「同じクラスや部活の人に手を出す気はないし」
「え?」

ガタゴトとバスと同じリズムで揺れる私と桐谷先輩。窓なんて開いていないのに、冷たい風が吹き抜けた気がした。

「そ……そうなんですね」
「うん」

私は、自分の手先がだんだん冷たくなっていくのを感じた。なんだか、全部見透かされていて、釘を刺されているような気がする。これ以上、好きになるなって……。

「…………」

ドクン、とさっきとは打って変わって、熱くて苦いものがこみあげる。好きだということを自分で認めた途端に、一気に胸に痛みが広がった。

「ハ……ハハ。揉めたり別れたりすること前提で、ややこしくなりたくないってことですか?」

無理に笑って、なんでもないことのように聞くと、
「そう。ていうか、そもそも彼女作る気ないし」
と、飄々と答える桐谷先輩。

サイテー。彼女じゃない女の人とはあんなことしてるくせに。

桐谷先輩の言葉に乾いた笑いを返しながら、彼のラブシーンを思い返し、心のなかで思いきり罵る。

「なんだ。桐谷先輩、本当に人を好きになったことがないんだ」

気付けば、口から嫌味が出ていた。見おろしている桐谷先輩が、薄い笑顔のまま、「ん?」と一時停止する。
「人物画描かない、っていうのと似てますね。描きたい、っていう特別な感情を持たせるような、心を動かす人物に出会えていないだけだったりして」

そのまま止まっていた彼は、ようやく瞬きをして、ふっと口角を片方あげる。

「そうかもね」

その返答が、自分のことなのに他人事のような肩透かしなものに聞こえて、私は余計にモヤモヤした。とりあえず、目の前に線を引かれたことはわかった。



バスを降り、住宅が並ぶ車通りのさほどない道を、少しずつ歩き始める。明かりがついている家、ついていない家。夕飯の匂いがする家もあれば、入浴剤の匂いがしてくる家もある。

私が見ているのは、日が落ちた直後の薄暗い空。とぎれとぎれに連なる雲が、まるで空のひび割れみたいに見える。割れ目がオレンジ色と群青を混ぜたような濃い色で、私を見おろしている。

私はさっき自覚したばかりだし、告白すらしていないのに、なぜかフラれたような気持ちになっていた。

もう見慣れた風景の、バス停ひとつ分の帰り道。今日はなぜだか、とてつもなく遠く感じた。




「沙希ちゃん」

放課後の美術室。私より数分遅れで顔を出した舞川さんが、油絵の準備をしている私の横に立つ。今日は1年生だけはやく終わったから、まだ私たちふたりだけだ。

「あのさ、沙希ちゃんて、も、もしかしてさ……」

美少女がほんの少し頬を染めて、言いづらそうに私を見る。昨日の今日だから、言われることがなんとなくわかる。ふたりが話しているところを邪魔したんだから、本人だけじゃなくて、舞川さんにも勘付かれて当然だ。

「あ……昨日はごめんね。私、あの作品のファンで、それでなんか作品のこと独り占めしたいような気持ちになって」
「え?」

私の言葉に、舞川さんが心底驚いた顔をした。

「えーと……、桐谷先輩本人じゃなくて、作品の?」
「うん。もちろん作者の先輩のファンでもあるけど、あの作品は特別思い入れがあって」

昨日先輩に話したように、舞川さんにも嘘ではない理由を語る。

「そ……うなん、だ」

舞川さんは驚きの表情から、ふっと安堵の表情になり、「なんだ、よかった」と笑った。
その様子に、私は嫌でも気付く。舞川さんが、先輩に対してファン以上の気持ちを持っているということに。
「舞川さんて、桐谷先輩のこと……」
「あ……。ハハ。バレバレだよね? 先輩がいるっていうのも、この高校の志望理由のひとつだったんだ。最初は本当にファンなだけだったんだけど」

一緒だ……、私と。桐谷先輩の顔を知らなかっただけで。

そう思いながら、どんどん心のなかが霞がかってきた。
はずかしそうに頭をかく舞川さんは、恋する美少女って感じでとても可愛い。それに、絵の実力もあるし。

「…………」

同じ部活の人に手を出す気はない、って桐谷先輩は言っていたけれど、舞川さんなら、もしかしたら彼の例外になれるのかもしれない。
重い心持ちで、油絵の画材入れの箱を開く。

「彼女、いるよね? たぶん」

舞川さんがつぶやくようにこぼす。

「いないって言ってたよ」

そう答えてから、なんだか応援しているみたいな言い方になっちゃったな、と思った。やっぱり今日も、透明なビンの色は上手に塗れなかった。





「なにしてるんですか?」

数日後の放課後。
日直だった私は、先生に日誌を届けた帰りに、中庭でうずくまっている桐谷先輩に遭遇した。

「なにって、見ればわかるでしょ?」
「なんですか?」
「葉っぱを吟味して拾ってんの」

そう言った桐谷先輩のしゃがんだ足もとには、数枚の選ばれし葉っぱたちが重ねられている。

「わかりませんよ」

私は無表情でそう返しながら、やっぱり桐谷先輩は変な人だと思った。

「今描いてる絵に使うんですか?」
「そう。あの絵、葉っぱの葉脈みたいな繊細さを部分部分で出したいから」
「あー、やっぱり……」

彼の今描きかけのキャンバスを頭の中の額縁にかけると、私は自然とそうつぶやいていた。

「やっぱり、って?」
「黄色がバン、て前面にきてて大胆で強く見えるけど、細かいところ、ホントに細かく描いてたから。前取った葉っぱも使ったって言ってましたもんね。あの細かい筋がアクセントになってて、脆さっていうか儚さみたいな繊細な印象、たしかに受けましたもん」
桐谷先輩を見おろしながらそう言うと、見あげる彼は一瞬だけ表情を止めて、
「……よく見てんね、水島さん」
と言った。

「どういたしまして」
「“ありがとう”って言ってないし」

そう言ってふっと笑った彼は、葉っぱに目を戻す。私は、なんとなくもう少し話をしていたいと思ったけれど、とりたてて話題が浮かばなかったので、教室へ戻ろうと、「それじゃ」と言いかけた。

「ねぇ」

葉っぱに目を落としてしゃがんだままの桐谷先輩の声に、私は方向転換した体を戻す。

「はい?」
「この種類の葉っぱと、こっちの種類の葉っぱ、どっちがいいと思う?」

きょとんとした私に、おいでおいでと手招きする桐谷先輩。葉っぱを見ろというので、私も彼の横に身をかがめる。

「水島さんなら、どっち選ぶ?」
「うーん……」

正直どちらでもいいんじゃないかな、と思うけれども、葉脈が太くて生命力が溢れているものよりも、もう片方の筋が細くてきれいな葉のほうがいいような気がして、人さし指をそちらに差す。
「こっち……ですかね」
「やっぱり」

ハ、という短い笑い声とともに、真横で彼の顔がくしゃっとなった。

「わかってんね、水島さん」

彼の色素の薄いねこっ毛を、日の光がきらめかせて、風が揺する。細められた目は、奥二重が強調されて、女の私の目から見てもきれいだと思った。あがった口角が頬へ伸びて、なんだか子どもみたいに嬉しそうな顔。
それよりなにより……。

「ち」

心臓の機能が急に誤作動し始めたんじゃないかと思うくらい、私の胸は早鐘を打つ。

「ち?」
「……近くないですか? 顔」
「あぁ」

無邪気だった笑顔が、途端に意地悪な笑顔に変わる。

「この体勢、うしろから見たらさ、まるで」
「あーーー! 遥がキスしてる!」

背後からの女の生徒の声に、私はまるで耳元でシンバルを打たれたかのようにビクッと肩を浮かせる。驚きすぎて、尻もちをついた。

「こんなとこでしてると、丸見えだよ」

振り返ると、いつぞやのショートボブの3年のきれいな先輩。

「してないよ」
「またまたー」

立ちあがって彼女の方を向く桐谷先輩。こちらに来た彼女は、彼の胸のところをトンと押して笑った。

「あ」

そこでようやく、尻もちをついたままで固まっている私に目を落とす。

「美術部の人だ」
「……はい」
「ダメだよー、遥にハマっちゃ」
クスクスと笑いながら、桐谷先輩の肩に手を乗せてそう言う彼女。私は見おろされているということも手伝って、ひどく侮辱されているような気がした。スカートについた草を払い、なにも言わずに立ちあがる。

「今日バイト休みなんだったら、一緒に遊ぼうよ」

まるで私のことはいないものとして、桐谷先輩にくっつきながら話している。

あー……。この人も、桐谷先輩のこと、好きなんだ。彼女になれないから、せめて自分が取り巻きの中では一番だと、まわりに知らしめようとしているんだ。

そう理解するも、胸のなかに立ちこめる霧のようなモヤモヤは、なかなか晴れてくれない。視線も、桐谷先輩の肩に置かれた彼女の手から離すことができない。

「今ね、この人と話してんの」
「は?」
「それに、今日はこのあと絵描くから。悪いけど他あたってよ」

桐谷先輩が、さらりと彼女にそう言った。

「そ、そんなの……」
「“そんなの”がしたいの。また今度ね、ミサキ」

目を見開いて驚く彼女の手を、ゆっくりと剥がす桐谷先輩。これ以上の誘いは無駄だと示した。



「よ、よかったんですか? 彼女、若干怒ってましたよ?」

立ち去り際に私にチラッと冷たい視線を送った彼女のうしろ姿を見送る。

「そう?」

飄々とした態度で、手に取った一枚の葉っぱをクルリと指で回す桐谷先輩。

「約束してたわけじゃないのに、なんで怒るんだろうね」
「そりゃあ……」

好きだからでしょ、と言いかけてやめた。“ワガママ”も“独占欲”も、彼が交際するのがわずらわしいと思っている要因どまん中だろうから。
話をそちらへ持っていきたくない。だって、私が目の前の彼に対して感じるものも同じで、昨日の“ダメ”発言も、根っこはそれだから。

「桐谷先輩にはわからないでしょうね」
「わからなくてもいいや、めんどくさそうだし」
「…………」

ゆるく笑って葉っぱに口を寄せるその仕草は、まるでキスみたいだ。この男、“知っている”のに“わからない”んだ。私の気持ちも、さっきの彼女の気持ちも見透かした上で、めんどくさいから、自分に経験がないから、だから理解する気も受け入れる気もない。踏みこまれると、ボーダーを引く。

放課後美術室

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