ゆめさき姫は窓枠に足を掛けて、飛んだ。
夜に溶ける暗色のマントをはためかせ、風を一つ蹴れば、初夏の星空がぐんと近付く。巡回する近衛兵に発見されないように、宮廷の中央に建つ父王の執政殿や城壁に配された八ヶ所の物見塔よりも、うんと高く飛び上がらなければならない。
ゆめさきの胸にしがみ付いた雄の仔竜、あらしが、もそもそと身をよじった。ゆめさきは、あらしのツヤツヤした鱗を撫でてやって、背負った荷物の肩紐をキュッと引き締めた。
「しっかりつかまってなさいよ、あらし。思いっ切り、かっ飛ばすから!」
あらしは、キュイ、と喉を鳴らして返事をした。
まもなく十二歳になろうとするあらしは、竜の年齢に直せばまだほんの幼児で、銀色の体は人間の赤ん坊のように小さい。一度の脱皮も遂げていないため、翼はお飾りで空を飛べないし、頼りない爪は小型犬のものと大差ない。
ゆめさきは振り返った。今しがた蹴り飛ばしてきた窓から、妹のきよみずが憂いを帯びた目で、ゆめさきが翔ける空を仰いでいる。
色白でほっそりとしたきよみずの姿はいかにも儚い。その印象に違わず、きよみずは体が弱くて、いくばくかの心労で熱を出して倒れてしまうこともある。
ゆめさきは後ろ髪を引かれた。
「ごめんね、きよみず。でも、わたしのわがままに協力してくれてありがとう。これが最初で最後。できるだけ早く帰ってくる。どんなに遅くても、二ヶ月後の結婚式までには必ず。だから、元気で待っていて」
ゆめさきが手を振ると、きよみずも顔のそばに手を持ち上げ、少しだけ振り返した。きよみずの背後に立つヴェールをかぶった女も、きよみずの真似をするように手を動かした。
「核の素材がいいだけあって、人形の出来栄えは完璧ね。わたしが帰ってくるまで、留守を頼んだわよ」
女は、刺繍とフリルでいっぱいの夜着を身にまとっている。本来ゆめさきが着るべきものだ。
一方のゆめさきは、いちばん下級の兵卒に支給される制服に暗色のマントという出で立ちである。豪奢な金髪も一つに結び、フードの内側にしまい込んでいる。
ゆめさきは、額に押し上げていた飛行眼鏡を目の位置に下ろし、フードの紐を結び直した。本気を出せば、馬が駆けるよりも速く飛ぶことができる。そんなときの風圧はバカにできなくて、親友が作ってくれた飛行眼鏡が手放せない。
あらしは、ゆめさきが飛行眼鏡を装着したと見ると、まぶたの内側にある透明な皮膜を下ろした。皮膜は飛竜属に特有の器官で、風雨を防ぐ役割がある。
「わたしの目にも、その保護膜があればいいのに」
ゆめさきのないものねだりに、あらしは得意げな顔で、キュ、と鳴いた。飛行眼鏡は視界が狭まるし、枠の部分が額や頬に食い込んで痛いのだ。
空を仰いだゆめさきは、再び風を蹴った。水底を蹴って浮かび上がる感覚に似ている。水よりも風は軽い。蹴り出すコツさえつかめば、水中よりもずっと自由に、空中を滑っていける。
見下ろすと、城壁上の通路を巡回する兵士が豆粒よりも小さい。
宮廷も王都も円形だ。分厚い城壁にぐるりと囲まれた宮廷を中心に、放射線状に街路が伸び、同心円状に町が展開され、隈なく巡る水路が交通の利便を助けている。
町にぽつぽつと落ちた灯火は、深夜の今もにぎわう酒場と、迷える子羊にいつでも門戸を開く教会、そのほかは何だろう? 明日までに仕上げるべき品物のある職人の工房か、昼夜を忘れた学者たちの象牙の塔か。
「いろんな人が、たくさん住んでいる。だから、地上にある星も好きよ。空の星と同じくらい好き」
二ヶ月後、異国の皇子と結婚してしまえば、こうして夜空を翔けるのもいくらか控えることになるだろう。直前の準備から婚礼の当日、そしてしばらく続く祝宴の日々はきっと忙しすぎて、空を飛ぶ体力も時間も残らないに違いない。
だから、ゆめさきにとって、これが最初で最後の冒険だ。
もちろん今までにも、ちょっと遠すぎる町まで行ってしまってその日のうちに王都に帰れず、駅伝制の早馬に手紙を託して「今夜はどこそこの町に泊まります」なんて父王に知らせたりすることは、ときどきあったけれど。
竜の谷は王都から遠い北の辺境にあって、どう急いでも片道五日はかかる。そこへ行って帰ってくるのだから、うっかり一晩外泊してしまう程度の今までの遠出とはわけが違う。
ゆめさきは、ぐんと風を蹴った。地上を歩けば広々とした宮廷も、空からだったら簡単に抜け出せる。
城壁を越えて、大臣の屋敷の陰に隠れながら急降下。キョトンとする番犬にシーッと人差し指を立ててみせて、ゆめさきは水路へと、ふわりと高度を下げた。水の匂いを感じるくらいの水面ギリギリを、係留された舟を避けながら飛んでいく。
ゆめさきは、小さなあらしのぬくもりを抱きしめ、風を切って微笑んだ。
「さあ、冒険の始まりよ!」
キュルル、と、あらしが喉を鳴らして、空飛ぶおてんば姫の声に応えた。
夜に溶ける暗色のマントをはためかせ、風を一つ蹴れば、初夏の星空がぐんと近付く。巡回する近衛兵に発見されないように、宮廷の中央に建つ父王の執政殿や城壁に配された八ヶ所の物見塔よりも、うんと高く飛び上がらなければならない。
ゆめさきの胸にしがみ付いた雄の仔竜、あらしが、もそもそと身をよじった。ゆめさきは、あらしのツヤツヤした鱗を撫でてやって、背負った荷物の肩紐をキュッと引き締めた。
「しっかりつかまってなさいよ、あらし。思いっ切り、かっ飛ばすから!」
あらしは、キュイ、と喉を鳴らして返事をした。
まもなく十二歳になろうとするあらしは、竜の年齢に直せばまだほんの幼児で、銀色の体は人間の赤ん坊のように小さい。一度の脱皮も遂げていないため、翼はお飾りで空を飛べないし、頼りない爪は小型犬のものと大差ない。
ゆめさきは振り返った。今しがた蹴り飛ばしてきた窓から、妹のきよみずが憂いを帯びた目で、ゆめさきが翔ける空を仰いでいる。
色白でほっそりとしたきよみずの姿はいかにも儚い。その印象に違わず、きよみずは体が弱くて、いくばくかの心労で熱を出して倒れてしまうこともある。
ゆめさきは後ろ髪を引かれた。
「ごめんね、きよみず。でも、わたしのわがままに協力してくれてありがとう。これが最初で最後。できるだけ早く帰ってくる。どんなに遅くても、二ヶ月後の結婚式までには必ず。だから、元気で待っていて」
ゆめさきが手を振ると、きよみずも顔のそばに手を持ち上げ、少しだけ振り返した。きよみずの背後に立つヴェールをかぶった女も、きよみずの真似をするように手を動かした。
「核の素材がいいだけあって、人形の出来栄えは完璧ね。わたしが帰ってくるまで、留守を頼んだわよ」
女は、刺繍とフリルでいっぱいの夜着を身にまとっている。本来ゆめさきが着るべきものだ。
一方のゆめさきは、いちばん下級の兵卒に支給される制服に暗色のマントという出で立ちである。豪奢な金髪も一つに結び、フードの内側にしまい込んでいる。
ゆめさきは、額に押し上げていた飛行眼鏡を目の位置に下ろし、フードの紐を結び直した。本気を出せば、馬が駆けるよりも速く飛ぶことができる。そんなときの風圧はバカにできなくて、親友が作ってくれた飛行眼鏡が手放せない。
あらしは、ゆめさきが飛行眼鏡を装着したと見ると、まぶたの内側にある透明な皮膜を下ろした。皮膜は飛竜属に特有の器官で、風雨を防ぐ役割がある。
「わたしの目にも、その保護膜があればいいのに」
ゆめさきのないものねだりに、あらしは得意げな顔で、キュ、と鳴いた。飛行眼鏡は視界が狭まるし、枠の部分が額や頬に食い込んで痛いのだ。
空を仰いだゆめさきは、再び風を蹴った。水底を蹴って浮かび上がる感覚に似ている。水よりも風は軽い。蹴り出すコツさえつかめば、水中よりもずっと自由に、空中を滑っていける。
見下ろすと、城壁上の通路を巡回する兵士が豆粒よりも小さい。
宮廷も王都も円形だ。分厚い城壁にぐるりと囲まれた宮廷を中心に、放射線状に街路が伸び、同心円状に町が展開され、隈なく巡る水路が交通の利便を助けている。
町にぽつぽつと落ちた灯火は、深夜の今もにぎわう酒場と、迷える子羊にいつでも門戸を開く教会、そのほかは何だろう? 明日までに仕上げるべき品物のある職人の工房か、昼夜を忘れた学者たちの象牙の塔か。
「いろんな人が、たくさん住んでいる。だから、地上にある星も好きよ。空の星と同じくらい好き」
二ヶ月後、異国の皇子と結婚してしまえば、こうして夜空を翔けるのもいくらか控えることになるだろう。直前の準備から婚礼の当日、そしてしばらく続く祝宴の日々はきっと忙しすぎて、空を飛ぶ体力も時間も残らないに違いない。
だから、ゆめさきにとって、これが最初で最後の冒険だ。
もちろん今までにも、ちょっと遠すぎる町まで行ってしまってその日のうちに王都に帰れず、駅伝制の早馬に手紙を託して「今夜はどこそこの町に泊まります」なんて父王に知らせたりすることは、ときどきあったけれど。
竜の谷は王都から遠い北の辺境にあって、どう急いでも片道五日はかかる。そこへ行って帰ってくるのだから、うっかり一晩外泊してしまう程度の今までの遠出とはわけが違う。
ゆめさきは、ぐんと風を蹴った。地上を歩けば広々とした宮廷も、空からだったら簡単に抜け出せる。
城壁を越えて、大臣の屋敷の陰に隠れながら急降下。キョトンとする番犬にシーッと人差し指を立ててみせて、ゆめさきは水路へと、ふわりと高度を下げた。水の匂いを感じるくらいの水面ギリギリを、係留された舟を避けながら飛んでいく。
ゆめさきは、小さなあらしのぬくもりを抱きしめ、風を切って微笑んだ。
「さあ、冒険の始まりよ!」
キュルル、と、あらしが喉を鳴らして、空飛ぶおてんば姫の声に応えた。