「あのー」
イヤホンからもれる、シャカシャカした軽い音。音楽を聴いているからだけじゃない。絵に没頭しているから、私の声も姿さえも彼はシャットアウトしている。
「あのー……」
ガリッ、とナイフがキャンバスにこすれる音。削り取られた黄緑色の絵の具が、ピッ、と彼の頬に飛んだけれど、彼はそんなの気にしていない。完璧なまでの無表情に際立つ、強い視線。この前と同じだ。彼は今、作品の中に自分までも入りこませている。
美術準備室から戻ってきたから、ひと言お礼を言おうかと思ったけれど、私は諦めて、自分の油絵の準備をした。
初夏の風が少し開けられた窓から入ってきて、暗幕をふわりと揺らす。クリーム色とオレンジ色を混ぜたような優しい光が、窓際の桐谷先輩を照らし、その影はそこから斜め前に4メートルほど離れた私の足もとにまで伸びている。
桐谷先輩が聞いている音楽まで拾えてしまう、静かな空間。いつもとは違うその美術室の表情に、私はまるで違う場所に来てしまったかのような錯覚さえ覚えた。