一方で彼女の書く日記は、僕のもの以上に個性的だった。
 たとえば、ある日の日記。

『6月3日。天気:曇。
 黒板の上にはクラスの集合写真。窓には誰かが脱いだ靴下が片方。
 地理の近藤先生の眼鏡は黒縁だが、あまり似合わない。彼に似合うのは銀縁。
 人生には必要なもの/不必要なものの2種類がある。大人になるというのは、その区別が正確にできなくなることを意味する。例えば必要なものは、無駄な時間。退屈な時間。何もしない時間。どうして大人は『時間を無駄にするな』っていうんだろう? 昨日のダイチくんの『時間』の話に触発されてみたよっ。
 不必要なものは、湿気。髪の毛がうねって仕方ない。今日のヘアセットは諦めました。』

……云々。

 うまくは言えないが、彼女の書く文章には聖俗入り交じっていた。高尚な議論も、女子高生らしい些細な愚痴も、両者が混在していた。
 今思えば、そこが彼女の最大の魅力だったのだ。

 無駄なもの。無駄じゃないもの。
 彼女はいつもそれらを意識していたのかもしれない。
 でなきゃ、紙の日記(それも交換日記)を始めようなんて思わないだろう。
 そんな硬派で古風なところが、僕は好きだったんだ。

 彼女が僕の告白を受け入れたのも、僕がラブレターを体育館裏で手渡したかららしい。
「今どきそんなこと誰もしないの、知ってる?」
「知ってるよ」
 でも僕にはメールやSNSで告白することは不可能のように思えたのだ。



「お前ら、よくそんなまどろっこしいことやってられるよな~」
 クラスメイトからはよくそんな風に呆れられた。やれやれと首を横に振って、苦笑いされる。
「最近はこのやり方になじんできたよ」
「物好きだなあ」

 例えば空に虹が架かった日。
 友達はスマホで写真をカシャっと撮ってそれをSNSにアップしたり、アプリで彼女に送ったりする。
 でも僕は写真には撮らず、文字だけで虹の架かり具合や見えた色(必ずしも虹は七色には見えない)を描写する。どんな太さで(パスタか、うどんか)、どの建物からどの方向に向けて架かっていたか。
 彼女は僕のその文章をいたく褒め称えた。

 例えば学校のグラウンドにタヌキが現れた日。
 友達はスマホで写真をカシャっと撮ってそれをSNSにアップしたり、アプリで彼女に送ったりする。
 でも僕は写真には撮らず、すぐにタヌキをスケッチする。うまく描けなくて、出来損ないのドラえもんのようになってしまう。
 彼女はその絵に涙を流しながら大爆笑してくれる。(不本意だが。)


 そんな不便だけれど温かい交換日記は、どこか切なくて、どこか愛おしい。
 下手くそな絵や文章を一旦消しゴムで消した痕跡。
 こぼしてしまった醤油のシミ。
 貼り付けられた授業中のメモや付箋。
 その一つ一つが、そこに確かに僕と彼女がいた証のような気がするのだ。

――彼女は間違いなく、僕の隣にいてくれていた。