「そっか……」と言った舞川さんは、しばし押し黙る。私は、なりゆきとはいえ先輩に先に告白してしまったことに、小さな罪悪感を覚えた。
「…………」
でも、こんなになにもかも持っている子が、そういうのを気にするんだ。心配するようなことなんてないのに。だって、告白したところで、結局先輩は、私なんて眼中になくて……。
心のなかでつぶやきながら、胸が痛くなる。自分で自分の首を絞めて、なんかバカみたいだ。
「桐谷先輩とは、ちょっと距離を置いたほうがいいんじゃないかな」
舞川さんの太ももに置かれた手が、ワンピースの上でギュッとなった。私は、ちょっと驚いて、「えっ?」と聞き返す。
「えっと……なんていうか……」
言葉を探そうとしている舞川さん。察した私は無理に笑顔を作って、
「そ、そうだよね。迷惑だろうし、ホント……」
と返した。
そのとき。
「ただいま」
「わっ!」
ビックリして、私も舞川さんも、ほんの少しお尻が浮いた。戻ってきた諏訪くんが、両手で缶ジュースをかかえながらうしろに立っていたから。
「こ、是枝くんは?」
「電話かかってきて、あっちで話してる」
諏訪くんが木のテーブルにジュースを置きながら顎で示す方向を見ると、少し離れたところの木の陰で携帯を耳にあてている是枝くんが見えた。
「私もちょっとトイレ行きたくなっちゃったから、行ってきてもいいかな?」
急に立ちあがった舞川さん。
「え? あっ、いいよいいよ。行ってらっしゃい」
私はなんだかアタフタしながらうなずき、舞川さんをトイレへと送り出して手を振った。彼女のうしろ姿を見送った私は、なんだかとても微妙な気持ちで顔を戻す。
「……女って、こわ」
「聞いてたの?」
「聞こえてきた」
私の横に座って、ベンチに背を預ける諏訪くん。
「……舞川さんいい子だよ」
「いい子ほど腹の中になにか隠してるだろ」
諏訪くんはそう言ってコーラの缶を開け、炭酸なのにゴクゴク飲み始めた。「好きなの飲めば?」と言われたので、私はカルピスウォーターをもらって、ひと口飲む。
この人、裏表なさそうだな、と思った。加えて、意外と話しやすそうな雰囲気に、この人になら相談できるかも、と勝手に親近感を持ちだす。
「一個、質問していい?」
缶を両手で握って膝に置き、諏訪くんの方を向いた。
「なに?」
「フった相手が、一緒の部活だったりバスだったりって、どう思う?」
少し難しそうな表情になった諏訪くんは、「うーん」と言ったあと、
「どうって……、そりゃ、気まずいし嫌だよ。本人そのつもりじゃなくても」
と答える。
「わりと話す相手だったら?」
もっと気難しい顔になる諏訪くん。腕を組んで、彼なりに真剣に考えてくれている。
「仲がもともとよかったんだったら、うーん、そうだな……。自分のことふっきってくれるっていうか、他に彼氏とか作ってくれれば気を遣わずにすむし、今までの関係保てるかもしれないけど」
そっかー……、と空を見あげる。
「なに? 水島さんて、フラれてるのに、まだ仲よくしときたいの?」
「あっ、友……」
「友達の話だとか嘘つくの、だりーよね、マジで」
「……私の話です。はい」
コーラをグビリと飲む音が横から聞こえる。
「さっき話してた、なんとか先輩?」
「……うん」
「部活とバスで会うの?」
「うん」
なんとなく黙秘権を奪われている気がして、私は素直に答えてしまう。諏訪くんはもうひと口喉に流しこんで、ゾウの方を向いたまま、
「あの舞川ってやつの言葉は、あながち間違ってないかもな」
と言った。
「1ヶ月くらい休んでみたら? 部活」
「え?」
「距離を置くってやつ。案外、会わなければ薄れていくかもよ、気持ち。それでも変わらなければ、またそこで考えればいいし」
「そ……そうかな」
そうかもしれない、と思うと同時に、この気持ちが薄れていくことに、かすかなさみしさみたいなものを感じる。矛盾している。消したい気持ちなのに、なくなってしまうのがさみしいなんて。
「なんか……相談に乗ってくれそうなタイプじゃないのに……ありがとう」
「おい、ひと言余計だろ」
あからさまに嫌な顔をした諏訪くんに、私はアハハ、と思わず笑ってしまった。初めて喋る男の子の前で笑うなんて、私にとっては初めてのことだった。
「沙希、ちょっといい?」
動物園から帰ると、玄関を開けるや否や、お母さんにそう言われた。
あ、ヤバい……。
お母さんの表情と語気に、瞬時に非常事態を察知する。私は、重い心持ちで、お母さんのうしろをついて行き、リビングのテーブルの椅子に座った。
「今日ね、渡辺さんのお母さんとそこで会って」
3軒隣の渡辺さんち。その娘は私と高校は違うけれども、塾が同じだ。
「娘さんと話したときに話題が出たらしくてね、沙希が最近塾を休みがちだって言ってたらしいの。火曜日に休むことが多いって」
「…………」
「帰宅時間は塾の日と同じだったわよね?」
「…………」
正面に座って問いかけてくるお母さんの目を、ちゃんと見れずにうつむく。
「どういうことなの? 正直に言いなさい」
鼻から息を吐いて、苛立ちをにじませるお母さん。リビングがまるで、取調室みたいだ。
「……部活に」
私は、美術部のことを話すことにした。桐谷先輩のことは言うつもりはないけれど。
「美術部に仮入部してて、バスの前の30分間だけ行ってるの。たまに絵に没頭して、バスの時間逃しちゃったりして……。だから……」
「火曜日だけ?」
「……たまたま」
火曜日は、桐谷先輩が必ず来る日だ。そんなことは……言えない。
「バスに乗り遅れて塾を休まなきゃいけなくなるくらいなら、やめなさい」
「…………」
私は、本当に予想どおりのことを言ってくるお母さんに、心のなかで大きくため息をつく。
「放課後をそういうことに使っている人たちと差をつけさせるために、塾に行かせてるのよ? 3年間で合計したら、かなりの……」
始まった。ここからが長い。延々と続く。私はやっぱり、今までの自分を変えることができずに、お母さんの言うことにひたすら「はい」を返した。
どうせ、諏訪くんの言葉に影響されて、しばらく部活を休もうかなって思っていた。すんなり辞めるために仮入部のままだったんだし、いい機会なのかもしれない。
私はそう、自分に言い聞かせた。
「梅雨入りですって」
廊下の窓のところの棚に頬杖をついて、朝から降り続ける小雨を見ながら涼子が話しかける。
「へー」
私はその横で、今日の塾で小テストがある英単語の暗記。
「頑張るねぇ」
「涼子も一緒に通う? 塾」
「ご冗談」
湿気で、体も心もジトジトする。美術部に顔を出さなくなって、2週間が経っていた。
「あ! 水島。ちょうどいいとこいた! そっちのクラス今日数学あった? 教科書貸して」
「あー、はいはい」
通りがかった諏訪くんに、教室から教科書を取ってきて渡すと、
「サンキュ」
と言われ、お礼にフリスクをケースごともらった。
「ひと粒しか入ってないんだけど」
「おう」
おう、って……。捨てといて、って意味が含まれているように、ニカッと笑った諏訪くん。私は、仕方なくそのひと粒を口に入れて、空になったケースをポケットに入れた。
「水島さん、怒っていいとこでしょ、そこ」
諏訪くんと一緒だった是枝くんが、クスクスと笑う。
「沙希はね、感情表現が乏しいんだよ」
涼子が横からそう言うと、
「そうか?」
と、諏訪くんが意外な顔をした。
この2週間で変わったことといえば、このふたりとわりと仲よくなったことだ。休み時間、廊下ですれちがったりすると、たあいのない立ち話をすることが増えた。
「沙希さー」
「んー?」
諏訪くんと是枝くんがいなくなり、また英単語覚えを再開した私は、涼子にテキトーに返す。
「諏訪くんといい感じ」
「なにそれ」
ふ、と鼻で笑う。
「なんか、合ってる。沙希には、ああいう気さくで話しやすくて女にうとそうで単純そうな同級生のほうが、いいと思う」
「それ、諏訪くんに言ったら殴られるよ」
涼子が比べているのが誰なのかはあきらかだったけど、私は口に出さなかった。
友情から始まる恋がどうのこうの、と続けて熱弁している涼子の横で、私はまた英単語帳に視線を戻した。
「水島は、小テストの結果とか見てても安定しないな」
「はい……すみません」
「すみません、て。先生のために頑張ってるわけじゃないだろ? 自分のためだろ?」
「……はい」
「やる気はあるの?」
「……はい」
「今週末は2回目の模試だから、気を抜くなよ」
「……はい」
塾での個人面談を終えた私は、重い足取りで自習室に戻る。
授業が1コマ削られて面談時間にあてられたから、チャイムがなるまで塾の課題をすることにした。
雨が激しくて中にまでその音が聞こえてくるのに、私が椅子に座る音が室内に静かに響く。面談以外の生徒は、みんな黙々と勉強しているからだ。
宿題の途中、どうしてもわからない英単語が出てきて辞書で探していると、“paint”という単語が目に入った。自ずと、私の頭のなかに美術室が出現した。
「…………」
ため息をついて眉間を押さえ、そっと目を閉じる。雨の音に包まれているからなのか、私の頭のなかのキャンバスにも、たくさんの筋が縦に走った。薄暗い背景に、水色、灰色、青、黒……。
自分がイメージした色に飲みこまれてしまうような錯覚に、パッと目を開ける。けれども、目を開けて見る光景も、たいして変わらないような気がした。
雨は、降り続いていた。