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 男は三日三晩、眠り続けた。
 傷の方は浅く、体中の擦過傷こそ目立ったが、どれも大したものではなかった。如いて挙げるのであれば、頭部の切傷と、右脇腹の打撲であろう。

 怪我人は疲労が溜まっているのか、寝返りを打つ回数は少ない。こんなに寝て、腹は減らないのだろうか。ユンジェは看病をしながら首を傾げていた。

 男の格好は美しい衣から、使い古しの薄汚い衣に代わっている。

 それも仕様のない話。ここにある着替えが、彼の衣に代用できるものがなかったからだ。幸い、祖父の使っていた衣を取っていたため、男の着替えには困らない。

(じじ)が着ていたものなのに、こいつが着ると高価な衣に見える。なんでだろう?」

 まったく見栄えが違うので驚いてしまう。これも天人の力なのだろうか。

「……こいつの着ていた衣はどうしよう」

 美しい衣に付着した血は、ユンジェの手では取れそうになかった。

 こんな時、知識と知恵があればな、と思う。
 死んだ爺|《じじ》はいつも言っていた。知識は力だと。知恵は心だと。これらが豊かになればなるほど、人間は一回りも二回りも大きく成長するのだそうだ。

 生きるためには知識をつけろ。
 生き抜くためには知恵をつけろ。
 二つは同じ意味合いのようで、まったく異なる性質を持っている。

 死ぬ間際まで、(じじ)はユンジェに諭そうとした。

 けれど結局のところ、意味は分からず仕舞いだ。
 ユンジェの持てる知識といえば、ひとりでも生きていけるよう、畑を耕したり、野菜を育てたり。木を伐って(まき)を作ったり。藁を編んで縄や(むしろ)を作って、それを売ったりする。その程度だ。
 どれもきっと、(じじ)の指す知恵ではないのだろう。

「知識と知恵、何が違うんだろう」

 十三のユンジェには、とても理解しがたい話だ。

 そうそう。
 男の所持品であるが、驚いたことに、身に纏っている衣と、麒麟(きりん)が描かれた首飾り、そして懐剣(ふところがたな)しか持っていなかった。

(じじ)が絵に描いてくれた麒麟より、首飾りの方が立派だな。でも、売ったところで大した金にはならないぜ。これ」

 まったくの無一文だったので、寝食はどうするつもりだったのだろうと疑問に思う。

 特にユンジェの目をひいたのは、護身武器の懐剣だった。
 これは見事であった。鞘の装飾に感嘆が出る。
 無駄のない漆黒の鞘に、煌びやかな宝石、黄玉(トパーズ)が飾られている。それも満遍なく、ではなく、鞘の中心に大きく彩られていた。ただしユンジェは宝石を見たことも、聞いたこともなかったため、綺麗な石としか感想が出ない。

 ただ一点、この懐剣にはおかしなところがあった。

「やっぱり抜けない」

 力を籠め、鞘から刃を抜こうとするが、びくともしない。何度、試しても結果は同じ。ユンジェは懐剣をあらゆる面から観察する。
 護身武器のくせに、鞘から抜けない短刀なんて、使い物にもならないだろうに。

「天人にしか抜けないのかなぁ」

 ユンジェはまだ、この男を天人であり、天の使いだと信じていた。こんなにも美しく立派なのだ。天の使いだと言われた方がしっくりくる。

 懐剣を男の衣の上に置く。早々に抜くことは諦めた。男の所持品を、無暗に扱っては後で罰が当たるだろう。
 (じじ)が生きていたら、ユンジェの行いを咎めるに違いない。生きていたら、きっと。

「そろそろ飯にすっかな。腹が減った」

 ユンジェのひとり言は、己の腹の虫の音と重なり、静寂な家の内に響いた。