「つまり、無関係と思われていた被害者たちには、隠された共通点がある、すくなくとも、犯人にとっては誰でもいいわけじゃなかった」
「ああ、そうだ、FOXは無差別犯じゃない、奴はなにかしらの意図を持って、犯行を繰り返してるんだ」
 そこまで話して、重田は一息つこうと思ったのか、また煙草を取り出した。草薙は煙草を吸わないので、冷めてしまった珈琲に手を伸ばす。
 自分を落ち着かせようとするように、重田はことさらゆっくりと煙草を燻らせた。体ごと横を向き、草薙を見ないように視線を逸らせる様子はどこか悲愴だ。まるで親の仇を思うような苦渋の表情に、草薙も興味を引かれた。
 もしかしたら、彼が刑事を辞めた理由になにか関係があるのかもしれない。
 だいたい重田は、そこまで調べて、どうするつもりだったのだろう。ただの興味と言ってしまうには越権行為過ぎる。彼の情報源は元同僚の刑事だろうが、その刑事にしても守秘義務を怠っていることになる。二人揃って違反行為となれば、それなりの覚悟をしているとしか思えない。
 覚悟とはなんだろう。まさか重田は犯人が誰だか知っているのか?

「重田さん、もしかして、犯人、知ってるんですか?」
 思い切って訊ねると、重田は目を丸くして、知ってるわけないだろとぼやいた。苦虫を噛み潰したような渋い顔だ。しかし、まんざら外れでもなかったらしい。実はな、と話を続ける。
「ここだけの話、俺は事件の第一被害者とされてる瀬乃夫婦が最初じゃねえと睨んでるんだ」
「えっ?」
 驚いて思わず声が大きくなった。さして広くもないコーヒーショップに、草薙の声が響き、客の何人かは二人を振り返って見つめる。重田はバカ野郎と呟きながら草薙を睨み、静かに話せと自らも声を落とした。
「どういう事です?」

「瀬乃夫婦殺害事件の五年前、現場から十キロ先にある貸家で、似たような手口の殺しがあったんだよ」

 五年と数ヶ月前、東京都千代田区の古い貸家で、若い夫婦の惨殺体が発見された。見つけたのは異臭がするとの通報で様子を見に行った警官、金子祐一《かねこゆういち》巡査だ。発見時、夫婦はすでに死んでいて、死後五日以上経過していた。
 季節は冬から春に移る頃で、暖かい日が続いていた。空調の利かない閉め切った屋内で、夫婦の遺体が腐り始めたのが異臭の元だ。玄関を入り、すぐのところに台所があり、中央にある食卓の下に、妻の遺体があった。夫のほうは続く六畳間のテレビの前だ。テレビはつきっ放しで、畳の上には栓の開いたビールの缶があった。
 夫の遺体には背中に一ヶ所、腹や胸、顔などに数十ヶ所の刺し傷があり、妻のほうは胸に一箇所だ。凶器は不明だが、柳葉包丁か登山ナイフなどの鋭い刃物と思われる。
 妻のほうは正面から一突きで殺されていることから、犯人は妻の側の知人ではないかと推測された。傷は斜め上からのモノのようで、刺された時、妻は床に座り込んでいたのかもしれない。
 椅子もあるキッチンで、床に座りこんでいるとしたら、その時傍にいた人物は、そうとう親しい相手ということになり、その点からも、妻の知人説が有力だ。

「事件から三日後、夫婦の住んでた貸家の裏にある雑木林で金子巡査の遺体が見つかった」
「え……?」

 遺体には、夫婦殺しの夫のほうと同じく、背中に一箇所、腹や足などに数ヶ所の刺し傷があり、両目は真一文字に切り裂かれていた。生体反応から、目を切り裂いたのは、彼がまだ生きているうちだということまで、判明している。

「犯人は、夫婦を殺した奴と同一ですか?」
「最初は違うとされた、金子と被害者夫婦に接点がないからな、だが金子には殺害されるような理由もない、夫婦殺しの犯人が、口封じか、警告かなにかの理由で殺したんじゃないかってのが俺の推理だ」
「で、そいつがFOXだと?」
「ああ」
 最初の夫婦は目玉を切りつけられたりはしていない。だが、夫の刺し傷と、瀬乃夫婦の刺し傷は似ている。もし金子を殺したのがFOXなら、最初の夫婦殺しもFOXだ。
「でもその夫婦は目を切られたりはしてないんでしょ」
「まあな、けど、最初はそこまで考えてなかったのかもしれないだろ」
「えぇっと、つまり、最初の殺しは不可抗力か、突発的なものだった……とか?」
「そうだ」
 重田は当時、捜査本部にもその話をしたらしいが、共通点が少な過ぎると撥ね付けられたという。たしかに、それだけで同一犯とするには弱い。
「他になにかないんですか」
「あったらとっくに提出してる、ないからここだけの話なんだろ」
 忌々しそうに答える重田の目は、ギラギラとした光りを放っていた。重田は本当になにか知っているのかもしれない。たぶん、他人には言えないネタを握っている。それを自分に打ち明けないのは、信用されていないか、重田自身も思うほど確信がないかのどちらかだ。
「重田さんは、そのときの犯人が、今また犯行を繰り返してると思ってるんですね」
「ああ」
「でもその事件は五年も前の話なんでしょ、なんで今になってまた……?」
「今急にじゃないかもしれんだろ」
「どういう意味です?」
「発覚した殺し以外に、被害者がいるかもしれん、お前、殺人事件が一年に何件あるか知ってるか?」
「え? いえ」
「東京だけで百件だ、年間で百人以上の人間が殺されてる、それも認知されている件数だけでだぞ、その中に、FOXの犠牲者がいないと言えるか?」
「いやそれは……」
 重田はきっとその中にFOXはいる。と呟いた。小さな声だったが、その執念がよくわかる。
 彼はきっと、その犯人を捕まえたいのだ。だが刑事を辞めてしまった今、その権限はない。ジレンマだなと思った。
 だが、そう考えてみると、おかしい。重田はなぜ、刑事を辞めたのだろう? そこを訊ねると、彼は捜査を打ち切られたからだと答えた。
 重田には、新人の頃から世話になった大先輩にあたる刑事がいた。叩き上げの平刑事ながら豪胆で情熱的なその男は、重田が三十になる前に犯人の凶弾に倒れ殉職している。金子巡査はその先輩刑事の息子だった。
 少し気の利かないところがあるが、心優しい青年で、世話になった先輩に恩返しする意味でも、特に目をかけていた。いつかは刑事課に推薦してやろうと思っていたし、心から応援していた。その矢先の事件だ。犯人は絶対捕まえると墓前にも誓った。
 しかし捜査は難航、捜査本部も縮小され、捜査員は全員他の事件に回らされた。事実上の捜査打ち切りだ。
 重田は自分一人でもと食い下がったが却下された。そこで仕方なく無断で単独捜査を続け、懲戒処分を受けた。それに腹を立てて、辞表を叩きつけたというのが顛末らしい。
 重田らしい話だ。さぞや心残りだったろう。草薙は彼の無念を思い、冷めた珈琲を一気に飲み干した。

「調べてみますか?」
「お前何言ってんだ、そういうのは警察に任せとけばいいんだよ」
 思い切って切り出すと、重田は驚き、目を丸くした。だが心なしか頬が紅潮している。本当はやりたいのだろう。
「けど、気になるんでしょ、やりましょうよ、僕だって気になります」
 自分は夕べFOXに出くわしてるのかもしれない。一歩間違えば殺されていたかもしれない。そう思えば他人事ではない。それに、ここまで聞いてしまえば自分も気になる。
「僕も関わってる、当事者だ、放っておけませんよ」
「お前は物語の主人公にでもなった気か? 相手は殺人犯だ、遊びじゃない、無茶すると殺されるかもしれないんだぞ」
「今、この話を知ってるのは僕たちだけなんでしょ、やらないでどうするんですか」
 自分はヒーローになりたかった。ヒーローになって、悪い奴から弱い者を守りたかった。だが俳優になるような美男ではないし、ヒーローを演じるというのは自分の考えと少し違う。かといってレスキュー隊員になれるほどの体力もない。だから作家になったのだが、それでヒーローへの道を諦めたわけではない。自分に出来ることがあるのなら、率先してやるべきだ。でなければ信条を曲げることになると草薙は力説した。
「やりましょう重田さん、僕たちでFOXの正体を突き止めるんだ」

 元々やりたかったのだろう、草薙の説得に重田は動いた。すでに刑事ではないので、捜査権はないが、作家とアドバイザー、次回作の取材ということにしてやればいいと話し合った。
 本当に危なくなったら、知り合いの刑事にバトンタッチする。とにかく、実行あるのみだ。h

 ***

 FOX追うと決めた翌々日、草薙と重田は、都内の児童擁護施設を訪れた。そこに、被害者の一人、山本美優《やまもとみゆ》(二十六歳)の隠し子が引き取られているからだ。
 美優は一人暮らし、都内の小さな会社のOLで、ごく平凡な女性だった。それが無残な遺体となって発見されたのは半月前。見つけたのは、滞納された家賃の取立てに行った大家で、遺体の両眼には、料理用の菜箸《さいばし》が突き刺さったままだったという。死後、二週間が経過していた。

「会ってどうすんですか」
「子供は事件現場にいて、母親が殺されるところも見ていたらしい、だが犯人はその子を殺さなかった、その理由を知りたくないか?」
「隣の部屋とか、押入れとかに隠れてたんじゃないんですか? 犯人は子供がいるのに気づかなかったとか」
「かもな、けど、これまで一切証拠を残していかなかった用心深い犯人が、子供に気づかないのは、いかにもお粗末じゃないか?」
「重田さんは、なにか他に理由があると? でもその子、まだ四歳なんでしょ?」
「ああ、でも話くらい出来るだろ」
「そりゃ……」
 四歳にもなれば、口は利けるだろうが、意味のある証言が取れるとは思えない。だから捜査本部だって、子供のほうは施設に入れてそれきりなのだ。もしなにか聞けたとしても、それに証拠能力があると認定されるかどうか……。

「あそこで座ってる子がみゆちゃんです」
「美優?」
 施設職員の言葉に、少し驚いて聞き返す。職員の女性は、哀れむようにその子を見つめ、事情を話した。
「ええ、あの子は戸籍もなくて、名前も付けられていなかったんですよ、母親は子供を自分と同じ名前で呼んでいたようで、あの子は自分で、みゆだと言ったんです、だからそれがそのままあの子の名前になりました」
「なんだそれは」
「……酷い話ですね」
 重田は呆れ声でやるせなさそうに呟いた。草薙も眉を寄せる。
 職員の話では、山本美優は人知れず妊娠し、人知れず自宅で出産していたようだ。そのまま子供をアパートの一室に閉じ込め、名前も付けず、出生届も出さずに育てて来た。出産しただろうと思われる時期に、会社を二週間ほど休んでいるが、それ以降は普通に出勤し、普通に勤務しているので、子供の世話は帰ってからまとめてやっていたのだろう。
 酷い話だが彼女も本気で子供を疎んじていたわけではなかったのかもしれない。絵本を与え、時々は読み聞かせなどもしていたようだ。その証拠に、みゆは、同年代の子供と比べても、体格はやや劣るが、言葉や知能程度に目立つ遅れはないと職員は話した。
「少しは愛情があったってことですかね」
「そんなもんか? 忙しいときは放っておいて、可愛がりたい気分のときだけ可愛がる、ペットと同じじゃないか」
「ですね」
 重田は苛々した表情で言い捨て、同情と憐憫の目で少女、みゆを見つめ、歩きだす。草薙もそれに続いた。

 大きなガラス窓がある広間の片隅に、幼子みゆはぺたりと座り込んでいた。小さなぬいぐるみを片手に握り、なにをするでもなく、大きな瞳を見開き、どこともつかない場所を見ている。
 なにを考えているのだろう?
 僅か四歳という小さな子供に、いったいなんと話しかければいいのか……戸惑いながら近づいていくと、重田は、お前が行けと草薙を突いた。年寄りのオヤジよりは、若い兄ちゃんのほうが、子供も受け入れるだろうと言うのが彼の主張だ。だが思春期近くならまだしも、相手は四歳、四十代も二十代もそう変わらないような気がする。それでもまさか出来ませんよとは言えないので、そろそろと近より、目線が同じくらいになるように、彼女の前で屈んだ。
「こんにちは、みゆちゃん?」
 話しかけると、みゆは、緩慢な仕草で顔を上げる。
「なに、してるのかな?」
 みゆは返事をしなかった。薄汚れたぬいぐるみを固く握り、動かない。その頑なな瞳を見ていると哀しくなる。この子は唯一の肉親、母親を、見知らぬ殺人鬼に殺されたのだ。たぶん自分のことも、得体の知れない怪物かなにかに見えているのだろうと思った。
 みゆの握っているぬいぐるみは、ウサギかなにかだろうか、酷く汚れていた。たぶん、彼女がほんの赤ん坊の頃からずっと手元にあったのだ。そのぬいぐるみだけを友にし、拠り所として生きてきたのかもしれない。感傷に浸りながら、草薙は再びみゆに話しかける。
「えっと、可愛いね、それ、名前とか、あるのかい?」
「みゆちゃん」
「え?」
 美優はその子の母親の名で、そして今は本人の名でもある。その名を、ぬいぐるみにも同じくつけたということだろうかと戸惑った。すると傍でそれを聞いていた施設職員の女性がそれを補足した。
「みゆちゃんは、なにを聞いてもみゆちゃんだと答えるんです、たぶん、それしか名前を知らないんじゃないかと……」
 その言葉に、草薙は絶句した。彼女の世界は、それほどに狭いのだ。自分と母親と、ぬいぐるみの区別がつけられないほどに、狭い。

 母親のほうにも事情はあったのかもしれない。だがそんなモノ、子供には関係ない。どんな不都合があろうとも、どんなに望まなかろうと、育てる義務がある。育てないのは大人の罪だ。
 自分はそんな大人になりたくない。まだ相手すらいないが、いつか結婚して子供が出来たら、きっと大事にする。こんな哀しい目をした子供にはさせたくないと草薙は思った。
「みゆちゃん、あのね、お兄さん、みゆちゃんにちょっと聞きたいことがあるんだ、聞いてもいいかな?」
 話しかけると、みゆはきょとんとした顔で、草薙を見返した。四歳の子供には、難しい言い方をしても、わからないだろうと考えた草薙は、あえて直接的な言い方で訊ねる。
「みゆちゃんのお母さんが死んじゃったとき、誰かそこにいただろ?」
「しんじゃったとき?」
「ああ、えっと……誰かお母さんを苛めてなかったかな?」
 小さな子に死を理解しろというのは難しいかもしれない。だから、苛めたという言い回しに変えてみた。だが彼女は意味がわからないらしく首を捻るばかりだ。なんと聞けば答えられるのか、そこが難しい。すると、考え込む草薙の肩越しに、重田が声をかける。
「おまわりさんがみゆちゃんの家に来たことがあるだろ?」
「……うん」
「おまわりさんが来る前ね、みゆちゃんと、みゆちゃんのママの他に、誰かいなかったかな?」
 訊ねられたみゆは、そこでようやく、自信なさげに頷く。それに勢いを得た重田は、みゆの前にしゃがみこみ、自分の言葉を確認するように、ゆっくり訊ねた。みゆはそこで初めて、聞かれている意味を本当に理解したのかもしれない。はっきりした声で、いたと答えた。
「いた? どんな奴だった? 男か、女か?」
 いたとの答えに重田も興奮したのか、厳しく問い詰める。だが相手は四歳児だ、草薙は慌てて止めに入った。
「待ってください重田さん、相手は子供ですよ、そんな聞き方しちゃ……」
 案の定、みゆは怯えた表情になり、壁際へと下がった。泣き出されると困ると、草薙は重田を押し退けた。
「ごめん、怖いおじさんは追い払ったから大丈夫だよ、僕たちは、その一緒にいた人のことを聞きたいんだ、どんな人だったか言えるかな?」
 優しく微笑みながら、怯える彼女が安心するまで辛抱強く待った。みゆは、ただジッと草薙を見ている。そして暫くして話しても大丈夫だと判断したのだろう、小さな声で答えた。
「おにいちゃん……」
「お兄ちゃん?」
「うん、おにいちゃん、みゆにおかしくれた」
「お菓子? え?」
 一瞬、面食らった。彼女の言う、お兄ちゃんというのが、犯人だとしたら、そいつはみゆの母親を殺しておいて、みゆは殺さず、それどころか、菓子を与えて帰った……ということになる。
 まさか犯人がロリコンだった、なんてオチではないだろう。ではどういうことなんだ?
 草薙が首を捻っていると、さっき退けた重田が、再び口を挟む。
「そのお兄ちゃんは、みゆちゃんにお菓子をくれただけかい? なにか話してないかな?」
 だが、重田の顔が怖いからか、それとも言っている意味がわからないのか、彼女はまたなにも言わなくなった。証言を取るには相手が子供過ぎる。それは充分にわかっていたが、手がかりは他に何もない。重田も言い方を変えながら、辛抱強く訊ねた。
「お兄ちゃんに会ったのはそのときが初めてかな? 前にも会ったことある人かな?」
「おにいちゃん、おかしくれるの、みゆに、ほらって」
「えっと、だから……」
 要領を得ない答えに、重田が焦れる。だがそこに少しひっかかりを感じた草薙は、待ってくださいと割って入った。
「みゆちゃん、お兄ちゃんは、いっぱいお菓子くれるんだね、優しい、いいお兄ちゃんだ」
「うん」
「みゆちゃんはお兄ちゃんのこと、大好きなんだね」
「うん」
「そうか……ね、お兄ちゃんは、みゆちゃんになにかお話してくれるのかな?」
「ん、とね……わかんない」
「そうか、じゃあなにか気が付いたことないかな? どんなお兄ちゃんだった?」
「わかんない、でもおかしいっぱいくれるよ、いいこだねって」
「お兄ちゃんがそう言ったんだね」
「うん」
 みゆは、「お菓子をくれる」と言った。「くれた」と過去形ではなく、「くれる」と……。
 妙に生々しい言いまわしだ。
 もしかしたら……。
「みゆちゃん、もしかしてそのお兄ちゃん、今も、ここへ来る?」
「うん」
 幼子みゆの返事に、草薙と重田は顔を見合わせた。山本美優を殺害した男、FOXかもしれない男が、この子に会いに来る。今も、この施設までやって来ている。まだその男が犯人と決まったわけではないが、可能性は高い。
 二人は慌てて施設の職員に、みゆに会いに来る男はいないかと訊ねた。だがその答えはNOだ。
 みゆは殺人事件に関わる子供だ。だから面会者には、より以上に厳重になる。それでなくとも、面会希望者がいれば、住所や身分など、事細かに尋ねるし、当然書面にも残す。それ以前に、理由のない者に子供への面会は許可していない。つまり、そんな人間はいない、ということだ。

「どういうことですかね、その男は本当にいるんでしょうか?」
 山本みゆとの面会を終え、養護施設を後にした草薙は、それまで感じていた疑問を重田にぶつけてみた。
「もしかして、あの子の妄想、いや、想像なんじゃ……」
 みゆは、母親に見捨てられ、その母親も目の前で惨殺されたのだ。それからずっと、見も知らない大人の中でたらい回しにされて来た。みゆの言う、お兄ちゃんが、彼女の淋しさが生んだ妄想ではないとは言い切れない。そう話すと、重田は訝しげな表情で首を振った。
「あの子の母親が殺されてから、発見されるまで二週間だ、あの子はその間、ずっと母親の遺体のある部屋にいたんだ」
「ええ」
「ええじゃない、二週間だぞ? 四歳の子供が、二週間、どうやって生きてきたんだ? 夜露は凌げても、飯は無理だろ? どうやって飢えを凌いだんだ?」
「あ、そうか……」
「もしも、もしもだ、本当にそのお兄ちゃんとやらがいて、あの子に菓子を与えていたとしたら……あの子は発見されるまでの二週間、その菓子で生き延びていたのだとしたら……どうなる?」
「どう? どうなるんです?」
 狐につままれたような感覚で、草薙は聞き返した。だが重田にも明確な答えはないのだろう、急に不機嫌になり、持っていた手帳で草薙の頭を叩いた。
「想像力を働かせろよ、それが糸口になる」
「すいません……」
 そういう重田さんだって、わからないんでしょ、とは言い返せないので、草薙も黙りこんだ。
 そこから二人、暫くは、なにも話さずに歩いた。そして施設から少し離れた市営駐車場に停めてあった車に乗り込もうとしたときだ、道の先に、見知った顔が歩いているのを見つけ、草薙は、立ち止まった。

「あれ? あの子……」

「ん? どうした?」
 道路の端に下水に繋がる側溝があり、側溝の向こう側は雑草が生い茂る空き地になっている。その草陰に隠れるように、その子はいた。
「いや、ちょっと……すいません、ちょっとここで待っててください」
 首を傾げる重田を残し、草薙は走り出した。そこにいたのは、先日、草薙が助けようとした子供だ。子供は走ってくる草薙を見て、一瞬顔を顰めたが、逃げはしなかった。

「やあ、ようやく会えた、僕を覚えてるかな?」
「覚えてますよ、他人の喧嘩に割って入って返り討ちにされたお節介さんでしょう? こんなところでいったい何を?」
 初めて口を利いた子供は、酷く大人びた口調で話した。
「あ、いや、僕は仕事で……」
 容姿と言葉遣いが不一致で、面食う。草薙は答えに詰まりながらその子を見返した。先日は暗くて気づかなかったが、着ている服は酷く薄汚れていた。ビンテージというよりは、古着……古着というよりは、ゴミ捨て場から拾って来たようなボロだ。
「えっと、キミの家はこの近くなのかな?」
「別に、通りがかっただけですよ」
 家を訊ねると、子供はムッとしたような顔をした。やはりそうかと勝手に頷く。
 この子供は家出少年に違いない。こんな民家もなにもない町外れに、子供一人で歩いているというのが、まずおかしい。
「こんなところでなにを?」
「答える義務はないですね」
 訊ねれば訊ねるほど、子供は不機嫌になる。だがそれは聞かれたくないことを聞かれたときの気まずさからくる不機嫌と見える。だからしつこく食い下がった。
「ああ、でも出来れば聞きたいな、家はどこ? お母さんは家にいる?」
「なんで、そんなこと、聞くんですか」
 母親の話を出すと、子供はまた急に表情を変えた。後ろめたさを隠すかのように、落ち着きがなくなり、おどおどと、背後へ下がっていく。このままでは逃げられる。草薙は子供を怯えさせないように人の良い笑顔を作り、ゆっくり一歩を踏み出した。
「あ、えっと……ほら、ご挨拶とかしたいし……」
 草薙のしどろもどろの説明を、どうとったのか、暫く弱々しい足取りで後ずさりしていた子供は、不意に顔を歪ませた。
「てめえナニモンだ? 警察か?」
「え……?」
 突然呟かれた子供の声は、酷く敵意に満ちていた。いや、それよりも、その表情の険しさと、態度に驚く。まるで一端のヤクザかチンピラだ。思わず怯むと、子供は動きの止まった草薙を睨みながら、長上着を翻し、背中のほうへと右手を回す。

 なにか隠している?
 なんだ?

 これからなにが起こるのか、観察しようと草薙は咄嗟に目を見張る。だが子供が何かを取り出す前に、背後から声をかけられた。

「草薙、お前なにやってんだ」
 重田だ。
 なかなか戻って来ない草薙を心配し、様子を見に来たらしい。声が聞こえたと同時に、子供は動きを止め、すうっと、潮が引くように、静かな面に変わっていった。その一連の動きが、八ミリ映画のアニメーションのように残像を描き、脳裏に焼きつく。それはまるで、今そこにいた誰かが、クルリと背を向け、出て行ったかのような印象だ。
 だが子供はそこにいる。草薙は、どういうことだと、瞬きしながら振り返った。重田はそこで初めて、その子供に気づき、怪訝な表情で眉を寄せる。
「この子は?」
「あ、いや……」