「ねぇ」
「…………」
「時間あるなら、ちょっと来てくれない?」
「…………」

その声は大きな声じゃなかったけれど、私の耳にしっかりと響いた。桐谷先輩が目配せした場所は、先輩から見て斜め前の椅子。

私は、全身の感覚を手放したくなるほどの胸の高鳴りに、軽い眩暈を感じた。一気に渇いた喉からは声を発することができずに、小さくうなずくだけした私は、言われるがままにその席まで歩き、息を静かに吐いて緊張を逃がしながら腰をおろす。

「…………」
「…………」

なにも言わないまま、桐谷先輩はパレットにいくつもの絵の具を出し、絵筆を持ったかと思うと、その色たちをキャンバスに塗り始めた。それからは、目を見張る手さばき。本当にスランプだったのかと疑ってしまうほど。

塗る、というよりも、置く、とか、たたく、とか、撫でる、って言ったほうが適確かもしれない。ひとつの言葉では言い表せないような手や筆の動きに、私は目を奪われる。いつかのように音楽は聞いていないけれど、まるでなにか体の中にリズムでもあるかのように、流れるようにためらいもなく色を操っていく。

油彩絵の具の匂い。時折きしんだ音を出す先輩の座る椅子。グラウンドから定期的に聞こえるかけ声と、ボールを打つ金属音。太陽がすこしずつ傾いて、窓から入る光もそれでできる影も移ろいでゆく。