長い時間ではなかった。唐突に、きらぼしがゆめさきを解放した。

「……何やってんだ、おれは」
「きらぼし?」
「悪ぃ。カッとなっちまった。自分で自分が抑えられなくて。こんな暴力みたいな……最低だな」

 暴力、だろうか? 強引なのに恐ろしくはなかった。ぞくりと走った背筋の震えは甘美だった。もっとほしいと思ってしまった。

「わたし、初めてなのよ。唇のキスは、今まで誰にも……だって、夫となる人との甘い愛のためにって夢見ていて」

 ゆめさきは、きらぼしを見つめている。きらぼしは見つめ返してくれない。途切れた言葉を拾ってもくれず、幾度も一人でかぶりを振って、彼はゆめさきではなく親友の名を口にした。

「なあ、もちづきの力を複写すんのは、やめてくれよ。おれ、あいつの力は嫌いなんだよ。あいつは、いつもいつも自分を犠牲にしやがって。もちづきのああいう甘ちゃんなところ、本当に嫌いなんだ」

 嫌いという言い方は、本音ではない気がした。ただ、きらぼしがどうしようもなく怒っているのは、ゆめさきにもわかる。
 きらぼしは一歩、二歩と後ずさり、野花に埋もれるように座り込み、両手両足を投げ出して引っ繰り返った。
 ゆめさきは沈黙に耐えきれず、紡ぐべき言葉を探した。頭に血が上り、思考がぐちゃぐちゃに散らかっている。

「もちづきは、優しいから」
 それは今この場にふさわしい言葉だっただろうか。わからない。でも、ごく短い沈黙の後、きらぼしは応えた。

「優しすぎてお節介だし、ありがた迷惑だ」
「でも、ひよどり村を守ったわ」
「義理と人情も、度を過ぎれば滑稽だろ。独り芝居が敵に通用するとも限らないのに、よくもまあ勝手なことしてくれやがって」

「そんな言い方はないでしょう。もちづきは、きらぼしをかばったのよ。それに、わたしのこともかばってくれた。もちづきが卑怯な人間なら、迷わずわたしを敵に差し出したはず。だって、敵の狙いは父上との交渉なのよ」

 もちづきが派手な振る舞いをして注意を惹いてくれたから、ゆめさきが見付かる前に敵は引き上げていった。

 すめらぎ、というらしい敵の長は、約半年前にこの近辺にやって来たという。おそらく彼やその手下は、ゆめさきの顔を知らない。金髪のおてんば娘がみつるぎ国皇子の一行の中にいるとは知っていたかもしれないが、それをゆめさきだと見抜いてはいなかったのだ。
 風が吹き抜ける。煙の匂いが薄れ、青い林檎の匂いがした。きらぼしが仰向けに引っ繰り返ったまま、空に言葉を放った。

「あいつが何を考えてようと、おれはあいつを失うわけにゃいかねぇんだ。勝手に無茶するカッコつけ野郎で、たまにマジで気に食わねぇくらいだけど、もちづきはおれにとって唯一無二の存在だ。おれは、もちづきを取り返しに行く」
「わたしも行く」

「来てほしくねぇな。と言ったところで、おとなしくしてるはずもねぇか」
「当たり前でしょ。見過ごすわけにはいかないわ。もちづきの友達としても、わたしの結婚のためにも、あさぎり国の治安や平和のためにも、むらくも族の誇りのためにも」

 ゆめさきは、崖の向こうに建つ砦を見晴らした。ここからでも姿を確認できるほど巨大な鳥が二羽、砦の上空を旋回している。ひよどり村を襲った人形戦士のうちの二体が変化したものだろう。

 うわっ、と突然、きらぼしが声をあげた。驚いてそちらを見ると、あらしが、きらぼしの顔にじゃれ付いている。

「ちょっ、おい、あらし! 何だよ、急に? こら、耳、舐めんな!」
「あら、言わなかったっけ? 仰向けで寝転がってたら、あらしのおもちゃにされるわよ。顔にじゃれ付くのが好きなのよね」
「聞いてねぇよ! う、口もやめろ、やめっ……ぐっ」

 そうだ、もちづきだったと、ゆめさきは思い出した。懐いた人の顔をおもちゃにしたがるあらしの癖を教えたのは、きらぼしではなく、もちづきだった。

 もちづきがあらしの顔攻撃に苦笑いし、仮面の留め具を直している日があった。あらしは、もちづきの頭によじ登り、得意げな様子で黒髪をわしゃわしゃと掻き乱していた。
 あらしの旅立ちを、もちづきにも見届けてもらいたい。ふと、そう思った。強い強い思いだった。