お母さんが入院し、家にしばらく帰ってこないと聞いたとき、大声で泣いた。
十歳年上の兄をひどく困らせた。


お父さんは物心ついたときからいなくて、お母さんがいない間はお兄ちゃんと二人で生活をすることになった。


だけど、お兄ちゃんは料理が下手で、お世辞にもおいしいとは言えなかった。


「お兄ちゃんのご飯、食べたくない」


あまりにまずくて、箸を置いた。
怒られると思ったけど、お兄ちゃんも食べることができなくなったのか、苦笑した。


「ごめんな、美乃里(みのり)。明日はどうにかするから」


お兄ちゃんは食卓の真ん中に置いていた焼きそばをさげた。


つらそうにするお兄ちゃんの背中が小さく見えて、私は小皿に取っていた自分の分を口に運ぶ。
やっぱりまずくて、水で流し込んだ。


「美乃里、無理しなくていいぞ」


お兄ちゃんは小皿に手を伸ばそうとして、私はそれから逃げる。


「……おなか、空いてるもん」
「カップ麺とかあるけど」


もう一口と食べると、今までの味が嘘だったみたいに、美味しかった。
どうやら、ちゃんと混ぜることができていなかっただけらしい。


「食べれるとこあるから、大丈夫」


そう言うと、お兄ちゃんは私の頭に手を置くと、髪がぐちゃぐちゃになるくらい、なでてきた。


「そうか。でも、明日からは助っ人呼ぶからな」
翌日、学校から帰ると、お兄ちゃんが言っていた助っ人がキッチンにいた。


「お帰り」


笑顔で言われ、お母さんのことを思い出した。
私は声を殺して泣き出してしまった。


「あ、おい!なに人の妹泣かせてるんだ、奏良(そら)!」


部屋の奥から出て来たお兄ちゃんは、私の前に立った。


「いや、誤解だから!お帰りって言っただけ!」
「何もされなかったか、美乃里」


ソラという人の言葉を無視し、お兄ちゃんは私のほうを向いた。
ここまで心配されると思っていなくて、驚きで涙が止まった。


「人の話を聞いて!?」


その叫び声とほぼ同時に、何かが吹きこぼれるような音がした。
ソラはお兄ちゃんの背後からいなくなった。


「キッチンからお帰りって言葉を聞いて、お母さんのこと、思い出しただけだから……」


私の頭に置かれた手は、大きくて暖かかった。


「あいつは野上奏良。俺の大学の友達で、料理上手なんだ。バイトってことで、ほぼ毎日作りに来てくれることになった」
「あの人に渡すお金、あるの?」


お兄ちゃんは私から目を逸らし、どこか遠いところを見た。


「まあ、そこはなんとかするよ。美乃里は気にするな」


そしてその日、食卓に並んだロールキャベツはとてもおいしかった。
あれから一週間、奏良は毎日ご飯を作りに来てくれた。
レパートリーは豊富で、どれもおいしかった。


「みーちゃんはツンデレのようで素直なかわいい子だよね」


グラタンを食べていたら、目の前に座る奏良が頬杖を突きながら言ってきた。
唐突にそんなことを言われるとは思わなくて、むせた。


「はい、お水」


差し出されたコップを受け取り、のどに通す。


「何を……」
「大地に冷たくしてるように見えるけど、寂しいからわがまま言ってるだけだよね?僕のご飯を食べてくれてるときは自然な笑顔を見せてくれるし」


奏良の言っていることが正しくて、自分が恥ずかしくなった。
ただ黙ってグラタンを食べ続けた。


「……ねえ」
「んー?」


皿洗いをする奏良の背中に呼びかけた。


「……みそ汁の作り方……教えて」
「なんで?」


奏良の隣に立ち、皿を拭く手伝いをする。


「お兄ちゃんは料理は壊滅的にへたくそだけど、それ以外の家事を頑張ってやってくれてる。わがまま言ってるって言われて、こんなときにまだそうしてる自分が恥ずかしくなった。だから、少しくらい料理ができたらなって」


奏良のほうが向けなかったけど、奏良に抱きかかえられた。


「それは名案だ!大地、泣いて喜ぶよ!」
「わ、わかったから、下ろして!」


そんなことをしていたら、お兄ちゃんが帰ってきた。


「おい、奏良!美乃里から手を離せ!」


帰宅早々賑やかになったけど、ちょっと助かったところもあった。
週末、お兄ちゃんは用事があって私を一人にしてしまうからと、奏良を呼んでくれた。


「それじゃ、まずは材料を切ってみようか」


奏良に手を添えてもらいながら、みそ汁の具を切った。
太さや大きさはバラバラで、ものすごく不格好になってしまった。


「初めてにしては上出来だよ。あとは簡単だから」


そのあとは奏良は口で作り方を教えてくれただけだった。
奏良の言った通りにみそ汁を完成させた。


「まっずい……」


玉ねぎやニンジンには火が通っていなくて、辛かったり固かった。
味は薄く、水を飲んでいるような感じだった。


「みーちゃん、まだ手直しできるよ」


奏良はそう言って火をつけた。
沸騰するのを見たら、味噌を加えた。


「はい、どうぞ」


奏良に出されたみそ汁は、とてもおいしかった。


「……なんで」
「料理は待つことも大切だよ。それから、味見をするようにしようね」


なるほど、と思いながら奏良が完成させたみそ汁を食べきる。


「おまけとして、誰かに作るときはその人の喜ぶ顔を思い浮かべるといいよ。最高の隠し味になるから。……なんてね!」


変なことを言っていると思った。


「じゃあ、今日はこのみそ汁を晩ご飯にしようね」
「ダメ!お兄ちゃんにはまだ……」
「大地は今日、晩ご飯はいらないって言ってたよ」


その言葉に安心してため息をついた。


初めて自分で作ったものを食べたけど、何かが足りないような気がしていた。
奏良がいて、お兄ちゃんがいないときはみそ汁の練習をするようになった。
だけど、お兄ちゃんには内緒にしているせいで、作ると二人でそれを完食しないといけなくて、晩ご飯をしっかりと食べられない日が続いた。


「美乃里、大丈夫か?」


さすがに不審に思ったのか、心配されてしまった。


「……うん」


でも、詳しく説明することはできなくて、言葉を濁した。


「母さん、もうすぐ帰ってくるから、元気出せ」
「本当!?」


椅子を倒す勢いで立ち上がったせいで、お兄ちゃんは箸で掴んでいたジャガイモを落とした。


「ああ。明後日には退院できるって」


久々に心が躍った。
言葉にはできないくらい、嬉しかった。


お母さんのお見舞いには何度も行っていたけど、病院で会うのと家で会うのとはやはり違う。


「退院祝いに、焼き肉にでも行くか」
「そのお金はどこから出てくるの。奏良にバイト代も出してるんじゃないの?」


食器を下げながら、自分の言い方に後悔する。


「それがさ、いらないって言うんだ。なんか、いいものもらってるからって」
「ふーん……」


興味なさげに返事をし、スポンジに洗剤をつける。


「退院祝い、さ……私に任せてもらえないかな」
「美乃里に?別にいいけど……何かするのか?」
「なんでもいいでしょ。早く食器下げて」


まだみそ汁しか作れないのに、大きく出てしまったと思ったけど、不思議となんでも作れるような気がした。
お母さんの退院日、一人で準備できるわけなくて、奏良を呼び出した。


「今日はお母さんが帰ってくる日なのに、俺が来てもいいの?」


そう言いながら、料理の下ごしらえをしている。


だけど、今日は奏良の背中を見て料理の完成を待っていてはいけない。


「今日は、私も手伝う」
「なるほど」


奏良は包丁を置き、一歩下がった。


「俺は見守るために呼ばれたんだね?」
「……あと、今までご飯作ってくれてたお礼」


奏良に対しては、なぜか素直に言うことができた。
それでも、恥ずかしいことに変わりはなくて、少しだけ顔が熱かった。


何度も練習してきた成果か、初めてのときよりも綺麗に切れた。


「おお、上達したね」


私の後ろに立って、見下ろしてきた。


「みそ汁は私が作るけど、それ以外は奏良が作ってよ」
「結局そうなるんだね。大地たちが帰ってくるのは何時?」
「十一時」


私が答えると、奏良は携帯で時間を確認した。


「……みーちゃん、そういうのはもっと早く言おうね」


現在の時刻は十時だった。


時間がないと言っていたのに、奏良は一時間で十分すぎるくらいのおかずを作り上げた。
そして時間ぴったりにお母さんたちが帰ってきた。


お母さんとお兄ちゃん、私と奏良で食卓を囲むという、とても不思議な光景が出来上がった。


「美乃里が任せほしいって言ったから任せたけど……まさか、奏良がいたとは」
「みーちゃんもちゃんと手伝ってくれたんだよ。ねー?」


三人の視線が私のほうに向いて、つい顔をそらしてしまった。
だけど、そのまま首を縦に振る。


「どおりで、いつもよりおいしいわけだ」
「美乃里、ありがとう」


二人の言葉が嬉しくて、胸が熱くなった。


「みそ汁は、どう?」


それなのに、奏良はわざとらしくそんなことを聞いた。


「めちゃくちゃうまい。一か月くらい奏良のご飯食べてたけど、こんな味じゃなかったよな?」
「だって、みーちゃん。よかったね」


嬉しいなんてものじゃなかった。
私の目から大粒の涙が零れ落ちた。


「よかったあ……」


奏良はそんな私を抱きしめ、頭をなでてくれた。