「いらっしゃいま……」

 カラカラとガラリ戸を開け、店内に入ってきた客の顔を見て、思わずいらっしゃいませの台詞が止まった。吟が黙り込んだのに気づき、ユキも僅かに眉を寄せる。

「おっす……と、なんだ、風祭は? いねえのか?」
 やって来たのは、そろそろ中年に差し掛かりかけているだろう風情の男、飛田慶一郎だ。
 飛田はその店の店主、風祭蒼太と微妙な位置の知り合いで、探偵をやっている。いろいろと便利な男なのだが、一つだけ難点があった。それも最大最悪の難点だ。
 彼はゲイで、ショタ専なのだが、なぜか年齢的には全然好みと合致しなさそうな、蒼太に惚れこみ、少しでも借りを作ると露骨にヤラせろと言ってくるらしい。蒼太も対処に困っていた。
 それでも彼は腕利きの探偵で、忙しい身だ、そうそう訪れては来ない。来るのはなにか頼み事がある時、もしくは人恋しくなった時だけだ。そして、そのどちらだとしても、蒼太にしつこく絡んでくるのがいつものことだった。
 だが、今、彼の所望する蒼太はいない。
 飛田は、店内をきょろきょろと見回し、厨房に蒼太の姿がない事を確認しながら、いつもと同じ、カウンター席の中央へ座り込む。そこが一番、厨房を見通せる席なのだ。
 席についた飛田は、無遠慮に厨房内を覗き、再度そこに蒼太の姿がない事を確認する。そしてその代わりに、見知らぬ女性がいることに気づいた。機嫌悪そうに眉を潜め、露骨にジロジロと見つめる。見られていることで、ユキも気が散るのだろう。彼女は吟にだけわかる程度僅かに、背中を緊張させた。その細い背が儚く美しい。姿勢がいいのでなおさらだ。
 肩甲骨下まである長い黒髪を一つに束ね、いつも飾り気のない白のダボを着込んでいる彼女は、店に出ているときだけ羽織る白の甚平に黒二枚の雪駄という料理人らしい佇まいながら、視線だけはやたら鋭く強い。従業員としてユキに付き従っている吟はいつもハラハラしどうしだった。
 出来るなら彼女にあまり興味を持たせたくない。
「いらっしゃい飛田さん、お久しぶりです、なににしますか?」
 飛田の興味を逸らそうと、吟は彼からユキが見えないように、さりげなく間に立った。だが飛田もそれくらいでは引っ込まない。立ち塞がる吟の背後に隠れた形になるユキを、身を乗り出すようにして見ていた。
「とりあえずビールだ、あとは適当に……て、誰が作るんだ、お前か?」
 この店の主は蒼太で、料理人も蒼太、吟はその弟子だ。一応料理人だが、吟が作った料理を店に出すことはない。だから飛田も訝しがった。なんと言っていいのか、吟も答えに詰まる。
「いえ、俺は……」
「お前じゃないなら誰だ、まさかその女か? 誰だそいつは?」
 誰が作るのかと聞かれれば、答えないわけにもいかない。今ここの主はユキだ、そこは変えられない。
 吟は、厨房のユキをチラリと見ながら、彼女は蒼太の妹で、蒼太が不在の間、店は彼女に任されていると話した。その途端、飛田の表情が変わる。
「奴の妹……?」
 呟く声は低く、疑いに満ちていた。付け焼刃の言い訳では勘のいい飛田は騙せないようだ。吟としても不味かったろうかと焦ったが、他の客にもそう説明してある、他に言い様はない。するとそこでそれまで飛田を無視するように仕事をしていたユキも、手を止めて顔を上げた。そしてゆっくりとカウンター席にいる飛田のほうへと歩く。
「オッサン、ちっと顔かしや」
「え、ユキさん! ……どこ行くんですか!」
「下(地下)や、ちっとこいつと話してくる、あとは任せたで」
 ユキは飛田について来いと声をかけ、外へと出て行く。あとには、仁侠映画にでも出てきそうな鋭い目つきの飛田が続いた。その様子はまるで、取立屋のヤクザと、追い詰められる少女のようだった。

 ***

「さて、オッサン、今日はなんの用や?」

 疑いの目を向ける飛田を引き連れ、店の地下にあるガレージまで歩いたユキは、両手をダボのポケットに突っ込んだまま、上目遣いに振り向いた。飛田はそれを胡散臭そうに見返す。
「お前は誰だ?」
「吟に聞いたやろ」
「ああ、だが奴に妹なぞいない」
「お前が知らんかっただけで、いてたんやないか?」
「馬鹿言え、こっちは調べんのが商売だ、奴の背後は全部洗った、妹なんぞいねえんだよ」
「勝手に人の周りを嗅ぎ回るなと言うたやろうに、聞かん男やな、まったく……」
 ユキがやれやれと肩を竦めると、飛田は真剣にムッとした表情でユキを睨み、大きな拳でガレージの壁を殴った。
「ふざけんな! お前はなにモンだ? なにを考えてやがる、奴はどこだ? さっさと答えろ!」
 飛田はどうやら本気で心配しているらしい。繰り出された拳も、脅すように吐き出された言葉も、僅かに震えていた。
 ユキは自分を睨みつける飛田を静かに見返し、ゆっくりと息を吐く。
 誤魔化せないのは最初からわかっている。飛田は元々お節介な上、好奇心旺盛で、図々しい。探偵だけあって、謎解きは得意だし、わからないことはわかるまで調べる男だ。納得できる説明を聞くまで、引っ込まないだろう。ただ問題は、彼が信じるか否か、だ。
 しかし話さないわけにもいくまいと、ユキは覚悟を決めた。
「奴、というのが風祭蒼太のことやったら、どこにもやっとらん、ここにおるで」
「ここに? ここのどこだ? 上か?」
「ちゃうちゃう、ここや、ここ」
 出来るだけ普通のことを、当たり前に話すように心がけ、ユキは自分を指差した。それを見て飛田が眉間に皺を寄せる。そいつをさらに見返し、ユキはもう一度答えた。
「今、目の間におるやろ、俺が、風祭蒼太、本人や」
「ふざけんなっ!」
 自分がそうだと答えると、飛田は目を剥いた。どうやらいい加減なことを言って、からかっていると思ったようだ。無防備なユキの襟元を掴み、壁へ叩きつける勢いで怒鳴る。案外気が短いなと半分呆れながら、ユキは自分より十センチ以上は上になる飛田の目を正面から見返した。
「別にふざけとらん、俺が蒼太や」
 平然と自分を見返すユキを見つめ、飛田は襟元を掴んでいた手の力を抜いた。だがまだ信じることは出来ないようだ。掴んだ手は離したが、表情は厳しいまま、ユキを睨む。
「笑えねえ冗談だな、お嬢さん、なにか裏があるのはわかったが、アンタが風祭のわけがない」
「そうか、けど俺が本物や、他に蒼太はおらんで?」
 先日まで男だったものが突然女になったなど、普通は誰だって信じない。それが当たり前だ。他人事として聞けば、自分だって信じない。納得させるのは至難だろう。ユキは半ば説明を諦めつつ、もう一度、自分が蒼太であると告げた。
「何度も言わせんな、蒼太は俺や、他にはおらん」
「馬鹿を言え、言葉遣いをまねようが、アンタはどう見ても女だ、風祭のわけがねえ、そうだろ!」
「俺やってそう思うわ、けど本人なんや、しゃあないやろ」
「仕方ないで済ます問題か? ありえねえよ」
 飛田はあくまでも信じない姿勢のようだ。蒼太は他にいて、今、目の前にいる女はその事情を知っている。真意はわからないが、少なくとも敵ではない……そう判断したのだろう。剥き出しの敵意は引っ込んだが、事情を話せと迫ってくる。
「頭の固い男やな、探偵ならもちっと柔軟になったほうがええで? ま、無理ないがな」
「どう柔軟になっても、ありえねえもんはありえねえんだよ、半年くらい行方不明だったとか言うなら、全身整形したとしてやってもいいが、一ヶ月やそこらで男が女になるわけねえだろうが」
「なんで俺がそんなん(整形)せにゃアカンのや、それこそありえんわ」
「ならなんだ? 脳移植でもしたってのか? それともどっかの女と角道でぶつかったか?」
「アホか、映画やないで? ぶつかったくらいで入れ替わって堪るかいな」
「そうさ、ありえねえんだよ、つまり風祭は別にいる、そうだろ?」
 飛田は、それ見ろと頷きながら力説する、そこでユキも、これ以上彼に説明しても無駄だと判断した。信じないならそれでもいい、納得してもらう必要はない。
「メンドクサ、信じられんならそんでもええわ……あ、けど店では俺は風祭蒼太の妹ということになっとる、蒼太に妹がおらんとか、余計なことだけは言うんやないで」
「俺には話せねえってわけか? ならいいさ、後で吟ちゃんに聞いてやる」
「ええけどな、吟に聞いても答えは同じやで」
「聞いてみなきゃわかんねえよ」
「あ、そ、ならそうしたらええわ」
 これ以上話しても無駄だと判断したユキは、じゃあなと片手をあげ、飛田を無視して店へ戻ろうとした。翻る白い甚兵衛、ひらりと翳される右手、なんの未練も持たない冷たく硬そうな背中が、ほんの少し、哀し気に揺れる。
 その後姿に、蒼太の影が重なった。