ちょうど私たちの横を通るとき、彼はこちらに気付いて立ち止まり、
「ちは」
と、短く声をかけてきた。

「おー」
「こんにちはっ! 遥先輩」
「こ……」

部長と舞川さんの声の速さと勢いに出遅れた私は、「……んにちは」と口パクみたいに消えそうな声で返す。自分の席に向かう桐谷先輩が、ふ、とほんの少しだけ微笑んだ気がした。

「遥先輩っ! 聞こうと思ってたんですけど」

彼が椅子に座ってバッグをおろすや否や、近付いていく舞川さん。私は自分のキャンバスの前に戻り、絵筆を握りながらも、耳はあきらかにそちらの声を拾おうとする。

「……なに?」
「あの、今人物画描いてるんですけど、遥先輩はどう……」
「ごめん、俺、人物画描かないから」
「え? あ、すみません。じゃあ、色についてなんですけど」
「あのさ、俺教えるのヘタだし面倒だから、部長に聞いてよ。あの人、人物画描くから」

うわ……。舞川さんは自分のファンだって知っていて、そんな冷たいあしらい方……。

「はい。わかりました! お邪魔しました」

少し同情したものの、舞川さんは、めげずに笑顔で頭をさげる。可愛い子はこういうとき、傷ついた顔をするとばかり思っていたから、少し驚いた。

自分の絵に目を戻し、キャンバスの中のビンに色を塗る作業に専念しようとする。でも、いつもほど没頭できない自分がいる。桐谷先輩がこの美術室という同じ空間にいるというそれだけで、なんだか気が休まらない。舞川さんが彼に送る視線も、気になって仕方ない。このビンも、ぜんぜんうまく色が塗れないし。