靴に履き替え、校門へ行くまでに、どんどん進むペースがあがっていく。心臓が早鐘のように乱打されているのは、今、走っているからか、それとも、遅れてやってきた緊張とはずかしさか。

瞬きをするたびに、さっきの桐谷先輩の近すぎる顔の残像が映っては消える。あの雰囲気とあの近さは……。

「…………」

気のせいだ。気のせい。そうじゃなかったとしても、冗談だ。……冗談。

肩で息をしている私は、足を歩みに変え、ゆっくりと立ち止まった。
走ったから、あっという間にバス停に着くと、ちょうど一便はやいバスが向こうからやってくるのが見えた。

ポケットに手を入れると、さっき思わず入れたヒメシャラの葉に気付く。

ふう、と息を吐いた私は、その葉に落ち着かせてもらうように優しく握り、目の前で停まったバスに乗りこんだ。





『お父さんが急に戻ってくることになったから、駅に迎えにいってくる。ご飯は食べてて』

メールに気付いたのは、帰り着く間際だった。マナーモードのままだったから、バスの振動で気付かなかった。私は、だからバタバタしていて留守電だったのか、と思いながら、家の扉を開ける。

単身赴任のお父さんが戻ってくるのは、お正月ぶりだ。あまり多く喋らない人なので、帰ってきてもお母さんがひとりで喋っている印象。

「…………」

お母さんとちゃんと話すって決意した途端こうやってイレギュラーなことが起こるなんて、タイミングが悪いな。

私は鼻でため息をついて、キッチンに入り、鍋のふたを開けた。まだ少し温かそうなシチューが、ほのかに湯気をあげた。



「あら、食べてて、って言ったのに」

1時間もせずに帰ってきたお母さんは、そう言ってパタパタと3人分の食事の準備に取りかかった。お父さんは明日、知り合いのお葬式があるとのことで帰ってきたらしい。お母さんは、私が塾を休んだことには触れずに、そんな話をしながらお父さんの前に皿を並べていった。私は手伝いながら、返事と相槌だけを返した。

食事中は、お母さんがお父さんに仕事のことについて聞いたり、お姉ちゃんの様子について話したり、ほぼそんな感じで終わった。お父さんに一回だけ「沙希はどうだ? 学校のほうは」と聞かれたけれど、私は「うん、まぁまぁ」と曖昧な返事をしただけだった。



「なんで、今日も休んだの?」

お母さんに冷ややかな声でそう聞かれたのは、食事を終えて、お父さんが電話で席を外したときだった。

長方形のテーブル、いつもなら向かいあって座っているけれど、お父さんがいるから横に並んで座っているお母さんは、紅茶を飲む横顔のままで私の返答を待っている。

「ちゃんと話してくれるんでしょ?」
「……うん」

高圧的な語調に委縮してしまった私は、またいつものように顔を強張らせて、次の言葉がスムーズに出てこない。そして、その沈黙を縫うように、お母さんがすかさず、
「また絵のモデル? あの男の先輩の」
と言ってきた。
私はまたこのパターンだ、とこれからの一方的な説教の流れが容易に想像できて、いつものように諦めかけそうになる。

「……うん」
「あの子、どこかで見覚えあると思ったんだけど、桐谷医院の息子さんでしょ?」
「え?」

初耳の情報に、思わず顔をお母さんのほうへと向けた。お母さんは、ほんの少し私を見て、
「まだ小さいころにご両親が離婚して、父子家庭で育ったんですって」
と続けた。

同じ町内だから、そういう情報も耳に入るのだろう。そうだとしても、私はお母さんから聞く先輩の内情に、複雑な気持ちが胸に広がった。

「だから……なに? それが、なにか関係あるの?」
「べつになにも言ってないわよ。それで、話って? まさか、その先輩のもとで美術部を続けたいから、塾を辞めたいとでも言うの?」
「…………」

少し反論じみたことを言うと、逆にお母さんにたたみかけられ、すぐに二の句が継げなくなった。私は、図星を顔で表すように、お母さんをじっと見つめる。すると、お母さんも顔をしっかりこちらに向けて、
「ダメよ」
と言った。

「お母さんの言うとおりにしたら、あとで絶対後悔しないはずだから。あとから悔やむことほど、つらいことはないの」

「母さん。沙希に話をさせなさい」
隣同士で向きあっていた私とお母さんは、急にはさみこまれたお父さんの低い声にハッとして、そちらを見た。廊下からリビングに入る扉のところに電話を終えたお父さんが立っていて、ゆっくりこちらへ向かってきた。私とお母さんの向かいに座り、テーブルの上で指を組む。

「沙希は、どうしたいんだ?」
「あ……」
「今までどおりよ。今までどおり、ちゃんと」
「沙希の気持ちを聞いているんだから、黙っていなさい」

私とお母さんの会話をどのへんから聞いていたのかわからないけれど、お父さんは険しい表情でお母さんを見た。私は自分の気持ちを吐き出すこと以前に、急に胸がザワザワしだした。お父さんがこんなふうにお母さんに言うところを見たことがなかったからだ。

横にいるお母さんを見ると、ほんの少し唇がふるえているのがわかった。

……途端。

「私は私なりに沙希を大事に思ってるのよ。大人になってなにかを選ぶときの選択肢や可能性を広げるために、今一番優先すべきことをさせているだけ。この子の成長に余計なものは排除してあげて、将来のために」
「余計なものかどうか、それを判断するのは母さんじゃなくて沙希だろ。それに余計かどうかはあとになってみないとわからない」
「間違いや失敗をしてからじゃ遅いのよ、中学受験だって、だからっ」

ダンッ、とテーブルにお父さんの手が打ち付けられた。私は急に始まった両親の言い争いに、なにも口がはさめずに、ただ見ていることしかできない。話の中心は、私自身なのに。
「いい加減にしなさい。沙希は所有物じゃないだろ」
「なによ、あなたとの”ちゃんと育てる”っていう約束を実行してるだけじゃない。離れて暮らしているくせに、こんなときにだけ口をはさまないで。一番近くにいる私がこの子をちゃんと見てるのよ」
「”ちゃんと”ってなんだ? 自分の意のままにっていうことか?」

唇だけじゃなくて声までふるえだしたお母さんに、鋭い視線で言い返すお父さん。お母さんは急に立ちあがって、両手をテーブルにつき、
「これ以上この子に、挫折なんてつらい目に合わせたくないのっ。私がしっかりしないといけないのっ!」
と、大きな声をあげた。
最後らへんはもう、涙声だった。

「…………」

私はその勢いにもだけれど、お母さんの涙に目を見開いた。初めて、お母さんが泣いたところを見た。感動的な映画やドラマを見ても涙を見せないお母さんの頬に、今、ひと筋の涙が伝っている。

「私が、……私が……ちゃんと……」

どこか、自分を責めているかのような、逆に自分を奮い立たせているかのような、そんな印象を受ける。いつもの怖いお母さんじゃない。それどころか、なぜか小さく見える。

お父さんはお母さんを正面から見あげて、なにも言わなかった。驚いているというだけじゃなくて、なにかいろいろと考えているような、そんな顔だった。そこに怒りの色はもう消えていた。
気付けば、私の目に溜まっていた涙も、ポタリとテーブルにひと粒落ちていた。着替えてからもポケットに入れていた、桐谷先輩からもらった葉っぱ。それをぎゅっと握り締める。

「……お母さん……」

私の声に、お母さんはなにも言わないし、こちらを向かない。両手をついて立ちあがった格好のまま、お母さんの顎に溜まった涙も、ポタリと落ちた。

「私、両立、ちゃんとするから」
「…………」
「それに、学校のこととか、勉強のこととか、部活のこととか、思ってることとか……、ちゃんと話すから……だから……」
「…………」
「失敗しても、間違っても、……自分がしたいことをする時間が欲しい」
「…………」
「……お願いします……」

ずっと認めてほしいって思っていたけれど、認めてもらうなにかは……自分で決めたい。

それは絵じゃないかもしれないし、まだ出会ってないなにかかもしれないし、もしかしたら一周回って勉強なのかもしれない。

でも、それを探すために、まずは一度自分で自由に考えたり実践したりしてみたいんだ。

……それがたぶん、今私がお母さんに一番訴えたかったことなんだ。





「ほうほう、ほれで?」
「涼子、ポッキー5本同時に口に入れないでよ」

月曜日。昼休み時間に先週の金曜日の話をすると、涼子がシリアスな顔をしながらも5本のポッキーを咥えて動かす。話しているこっちの気が抜けてしまう。

「とりあえず、週の半分は塾で、もう半分は美術部に行ってもいいってことになった。ただし」
「ただし?」
「学校と塾のテストで成績がさがったら、即、親子会議を開いて、塾と部活の比率について話し合うこと、だって」

それを聞いた涼子は、ヘラッと笑って、モグモグとポッキーを一気に頬張る。

「すごい。沙希のお母さんにしては大譲歩じゃないの?」
「うん」

少し照れくさい感じで笑った私も、ポッキーを一本口に含み、前歯でポキンと小気味よく噛んだ。

私は、もっとたくさん話をすべきだった。最初から諦めずに自分からいろいろ聞くべきだった。ぶつかる勇気とか、傷つく覚悟とか、そういうのが足りていなかったんだと、今ならわかる気がする。

「それにしても、よく言えたね。なにかきっかけがあったの?」
「きっかけ……」
私の頭の中で、キャンバスに黒を吐き出したこと、桐谷先輩のこと、もらった葉っぱのことが頭に浮かんだ。たしかに、そのどれもがきっかけだったのかもしれない。でも、そのどれもが、これだっていう決め手だったとは思えなかった。

「…………」

たぶん……、お母さんがちゃんと私のことも想ってくれていたんだってわかったことが、私の背中を押してくれたような……そんな気がする。

お母さんみたいに言葉をたくさん並べたって、私みたいに黙ったままでだって、伝わっていないことがいっぱいある。私が気持ちを伝えることがヘタなのは、もしかしたらお母さんゆずりなのかもしれない。本当は、自分のまわりのたくさんの気付くべきことを、見過ごしているのかもしれない。

「涼子……この前、ごめんね」

私の突然の謝罪に一瞬きょとんとした涼子。うかがうような私の目を見て思い出したらしい涼子は、斜め上へ視線を移し、
「あー。もう忘れた、それ」
と、言ってヘタな口笛を吹いた。

「ぶ」

思わず笑ってしまうと、
「その代わり、残りちょうだい」
と言って、涼子は残りのポッキー3本をまた一気に口に入れる。
そしてニカッと笑った。