「風祭……?」

 飛田の重い声で、ユキは振り向く。視線の先にいる飛田は、呆然と瞳を見開き、右手でユキの……いや、消えた蒼太の背を掴もうとしていた。どうやらなにか感じたらしい。
「なんや?」
 当たり前のように返事をすると、飛田はますます動揺し、視線を上げ下げさせては、仕切りと首を振り、唇を噛んだ。そしてようやく思いきったように顔を上げる。
「本当に、風祭……なのか?」
「そうやと言うとるやろ」
 ユキは、静かにそうだと答える。その途端、飛田は伸ばしかけていた右掌で顔を覆い、黙り込んだ。どうやら、理屈ではなく、感覚と本能で、それが正解だと悟ったらしい。ショックは大きそうだ。
 だがショックなのも信じられないのもこちらの方だ、本人の目の前で本人より落ち込むなと言いたくなる。ユキは顔を覆ったまま、動かなくなった飛田の前に戻り、その横の壁へ背を預けた。そして懐から、暫く吸っていなかった煙草を取り出して、口に咥える。
 だが火がない……。

「落ち込んどるとこ悪いがオッサン、火、貸してんか?」
 声をかけると飛田は反射的に顔をあげ、咥え煙草のユキを見た。そして少しムッとしたような表情で、ジッポの火を差し出す。カシンと火花を散らし、炎があたりを明るく照らす。久しぶりに吸い込んだニコチンは、少し辛い。
「……煙草、変えたのか?」
 飛田は自らも煙草を咥え、火をつけながら、浮気はしないんじゃなかったのかと聞いてくる。変える気はなかったのだが、仕方がないではないか、身体が変わったせいで、妙にニコチンがきつく感じるのだ。以前の銘柄だと二本も吸えない、クラクラしてくる。仕舞いには気持ち悪くなりそうだった。
 かと言って、長年親しんだ煙草は手放せない。仕方なく、これを機に止めればと言う吟の声を振り切って、吸えそうな銘柄を選んだのだ。そう話すと、飛田はそんなんで吸った気になるのか、情けないとぼやいた。
「しゃあないやろ、吐くよりましや」
「馬鹿じゃねえのか? そんなに合わんならいっそ禁煙すりゃいいだろ」
「お前がしたら考えるわ」
「なんで俺を巻き込むんだよ」
「そら目の前で旨そうに吸われたら腹立つからやんか」
「意地で吸うな」
「やかまし、どうでもええやろ」
 ユキが腐って見せると、飛田はようやくクッと笑った。だがすぐに真面目な顔つきになる。

「お前、最近どこかでお札でも剥がさなかったか? もしくは蛇か猫を殺したとか」
「なんやそれは、まさかこれ(女性化)が祟りのせいやとでも?」
「整形でも魂の入れ替えでもないなら、あとは薬か祟りか呪いくらいしかねえだろ」
「飲むだけで性転換できる薬があるならニューハーフが泣いて喜ぶやろ、開発者は大儲け、ノーベル賞やで?」
「まあな……しかしそうなれば、あとは祟りしかねえぞ」
「それも嘘臭いわ、映画やないで? そんなん信じられるか」
「じゃあ原因はなんだよ」
「知るかいな、そんなん俺が知りたいわ」
 ある朝、起きたら女になっていた。背が十センチ以上縮んでしまったため、今までとどいていた高さの物がとどかなくなったり、力が弱くなったせいで持てると思ったものが持てなかったりと不自由が続いて腐ったが、それ以上に、店をやるのに困った。
 店の主は自分だが、この姿の自分を蒼太と認識しろというのも無茶だ。仕方なく、自分のことを蒼太の妹ということにし、暫く留守にする蒼太に変わり、店を任されたのだという設定を考えた。出す料理の味は蒼太とそっくりだ(本人だから当然だが)、それで客は騙せた。だがさすがに吟は騙せなかった。
 現在店の手伝いをしてくれている澤田吟は、蒼太とは学生時代からの付き合いで、高校では先輩後輩だった。その他大勢と、徒党を組んで「未晒組」と名乗り、いい気なって暴れまわった仲だ。蒼太に妹がいないことも知っている。彼の眼はごまかせない。
 だから吟にだけは正体を明かしたし、吟も納得した。現在ユキが店の主として普通にやって行けるのは、尽くしてくれる吟のお陰だ。こんな話、吟以外の誰も、信じないだろう。それを飛田にわかれというのは無理だと思っていた。しかし彼は持ち前の勘か、本能か、ユキがイコール蒼太だと納得したらしい。そこにはちょっと驚いたが、それで話が好転するわけではない。彼が信じようが信じまいが、元に戻れるわけでないのだ。
 吸い込んだ紫煙をガレージの天井目掛けて吐き出したユキは、胸の内だけで浅い溜息をつき、ことさら何でもないように話した。
「あ、面倒やろうが、このかっこ(女性)のときはユキやで、間違えんな?」
「んだよその名は、どっから出て来た?」
 飛田も急に現実に引き戻されたのだろう。少しぼうっとした表情だ。ユキは事実を知った飛田の気持ちを組みつつも平然と答える。
「俺の母親の名や」
「かーちゃん? お前、マザコンか?」
「ちゃうわ、アホ」
 軽く悪態をつき、ガレージの壁で煙草をもみ消す。飛田はまだなにか言いたそうだったが、こちらはまだ営業中だ、長々と店を空けておくわけにもいかない。そろそろ戻らなければならない。ユキは返るぞと話して先に歩き出した。
「ま、ええわ……いつまでもサボっとくわけにもいかんし、理由の詮索はお前に任す」
「そうだな、そいつは俺が突き止めてやんよ」
「なんや、素直やな、気色悪い、言うとくが、ギャラは成果が出てからやで?」
「ギャラはいらねえよ」
 あまり期待しないで、女性化の原因と、どうしたら戻れるのかを探ってくれと言うと、飛田は仕事はするが、金は要らないと言った。
 なぜだと聞くと、自分がやりたいからやるのだ、だから依頼料は要らないと言う。
「そんでええんかいな、まあこっちはそのほうが助かるがな」
「テメエがそんなんじゃこっちが面白くねえんだよ、気にすんな」
「そうか、なら任すわ、期待しとくで、探偵」
「おう、その代わり……」
「ん?」
「元に戻ったら、一発やらせろよ?」
 男に戻ったらヤラセロと言う飛田の台詞に、ユキも絶句した。どうやら本当に女はダメらしい。彼が女嫌いである意味ホッとした。
 飛田が女に興味がないというなら、それはそれで助かる……というか、それなら面倒がないので、ずっとこのままでもいいくらいだ。とは言っても、本当にこのまま、というのも困る。店へ戻りかけていたユキは、暫く考えた末、ゆっくりと振り向いた。
「そやな、まあ、考えとくわ」
「ぉ、本気か?」
「考えるだけやで、まあ結果次第やな、せいぜい気張りや」
 以前と同じく、唇の端を上げてニヤリと笑うユキを見て、飛田もようやく安心したように口角を上げた。その表情を見て、ユキもなんとなく安堵した。
 普通に話せる相手がいるということが、少し嬉しかったのかもしれない。普段なら絶対聞かないのに、ついうっかり彼に、その日の訪問のわけを聞いてしまった。

「ところでお前、ホンマ今日はなにしに来たんや?」

 なにか用があって来たんじゃないのかと聞くと、飛田はまた少し神妙になった。どうやらなにか頼み事があったらしい。しかし、なんだと聞いてみても、気にしないでくれと言って話そうとしない。
 利用するのはいいが、されるのは好かないので、いつもなら相手が言わないのをいいことに、ああそうかと言って、話を打ち切るところだ。だが今は、女には話せない話だと言われているような気がして面白くない。自分はどこも変わってないと思いたかったのかもしれない。