた。
だがその拳は、ユキに当たる寸前で軌道を変え、さらに平手に変わる。
吟は喉のすぐ下、鎖骨中心あたりに手を当て、突っ込んできた勢いのまま、ユキを押し倒そうとした。だがユキも押されたくらいで倒されはしない。突き出された右手を掴み、そのまま薙ぎ払う。床に投げ捨てられる形になった吟は、体を反転させ、すかさず足払いをかけてきた。まるで子どもの喧嘩だなと思いながら、その足を避け、半歩下がる。その間に立ち上がった吟は、最初と同じ型で突っ込んでくる。何度か同じことが繰り返され、ユキも少し焦れてきた。
「いい加減にせんかい! 本気で来いと言うたやろ、それがお前の本気か? そんなモンなんか!」
だが怒鳴っても吟はやり方を変えない。あくまでも、ユキを殴る気はないらしい。何度でも同じように突っ込んでくる。頭にきたユキは、早々にこの馬鹿馬鹿しい試合を終わらせようと、突っ込んでくる吟に殴りかかった。
その瞬間、ずっと同じだった吟の手の軌道が変わる。
「……っ?」
吟の腕はユキの喉元でなく、喉そのものへと伸ばされる。ハッとしたが一瞬遅く、スリーパーホールド状態で締め上げられた。
なかなかコツを知っている。気管を潰さずに、頚動脈だけに力が加えられ、目の前が暗くなった。
「くっ……」
一度決められると振り解き難くなるのがホールドチョーク型攻撃の特徴で、この状態から力だけで腕を振り解くのは、よほどの力差がない限り無理だ。足元はフックされていないが、上背が違い過ぎる。ユキもそこから足掻くのはやめにして、他に脱出経路はないかと考えた。
だが技の決め方が上手い。息苦しくはないが、頚動脈圧迫で血流が途絶え、急激に血圧が低下していく。視界と意識がぼやけてくるのは、失神する前兆だ。
不味いなと気づいたときには殆ど遅く、意識を失うのは時間の問題、それもほんの数秒だろう。そう覚悟を決め、ユキは抵抗をやめた。
一瞬全身が硬直し、そのあとすぐに弛緩する、そしてそのまま動かなくなった。
ユキの体から力が抜けると、吟は途端にハッとして、慌てて腕を外す。そして倒れこむユキに手を差し伸べ、抱きかかえるようにして床面へと横たえた。
「……ユキさん」
無防備に横たわるユキを見つめ、動揺した呟きが聞えてくる。吟はユキが完全に落ちたと思っているのだろう。舐められたものだ。胸の内で息をついたユキは、こちらが気を失っていると信じて油断している吟の左脇腹に膝蹴りを入れた。
「さて……」
道場の中へ入り、ゆっくりと振り向くと、吟は殆ど始めて入ったその部屋をを、きょろきょろと見回していた。これから戦うというのに、どこか呑気な顔だ。ユキは自身も気が緩まぬようと気を張り、少し声を落として話した。
「わかっとると思うが、全力で来いや?」
全力で来いと言うと、吟は動揺を見せた。女性相手に本気でというのは気が引けるというらしい。だが自分は女性ではない。吟にはそれがわからないのだろう、ユキはそこが吟の甘さだと思いながら、忠告を入れた。
「なるほどお前の言う通り、女は男に敵わんのかもしれん、けどな、俺も壬晒組総長やった人間やで? どんなになっても、手え抜いて勝てるほど甘ないわ、そんぐらいわかるやろ?」
階段を上りながら頭を冷やし、気持ちを切り替えたユキは、静かに話す。それを見つめ、今ひとつ納得しかねていた吟も、わかりましたと頷いた。
「じゃ、始めるか」
「待ってください、その前に、勝敗のつけ方を決めときませんか?」
「そんなん、動けんようになったモンが負けやろ」
「いや、それじゃ困ります、動けんようになったら、明日の営業に差し支えます」
「勝てる気かいな、まったく……ならどうする」
「どちらかが、負けを認めたとき、というんでどうですか?」
どうやら吟は本当に勝つ気でいるらしい。ユキが動けなくなったら困ると言いたいようだ。ずいぶん見くびられたモノだなと思いながらもその意見に同意した。別にどちらでもかまわない、吟には悪いが自分も負ける気はしない。
「わかった、それでええわ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん、始めるで」
「はい」
勝負を決めるため、ユキは仕事着を景気よく脱ぎ捨てる。その途端吟はムッとした顔で一歩下がった。
「ユキさん、あれほど言ったんに、またノーブラですね」
「あ? 別にええやろ、うっさい奴やな、(上着を)着とけばわからんやんか」
「そういう問題やないですよ! だいたい着とったって触ればわかります!」
「は? 誰が触るんや、お前か?」
「ちゃいますよ! 誰だって……っ」
たぶん吟は最初から気づいていたのだろう、だから余計苛々と心配していたに違いない。だが面倒臭いので改心はしない。吟もユキが聞く耳をもたないと察したのだろう、ムッとした表情のまま、黙り込み、身構える。かなり本気のようだ。
ユキも誰かと本気で組み合うのは久しぶりだった。吟にどれほどの力があるのかわからないし、最初は相手の出方を見てやろうと考えた。つねに先攻方のユキとしては、待ちの態勢は得意ではないが、今回は待つ。確実に勝つために手段など選んではいられなかった。
動かないユキ焦れたのか、吟が先に動き出す。とりあえず正面攻撃というのが潔いなと思いながら、繰り出される拳の行方を見ていた。
だがその拳は、ユキに当たる寸前で軌道を変え、さらに平手に変わる。
吟は喉のすぐ下、鎖骨中心あたりに手を当て、突っ込んできた勢いのまま、ユキを押し倒そうとした。だがユキも押されたくらいで倒されはしない。突き出された右手を掴み、そのまま薙ぎ払う。床に投げ捨てられる形になった吟は、体を反転させ、すかさず足払いをかけてきた。まるで子どもの喧嘩だなと思いながら、その足を避け、半歩下がる。その間に立ち上がった吟は、最初と同じ型で突っ込んでくる。何度か同じことが繰り返され、ユキも少し焦れてきた。
「いい加減にせんかい! 本気で来いと言うたやろ、それがお前の本気か? そんなモンなんか!」
だが怒鳴っても吟はやり方を変えない。あくまでも、ユキを殴る気はないらしい。何度でも同じように突っ込んでくる。頭にきたユキは、早々にこの馬鹿馬鹿しい試合を終わらせようと、突っ込んでくる吟に殴りかかった。
その瞬間、ずっと同じだった吟の手の軌道が変わる。
「……っ?」
吟の腕はユキの喉元でなく、喉そのものへと伸ばされる。ハッとしたが一瞬遅く、スリーパーホールド状態で締め上げられた。
なかなかコツを知っている。気管を潰さずに、頚動脈だけに力が加えられ、目の前が暗くなった。
「くっ……」
一度決められると振り解き難くなるのがホールドチョーク型攻撃の特徴で、この状態から力だけで腕を振り解くのは、よほどの力差がない限り無理だ。足元はフックされていないが、上背が違い過ぎる。ユキもそこから足掻くのはやめにして、他に脱出経路はないかと考えた。
だが技の決め方が上手い。息苦しくはないが、頚動脈圧迫で血流が途絶え、急激に血圧が低下していく。視界と意識がぼやけてくるのは、失神する前兆だ。
不味いなと気づいたときには殆ど遅く、意識を失うのは時間の問題、それもほんの数秒だろう。そう覚悟を決め、ユキは抵抗をやめた。
一瞬全身が硬直し、そのあとすぐに弛緩する、そしてそのまま動かなくなった。
ユキの体から力が抜けると、吟は途端にハッとして、慌てて腕を外す。そして倒れこむユキに手を差し伸べ、抱きかかえるようにして床面へと横たえた。
「……ユキさん」
無防備に横たわるユキを見つめ、動揺した呟きが聞えてくる。吟はユキが完全に落ちたと思っているのだろう。舐められたものだ。胸の内で息をついたユキは、こちらが気を失っていると信じて油断している吟の左脇腹に膝蹴りを入れた。