宿場のふくろう町には、ゆめさきの友達がいる。同い年の、すみれという少女だ。ゆめさきは一行を引き連れ、すみれの家族が営む食堂の戸を押した。
「あら、久しぶり! いらっしゃい! ふぶきさんも、ごきげんよう!」
すみれはテーブルを片付ける手を止め、顔をほころばせた。そばかすだらけの頬がパッと赤く染まったのは、ふぶきが彼女に微笑み返したからだ。
ふぶきは銀の髪と青い目、繊細な顔立ちをして、器用な手先で魔法のように見事な細工物をこしらえ、問えば何でも答えてくれるほどに博識だ。王家からの信頼も厚く、むらくも族の伝統装束がまた美しいとあって、王都やその近隣の町の女たちに人気が高い。
食堂は、朝食の時間帯を過ぎたところのようだった。すみれは、ゆめさきたちを奥まった個室のテーブル席に案内した。
「狭くてごめんよ。何だかんだ言っても姫さまなんだから、表から見える席じゃ不用心でしょ。しかも、今日は姫さまひとりじゃなくて、ふぶきさんもいるし、みつるぎ国のお二人の黒髪も目立っちまうし」
「わたしたちなら、ちょっとくらい狭くても平気よ。それより、おなかが減ってるの。何か適当にお願い。お昼ごはん用のお弁当も頼める?」
「もちろんだよ。ちょいと待っててね」
すみれがゆめさきに対して気さくな口の利き方をすることに、もちづきは面食らったらしい。
「彼女は、どういった身分なのです?」
まじめくさって訊いてくるのが、ゆめさきにはおかしかった。
「友達よ。物心ついたころから、こんな感じで仲良くしてるの」
「しかし、姫のご身分は……」
「もちろん、公式行事でこの町に来るような場合はわたしだって綺麗な格好をするし、すみれはわたしに頭を下げる。直接言葉を交わすこともない。そのあたりはうまくやってるから平気よ」
もちづきは言葉を失い、きらぼしはおもしろそうに目を輝かせた。ふぶきは渋い顔をしている。
「姫は詰めが甘いから、ぼろが出そうになることもしょっちゅうで、そのたびにぼくたちがヒヤヒヤするんですよ。もっときちんと身分をわきまえるようにと、いつも忠告さし上げているのに」
「ふぶき、眉間にしわが寄っているわ。しかめっ面ばかりしていると、しわが消えなくなるわよ」
「ご心配には及びません。大人の男のしわには色気があるともいいますから、むしろ歓迎です」
ふぶきは澄ました顔をしてみせるが、ゆめさきは噴き出した。ふぶきとは、それこそ物心ついたころにはもう友達だったから、大人の男だとか色気だとか、そんな言葉を口にされても笑いが込み上げてきて困る。
すみれは小柄な体でくるくるとよく働く。料理も給仕もお手の物で、目配りも気配りも行き届き、決して客を待たせない。
新鮮な果物を使ったジュースや搾りたての牛乳、酸味の効いたドレッシングのサラダ、温めたパンとあぶったチーズ、ベーコンと根菜のスープに、バターたっぷりのオムレツと、料理は間断なく運ばれてきた。
あらしの食事は、小さく切った生の鶏肉と、粗く砕いた胡桃、ふかした芋だ。すみれはあらしを気に入っていて、食堂にはあらし専用のボウルがある。あらしもすみれのことが好きで、彼女の少し荒れた手で撫でられると、キュルキュルと喉を鳴らして甘えてみせる。
きらぼしは、口調は荒っぽいくせに身のこなしは凛としていて、食事の所作もそうだった。旺盛な食欲を発揮しつつも、ピンと背筋を伸ばし、音を立たずに食べる。
もちづきも同じく、礼儀の行き届いた所作は美しいのだが、食事中にも仮面を外さないのはどうなのだろうか。
「ねえ、もちづきって、食べるときも寝るときも仮面を付けたままなの?」
ゆめさきはフォークを動かす手を止め、もちづきに尋ねた。もちづきは千切りかけのパンを手元の皿に置き、少し答えに迷ったようだ。折しも、すみれが鶏肉のハムを手に、個室に入ってきたところだった。
もちづきは、鴉の仮面を付けた顔をそっと伏せた。
「お見苦しいとは存じますが、ご容赦ください」
「もう見慣れたわ。でも、付けっぱなしで視界が狭くて、鬱陶しくない?」
「いえ……私にはこれが必要ですから」
ちょいと、と、すみれが声をひそませて、ゆめさきを呼んだ。ゆめさきは席を立って廊下に出て、すみれの内緒話に耳を貸す。
「どうしたの?」
「あの人、皇子さまでしょ? 姫さまのお婿さんなんだ?」
「……言わない約束なのよ。彼、正体を明かそうとしないから。仮面まで付けてるし」
「でも、だったら、それこそ間違いないじゃない! やだぁ、ドキドキする! 黒い髪って神秘的だね。銀の髪と同じくらい神秘的。それに、ふぶきさんと同じくらい色が白くて、体つきもスラッとしてるし」
「ええ、そうね。もちづきっていう名前が似合う、静かで綺麗な男性だわ」
「仮面から見えてる鼻や唇、あごの形も綺麗だよね。目元だって、きっと美男子だよ! みるつぎ国の男は凛々しくて礼儀正しくて我慢強いっていうし、姫さま、最高のお婿さんじゃないか! あたしも嬉しいよ!」
すみれに抱き付かれながら、ゆめさきは不思議な気持ちになった。
「まだ実感がないのよね。わたし、結婚って、恋人同士がするものだと思ってたみたい」
「みたい、って何? どういう意味?」
「おとぎ話を信じてたのかしら。王女として生まれた以上、父上が決める相手と結婚するのが役目だとわかってたつもりが、いざとなったらモヤモヤするの。あの物語でもこの物語でも結局、姫君は恋する相手と結ばれたのに、なぜわたしは違うのって」
「姫さま」
「顔も知らない、声も聞いたことのない相手だったのよ。公式文書で真名の署名を見たことはあるけど、普段はどんな名前で呼ばれてるのか、根ざしものや性格がどうなのか、少しも知らされずにいたの。そんな人と結婚するなんて、すみれ、想像できる?」
すみれが泣きそうな顔をした。ふくろう町の女は皆、気風がよくて人情家で涙もろい。いつだって、ゆめさきのために親身になってくれる。
「姫さまだって、つらいときがあるよね。でも、あたしたち、ふくろう町のみんなは姫さまの味方だよ。本当にどうしても悲しい思いをしてしまうときは、逃げておいでよ。みんなで守ってあげるから」
「ありがと、すみれ。弱音吐いちゃって、ごめんね」
「全然かまわないよ。姫さまはいつも笑ってるでしょ? だけどさ、あたしの前でなら、苦しい思いをもっとガンガン吐き出しちまってもいいんだよ。あたしでよけりゃ聞いてあげるから。ね?」
「うん。すみれがいてくれて、心強いわ」
厨房のほうから、すみれを呼ぶ声がする。料理の腕を振るう彼女の両親が、次の仕事を言い付けたいのだろう。すみれはよく通る声で返事をし、ゆめさきにごめんねと断って、パタパタと厨房へ向かっていく。
すみれのふわふわした癖毛を束ねる藍色のリボンは、ゆめさきが贈った誕生日のプレゼントだ。野に咲くスミレの花を意匠化し、きらびやかな糸でびっしりと刺繍したのは、ふぶきだった。
「清らかに風に微笑む花すみれ」
リボンの裏に隠して、すみれの真名が刺繍されている。それを手掛けたのもふぶきだが、ゆめさきがすみれの真名を彼に告げたとき、針を持つ繊細な手が少し震えていた。
ゆめさきのように公的な役割が課された身分の者を除けば、女が真名を打ち明ける相手は、心を許した友か想いを寄せる男か、どちらかに限られる。仮名ではなく真名を入れてあげてと、ゆめさきがふぶきに頼んだ事情を、鈍感ではない彼は察したに違いない。
すみれはいつもあのリボンを身に付けている。彼女がふぶきへの恋心をゆめさきに初めて打ち明けてくれたのは、三年も前のことだ。想いは募るばかりだと、すみれはときおり会うたびに、恋の話をする。
「わたしも、この旅の間に、恋を知れたらいいんだけど」
ゆめさきはポツリとつぶやいた。
いつの間にか足下に、あらしがいる。ゆめさきはあらしを抱き上げて、ツヤツヤした鱗に頬を寄せた。あらしは、ザラッとした薄い舌で、ゆめさきの頬を舐めた。
「あら、久しぶり! いらっしゃい! ふぶきさんも、ごきげんよう!」
すみれはテーブルを片付ける手を止め、顔をほころばせた。そばかすだらけの頬がパッと赤く染まったのは、ふぶきが彼女に微笑み返したからだ。
ふぶきは銀の髪と青い目、繊細な顔立ちをして、器用な手先で魔法のように見事な細工物をこしらえ、問えば何でも答えてくれるほどに博識だ。王家からの信頼も厚く、むらくも族の伝統装束がまた美しいとあって、王都やその近隣の町の女たちに人気が高い。
食堂は、朝食の時間帯を過ぎたところのようだった。すみれは、ゆめさきたちを奥まった個室のテーブル席に案内した。
「狭くてごめんよ。何だかんだ言っても姫さまなんだから、表から見える席じゃ不用心でしょ。しかも、今日は姫さまひとりじゃなくて、ふぶきさんもいるし、みつるぎ国のお二人の黒髪も目立っちまうし」
「わたしたちなら、ちょっとくらい狭くても平気よ。それより、おなかが減ってるの。何か適当にお願い。お昼ごはん用のお弁当も頼める?」
「もちろんだよ。ちょいと待っててね」
すみれがゆめさきに対して気さくな口の利き方をすることに、もちづきは面食らったらしい。
「彼女は、どういった身分なのです?」
まじめくさって訊いてくるのが、ゆめさきにはおかしかった。
「友達よ。物心ついたころから、こんな感じで仲良くしてるの」
「しかし、姫のご身分は……」
「もちろん、公式行事でこの町に来るような場合はわたしだって綺麗な格好をするし、すみれはわたしに頭を下げる。直接言葉を交わすこともない。そのあたりはうまくやってるから平気よ」
もちづきは言葉を失い、きらぼしはおもしろそうに目を輝かせた。ふぶきは渋い顔をしている。
「姫は詰めが甘いから、ぼろが出そうになることもしょっちゅうで、そのたびにぼくたちがヒヤヒヤするんですよ。もっときちんと身分をわきまえるようにと、いつも忠告さし上げているのに」
「ふぶき、眉間にしわが寄っているわ。しかめっ面ばかりしていると、しわが消えなくなるわよ」
「ご心配には及びません。大人の男のしわには色気があるともいいますから、むしろ歓迎です」
ふぶきは澄ました顔をしてみせるが、ゆめさきは噴き出した。ふぶきとは、それこそ物心ついたころにはもう友達だったから、大人の男だとか色気だとか、そんな言葉を口にされても笑いが込み上げてきて困る。
すみれは小柄な体でくるくるとよく働く。料理も給仕もお手の物で、目配りも気配りも行き届き、決して客を待たせない。
新鮮な果物を使ったジュースや搾りたての牛乳、酸味の効いたドレッシングのサラダ、温めたパンとあぶったチーズ、ベーコンと根菜のスープに、バターたっぷりのオムレツと、料理は間断なく運ばれてきた。
あらしの食事は、小さく切った生の鶏肉と、粗く砕いた胡桃、ふかした芋だ。すみれはあらしを気に入っていて、食堂にはあらし専用のボウルがある。あらしもすみれのことが好きで、彼女の少し荒れた手で撫でられると、キュルキュルと喉を鳴らして甘えてみせる。
きらぼしは、口調は荒っぽいくせに身のこなしは凛としていて、食事の所作もそうだった。旺盛な食欲を発揮しつつも、ピンと背筋を伸ばし、音を立たずに食べる。
もちづきも同じく、礼儀の行き届いた所作は美しいのだが、食事中にも仮面を外さないのはどうなのだろうか。
「ねえ、もちづきって、食べるときも寝るときも仮面を付けたままなの?」
ゆめさきはフォークを動かす手を止め、もちづきに尋ねた。もちづきは千切りかけのパンを手元の皿に置き、少し答えに迷ったようだ。折しも、すみれが鶏肉のハムを手に、個室に入ってきたところだった。
もちづきは、鴉の仮面を付けた顔をそっと伏せた。
「お見苦しいとは存じますが、ご容赦ください」
「もう見慣れたわ。でも、付けっぱなしで視界が狭くて、鬱陶しくない?」
「いえ……私にはこれが必要ですから」
ちょいと、と、すみれが声をひそませて、ゆめさきを呼んだ。ゆめさきは席を立って廊下に出て、すみれの内緒話に耳を貸す。
「どうしたの?」
「あの人、皇子さまでしょ? 姫さまのお婿さんなんだ?」
「……言わない約束なのよ。彼、正体を明かそうとしないから。仮面まで付けてるし」
「でも、だったら、それこそ間違いないじゃない! やだぁ、ドキドキする! 黒い髪って神秘的だね。銀の髪と同じくらい神秘的。それに、ふぶきさんと同じくらい色が白くて、体つきもスラッとしてるし」
「ええ、そうね。もちづきっていう名前が似合う、静かで綺麗な男性だわ」
「仮面から見えてる鼻や唇、あごの形も綺麗だよね。目元だって、きっと美男子だよ! みるつぎ国の男は凛々しくて礼儀正しくて我慢強いっていうし、姫さま、最高のお婿さんじゃないか! あたしも嬉しいよ!」
すみれに抱き付かれながら、ゆめさきは不思議な気持ちになった。
「まだ実感がないのよね。わたし、結婚って、恋人同士がするものだと思ってたみたい」
「みたい、って何? どういう意味?」
「おとぎ話を信じてたのかしら。王女として生まれた以上、父上が決める相手と結婚するのが役目だとわかってたつもりが、いざとなったらモヤモヤするの。あの物語でもこの物語でも結局、姫君は恋する相手と結ばれたのに、なぜわたしは違うのって」
「姫さま」
「顔も知らない、声も聞いたことのない相手だったのよ。公式文書で真名の署名を見たことはあるけど、普段はどんな名前で呼ばれてるのか、根ざしものや性格がどうなのか、少しも知らされずにいたの。そんな人と結婚するなんて、すみれ、想像できる?」
すみれが泣きそうな顔をした。ふくろう町の女は皆、気風がよくて人情家で涙もろい。いつだって、ゆめさきのために親身になってくれる。
「姫さまだって、つらいときがあるよね。でも、あたしたち、ふくろう町のみんなは姫さまの味方だよ。本当にどうしても悲しい思いをしてしまうときは、逃げておいでよ。みんなで守ってあげるから」
「ありがと、すみれ。弱音吐いちゃって、ごめんね」
「全然かまわないよ。姫さまはいつも笑ってるでしょ? だけどさ、あたしの前でなら、苦しい思いをもっとガンガン吐き出しちまってもいいんだよ。あたしでよけりゃ聞いてあげるから。ね?」
「うん。すみれがいてくれて、心強いわ」
厨房のほうから、すみれを呼ぶ声がする。料理の腕を振るう彼女の両親が、次の仕事を言い付けたいのだろう。すみれはよく通る声で返事をし、ゆめさきにごめんねと断って、パタパタと厨房へ向かっていく。
すみれのふわふわした癖毛を束ねる藍色のリボンは、ゆめさきが贈った誕生日のプレゼントだ。野に咲くスミレの花を意匠化し、きらびやかな糸でびっしりと刺繍したのは、ふぶきだった。
「清らかに風に微笑む花すみれ」
リボンの裏に隠して、すみれの真名が刺繍されている。それを手掛けたのもふぶきだが、ゆめさきがすみれの真名を彼に告げたとき、針を持つ繊細な手が少し震えていた。
ゆめさきのように公的な役割が課された身分の者を除けば、女が真名を打ち明ける相手は、心を許した友か想いを寄せる男か、どちらかに限られる。仮名ではなく真名を入れてあげてと、ゆめさきがふぶきに頼んだ事情を、鈍感ではない彼は察したに違いない。
すみれはいつもあのリボンを身に付けている。彼女がふぶきへの恋心をゆめさきに初めて打ち明けてくれたのは、三年も前のことだ。想いは募るばかりだと、すみれはときおり会うたびに、恋の話をする。
「わたしも、この旅の間に、恋を知れたらいいんだけど」
ゆめさきはポツリとつぶやいた。
いつの間にか足下に、あらしがいる。ゆめさきはあらしを抱き上げて、ツヤツヤした鱗に頬を寄せた。あらしは、ザラッとした薄い舌で、ゆめさきの頬を舐めた。