でも、そんなことなんかを気にする余裕はなかった。一気に熱が上がって、心臓が活発に動き出した。日向君の突然の行動に、私は動揺しまくりだった。
 困ったように視線を日向君に向けると、私の心臓はもう一度強く跳ねた。日向君ってこんなに背高かったっけ、とか。こんなに声、優しかったっけ、とか。手は、骨張っててピアニストみたいな指で、肌の色も透けるように白い。だから余計に髪の毛の黒さが際立って、そのブルーグレーの深い瞳に溺(おぼ)れそうになる。
「中(なか)野(の)? 大丈夫?」
 ぼうっとしていた私を不思議に思ったのか、日向君は首を傾(かし)げていた。私は、慌ててなんでもないと言って、手をブンブン振った。
 そのとき、日向君の頬にも墨がついていることに気づいた。白い肌とは正反対の黒。今度は私が教えてあげようと口を開いたその瞬間、
「あ、本当だ、ついてた」
 教える前に日向君は自分で墨を取った。
 え、私、今、口に出してたっけ。
 多分きっと私、このとき人生で一番バカな顔をしていたと思う。
「教えてくれて、ありがとう」
 どういたしまして、という言葉が中々出てこない。私の頭の中や瞳の中にはきっとハテナマークで溢(あふ)れているのだろうけれど、日向君は一切動揺していない。知らないうちに言ったのか、言っていたんだな、きっと。日向君のブルーグレー色の瞳を見ていると、なんだか不思議とすとんとそう思えてきて、私はどういたしまして、と声に出した。
 そういえば、こういうことが前に一度だけあった。数学の授業で、唯一解けなくてやり残していた問題を、先生に答えるよう当てられてしまったあのときだ。よりにもよってこの問題かと、自分の運の悪さを呪いながら渋々席を立ち上がると、斜め前の席から答えの書かれた紙が飛んできたのだ。当てられてから立ち上がるまでのあの短い時間で、私の表情も見ずに、どうして彼はあのときあんな風に私を助けてくれたんだろう。もしかして、ちょっと先の未来が見えてるんじゃなかろうか。なんて、ありえないバカな妄想をしているうちに、日向君は私の手から真っ黒な雑巾を奪っていた。
「これ、捨てておくよ。机はさ、空き教室の机としれっと交換しておけばいいと思うよ。じゃあ、俺バイトあるから」
 そう言って、日向君は足早に教室を去っていってしまった。
 机ごと交換してしまう。なるほど、その考えはなかった。そもそも、普通だったらもっと怒るか呆(あき)れるかするはずなのに、日向君って、思ったよりずっと優しいな。こうやって助けてもらうのは二回目だ。私は、遠ざかっていく彼の足音を聞きながら、しばし呆然とそこに立ち尽くしていた。