布に覆われ、紐で何重にもかたく結ばれている懐剣に目を落とす。刃物がない限り、これは解けそうにない。


「リーミンの支度はできたか。セイウさまが、首を長くしてお待ちしている」


 仕上げとして丁寧に爪を磨かれていると、兵が迎えにきた。

 セイウの近衛兵を任されているチャオヤンという男であった。
 歳は二十後半から三十前半辺りだろうか。肩幅の広く、がっしりとした体躯をしている。背丈も竹のように高い。一対一になったら、まず勝ち目はないだろう。

 近衛兵は従僕達より身分が高いようで、周囲の人間は深く頭を下げていた。さすがに膝はつけていなかったが。

 チャオヤンはユンジェの身なりに、ひとつ頷いた。

「見違えたな。それならばどこに出しても恥ずかしくない。誰もお前を農民とは思わないだろう。さあ来なさい、リーミン。セイウさまが懐剣のお前を待っている」

 ユンジェは内心、恨めしく嫌だと反抗した。誰がセイウの懐剣になるものか。

(それに俺はユンジェだってば。リーミンじゃねーよ)

 あまりリーミン、リーミンと呼ばないでほしい。今は違和感で済んでいるその名が、己の中で馴染んできそうで怖くなる。そうなる前に逃げ出せれば良いが。


(ティエン。大丈夫かな……カグム達がついているから、ある程度は大丈夫と思うけど)

    
 兵士不信が出てなければ、の話だが。
 いやいや、今は自分の身の心配をするべきだろう。

 ユンジェは不慣れな衣の裾を踏まないよう、細心の注意を払いながら、チャオヤンの後ろを歩く。四方は兵で固められているので、振り切って逃げることは不可能だ。
 ここはおとなしくして、相手の警戒心を強めないようにするのが得策だろう。

 石英の階段を上がり、四瑞が彫られた大扉を通る。
 従僕と侍女が左右に分かれ、深く頭を下げて道を示す。その手には美しい刺繍の入った扇や、眩しいばかりの手持ち金銀灯籠が握られていた。

 それらにどういう意味があるのか、ユンジェにはまったく理解ができないものの、力の象徴であることは察した。

 ユンジェは見えてくる、美しくも冷たい男に顔を顰めたくなった。
 織金の敷物の上で片膝を立て、口角を持ち上げて己を待つ姿が、とてもとても腹立たしい。なんで、自分はあの男に服従しなければいけないのだ。ああもう、このようにした麒麟に恨み言をぶつけてやりたい。


「ふふっ。これは驚きましたね。リーミン、貴方は本当に宝石の原石だったようで。まるで別人ですよ」


 立ち止まったユンジェは、兵達と共に頭を下げ、心の中で繰り返す。自分はユンジェ、ユンジェ、ユンジェ、だと。


「それだけ貴方は汚れていたんでしょうね。泥まみれの子猿がよくぞまあ、ここまで美しくなったものです」


 誰が泥まみれの子猿だ。

 ユンジェは放っておいてくれ、と投げやりになる。
 こちとら今日明日食べることで精一杯だったのだ。一々衣に金など掛けていられるか。それで腹が満たされるなら、喜んで衣に金を掛けている。

「まあ、ひとつ引っ掛かるといえば」

 チャオヤンに背中を押され、ユンジェはセイウの前で両膝をついた。頭を下げる間もなく、顎を掬われ、視線を『所有者』に留められる。

「顔に華がないことでしょうか。いくら磨いても、貧相は拭えないのでしょう。遺憾ではありますが、こればかりはどうしようもない。従僕や侍女を責められませんね」

 やかましい。セイウの顔に比べたら、誰だって貧相に見える。ユンジェは地団太を踏みたくなった。

(おとなしくしていれば好き勝手に言いやがって……お前より、ティエンの方が綺麗なんだからな。性格だってセイウより、ずっと優しくて、あったかいんだからな)

 本当に嫌になってくる。これの懐剣になる、なんて。セイウのために走りたくない、守りたくない、怪我なんぞ負いたくない。

 ユンジェは冷たい目から逃れるように、瞼を下ろして、きゅっと力を入れた。

「私がいつ、目を逸らして良いと許可をしましたか? リーミン」

 目を瞑ることすら、自由が無いのか。
 セイウに咎められ、ユンジェはそっと瞼を持ち上げた。愉快そうに己を見つめるセイウが、そこにはいた。すっかり所有者の顔である。

 思わず、眼光を鋭くして相手を見つめ返す。怯えるとでも思ったか。
 残念、ユンジェの心はまったく折れていない。敗北こそしてしまったものの、こんなことで屈するユンジェではない。

 相手の目を見れば見るほど、気持ちが固まっていく。絶対に逃げ出してやる。

「リーミン、ここで服従を示しなさい。みなに私の懐剣であることを示しなさい」

 嘲笑ってくるセイウに、ユンジェは衣を握り締めた。

(くそっ。こいつ、俺の心を読んでいるだろ)

 煮えたぎる感情を噛み締めていると知りながら、兵や従僕、侍女の前で服従を示せ、とは。
 本当に性格の悪い男である。半分でもティエンと同じ血が入っているなんて、にわかに信じられない。

 しかし、今は黙って従うべきだ。感情で物を考えると、見出せる隙すら棒に振ってしまう。


「セイウさま。恥ずかしながら、俺は学びを受けたことがございません。どうか、やり方を教えて下さい」

    
 さあユンジェ、賢い選択を取るために、ばかとなれ。
 第二王子がなんだ。服従がなんだ。屈辱がなんだ。根競べなら負けたことなどない。自分の長所は辛抱強いところだ。

 ユンジェはその場で平伏し、立ち上がるセイウに両手の甲を見せる。

 男は右の足でそれらを踏む。

 しかと踏まれていることを確認すると、足の甲に額を合わせた。どのようなことがあっても、自分は主君を裏切らない、主君に身を捧げると示すものらしい。

 きっと、これは公でする行為ではないのだろう。屈辱極まりない行為なのだろう。尊厳を傷付けられる行為なのだろう。

 ひしひしと感じる視線が、それを教えてくれる。

 けれど、いいのだ。

「リーミンはセイウさまの懐剣です」

 大丈夫なのだ。

「ユンジェの名を捨て、リーミンとして貴方様をお守りします」

 何も変わらないのだ。

「どうか。この身朽ちるまで、貴方様のお傍に置いて下さいませ」

 どんなに目に遭っても、ユンジェはいつだってそれに耐えてきた。今回も耐えるだけだ。

 すべてが終わったら、綺麗に忘れたらいい。美味い物でも食べて、嫌なことは全部忘れてしまおう。その未来を勝ち取るためにも、今は我慢だ。