進むにつれ、風が強くなった。ただの風ではない。
 大きな生き物の気配がする。姿は見えずとも、そこに何かが、しかもたくさんいることが、吹き付ける風の中に感じられる。

 生身の馬は立ち止まり、それより先へ足を踏み入れることを拒んだ。馬は近くの木につないで待たせることにし、一行は、ふぶきの操る木馬で竜の谷の最奥部へと近付いた。

 ふぶきが、むらくも族の唄を口ずさんだ。明るいようでどこか物悲しい旋律に、ゆめさきは覚えがあった。ふぶきは、むらくも族の古語による歌詞を大陸公用語に訳し、簡単に解説した。

「竜の気は王の気であり、竜のもたらす風の吹くところ、百獣は皆、ひれ伏して加護を乞う。古の時代、人もまた然り。そういう意味を持つ唄です。風が吹く様子を詠んだぼくの真名は、この唄にちなんで付けられているんですよ」

 王たる竜の気を受けて、ゆめさきたちも圧倒され、口数が減っている。あらしだけは元気いっぱいで、ゆめさきの鞍前で真新しい翼をバタバタさせていた。
 木々のまばらな斜面を登っていくうちに、日は西へと傾いていた。黄金色の日差しが赤みを帯び始めるころ、唐突に、旅路の終わりが訪れた。

「ここから先は進めないわね」
 切り立った断崖絶壁が、数歩先からストンと直下へ落ちている。底が見えぬほどに深い絶壁の下から風が吹き上がっていた。
 崖の対岸まで、どれほど離れているのだろうか。はやぶさ砦とひよどり村の間隙よりも広いようだ。人はいかなる方法を以てしても、王気の渦巻く竜の世界へ入れそうにない。

 あらしが木馬から跳び下り、崖の縁へと駆け寄った。じっと目を凝らす銀色の後ろ姿は、見慣れているようで、見たことのないものだ。
 不意に、あらしが対岸を指差しながら、目を輝かせてゆめさきを振り返る。ゆめさきは風に目を細め、あらしが指し示すほうを凝視した。

「竜がいるわ」
 夕日の橙色が、大きな銀色の体にキラリと弾けた。大人の袋銀竜だろう。ふと何かを感じ、ゆめさきは上空を仰ぐ。はるかな高みを飛翔する竜の影が、いくつもいくつも、夕暮れの淡い紫色の中に浮かんでいた。

 バサリと音がした。あらしが翼を打った音だ。
「行くのね」
 キュイ、と、まだまだかわいらしい声で返事をして、あらしはゆめさきを見上げ、きらぼしを、ふぶきを、もちづきを見上げ、もう一度ゆめさきを見上げた。そして、崖に向き直った。

「さよなら、あらし」

 あらしは迷わなかった。まっすぐに駆け、跳ぶ。いっぱいに広げた翼が風を受け、あらしの小さな体を空へ押し上げた。
 あらしが羽ばたく。少し体が傾く。尻尾で風を掻いて体勢を立て直す。二度、三度と羽ばたけば、体勢は次第に安定する。翼の動きが力強くなっていく。

「頑張れ」
 ゆめさきは胸の前で拳を握った。寂しくて誇らしい。ゆめさきに抱えられなければ空を飛べなかった小さなあらしが、今、自分の翼で羽ばたいている。ゆめさきには越えられない崖を越えていく。角の生えた後ろ姿がたくましい。

 目にたまる涙を、ゆめさきは急いで拭った。あらしの姿が見えなくなるまで、一秒でも長く、できるだけ克明に、脳裏に焼き付けておきたい。
 風の壁の向こうから、太く低い咆哮が聞こえた。大人の竜の声だ。なんて温かな声をしているのだろうと、ゆめさきは思った。

「あらしを、よろしくお願いします」
 ゆめさきのつぶやきに重なって、またあの温かな咆哮が、いくつも聞こえた。

 上空を舞っていた竜たちが橙色の光の中を降りて来て、小さなあらしを囲んで飛び始めた。あらしは、驚いたのか風にあおられたのか、ぐらりと体を傾けた。大人の竜がすぐ下に滑り込み、首を伸ばして、あらしを支える。

 太陽の最後の一閃が、山の端に消えた。急速に訪れる夜の闇の中で、ついに、あらしの姿が見えなくなった。吹き付ける強い風と気に乗って、温かな咆哮は止むこともなく、優しく、谷にこだましている。
 ゆめさきの目から涙が落ちた。いつかこの日が来ると覚悟していたのに、寂しくて悲しくて、涙が止まらない。

「真っ暗になる前に、ユルタまで戻るぞ。ちしおが待ちくたびれてるだろ」
 きらぼしが、ゆめさきの肩を叩いた。きらぼしの声も涙に湿っている。ゆめさきはうなずき、馬首を返す前にもう一度だけ、崖のほうを向いてつぶやいた。
「さよなら。ありがとう、あらし。元気でね」