「ああっ!! タクちゃん、こんなところにいた!!」
「わ……っ、サ、サカキさん!?」
「多分、トキさんのところじゃないかなと思ったのよ! もう本当に探したんだから!!」
「……お母さん?」
ぽつり、と。私が零した言葉に目を見開いたのは雨先輩で、タクちゃんは呆気にとられた表情で、ナース服に身を包んだ私のお母さんを見つめていた。
久しぶりに見る、看護師としてのお母さん。
そんなお母さんは私には目もくれず、興奮しきった様子でタクちゃんの手を強く掴んだ。
「見つかったの! ドナーが!!」
「え……」
「タクちゃんのドナーが見つかったのよ!! それで今、タクちゃんがどこにいるのかって、タクちゃんのご両親と私とで探し回っていて……」
その言葉を最後まで聞くより先に、零れ落ちた涙の雫。
そっと、隣を見てみれば、タクちゃんの目からも大粒の涙が零れ落ちていた。
「……雨先輩」
「……うん?」
……雨先輩。
雨先輩は未来が見えても良いことなんて、ひとつもないと、そう言っていたけれど。
「……良いこと、ひとつ、ありましたね」
そう言って泣きながら笑えば、雨先輩も「そうだな」と、嬉しそうに笑った。
小さな窓から見える空。
そこから差し込む僅かな光は、相変わらず私達の足元を照らしていた。
土曜日の雨花
──────────*
「もう、驚いちゃった。まさか、ミウがいるなんて思わなかったから」
タクちゃんと別れたあと、トキさんの病室に戻ってきた私は今更になって、ここがお母さんの働く病棟であることに気が付いた。
トキさんの状態を診ながら、お母さんが柔らかに笑って私と雨先輩を見る。
なんとなく、居た堪れなくなった私は視線を下に落としたまま小さくなってしまった。
だってまさか、こんな風にお母さんと遭遇するとは思わなかったから。
そりゃあ、今私がいる場所はお母さんの職場で、お母さんと会うことだって有り得るに決まっているけど、あまりに突然すぎて心の準備ができていなかったんだ。
……雨先輩とのことも、私がここにいる理由も、どう説明したらいいのかわからない。
「ミウちゃんは、うちの孫のお友達なんですって。今日は、孫が私の話し相手にって連れてきてくれたのよ」
「え……」
だけど、そんな私の心情を察したように助け舟を出してくれたのはトキさんだった。
トキさんの言葉に、お母さんが腕時計を確認していた顔を上げて目を丸くする。
「あら、そうなの? ミウ、そんなこと全然教えてくれないから」
「最近仲良くなったみたいでね、ミウちゃんもお母さんに話しそびれちゃったんじゃないかしら」
「確かに、ここのところ中々ゆっくり話す時間が取れなかったので……。だけど、そうだとしてもミウったら、来るなら来るで、朝、一言言ってくれたら良かったのに」
「きっと、お母さんの仕事の邪魔をしたくなかったのよ。でもまさか、ソウちゃんが連れてきた子がサカキさんの娘さんだなんて、こんな素敵な偶然、なかなか無いわよねぇ」
そう言うと、トキさんは私を見て柔らかに微笑んだ。
なんとなく気恥ずかしくなって、口を噤んだ私は逃げるように視線を隣へと移す。
すると私と同様、行き場を無くしたように口を噤んで立ち竦んでいる雨先輩に辿り着き、思わずそのまま視線を止めてしまった。
お母さんにエレベーター前で声を掛けられてから、この病室に戻ってきて今の今まで、雨先輩は一度も口を開いていない。
それどころか、ぼんやりとしたまま、心ここに非ずといった様子だ。
「ねぇ、ミウ。もしもまだトキさんのところにいるようなら、このあと、お昼ご飯一緒に食べない? お母さん、あと10分でお昼休憩だから」
「え……いいの?」
「うん。久しぶりに、一階の食堂で一緒にお昼食べよ。……ソウくんも、もし良かったら一緒に」
その問い掛けに、ようやくハッとしたように目を瞬かせた雨先輩が、驚いたようにお母さんを見た。
「せっかくなら、普段のミウの学校での様子とか、色々お話し聞かせてくれると嬉しいな」
突然の誘いに困惑したように眉根を寄せた雨先輩。
ほんの少し開いた窓から滑り込んできた風が、雨先輩の髪を優しく揺らすとムスクの香りが宙を舞った。
「でも……、」
「せっかくなら、ご一緒してきたら? 私との話は、そのあとにゆっくりしましょう」
トキさんのその言葉に、一瞬、何かを言いたそうに唇を動かした雨先輩が口を噤む。
そのまま結局、雨先輩は有無を言わさぬトキさんの様子に、観念したように視線を下に落としてから「……はい」と小さく頷いた。
そんな二人のやり取りを視線だけで追ったあと、私は久しぶりに見るお母さんの看護師姿を食い入るように見つめて、ほんの少しだけ胸を躍らせた。
* * *
「ミウは、本当にオムライスが好きねぇ」
一般的なファミレスほどの広さの食堂は、決してオシャレとは言えないけれど、いかにも病院内の食堂らしい、清潔感と簡素感を漂わせていた。
小さい頃、おじいちゃんのお見舞いのために病院を訪れた時に、何度か食堂を利用したことがある。
あの頃は子供心にメニューに物足りなさを感じた記憶があるけれど、今思えば病院内の食堂にファミレス並みのメニューの充実を求めるほうがどうかしていた。
それでもその中で、私は毎回決まってオムライスを頼んで食べていて、一緒に来ていたおばあちゃんを呆れさせたんだ。
「だって、オムライスって美味しいんだもん」
「はいはい、ホント、昔から変わらないんだから」
ぐるりと席を見渡せば、お見舞いに来たらしい人たち、お母さんと同じようにお昼休憩中の看護師さんやお医者さんたち、従業員さんたちが、それぞれに食事をとっていた。
食券を買い、トレーに乗った料理を受け取ると、私たちは偶然空いていた窓際にある四人掛けの席へと腰を下ろす。
真横にある大きな窓からは敷地内の庭が見えて、黄金色に輝く銀杏の葉がキラキラと陽の光を浴びながら揺れていた。
「─── それで、二人は付き合ってるの?」
「……っ、け、ケホッ、ゴホッ!」
正面にお母さんが座り、私の隣に雨先輩が座るという図式で、今まさに「いただきます」と、手を合わせようとしたところ。
そこへ唐突にそんなことを尋ねられ、私は水の入ったグラスを手に、盛大に咽てしまった。
「やだ、ミウったら汚いわね」
「お、お母さんが急に変なこと言うから!!」
慌ててお手拭きの袋を開けて口元を押さえれば、お母さんは慣れた手つきで紙ナプキンを取り水の零れたテーブルを拭いていく。
「だって、トキさんが二人は最近仲良くなったらしいって言うんだもの」
「な、なんでそれだけで、付き合ってるってことになるの!?」
「えぇー、高校生の男女が仲良く相手の家族のお見舞いに来てたら、そうなのかなって思うじゃない。だって、自分にとって特別じゃない子を大切な家族に、わざわざ会わせようなんて思わないわよ。ねぇ、ソウくん?」
その問いに、ギクリと肩を揺らして隣を見た。
そうすれば私と同じくオムライスを頼んだ雨先輩が、スプーンを持ったまま顔を赤くしながら固まっていて、私は今度こそ逃げ場を失った。
何、なんで、そこで顔を赤くするの。
ちょっとくらい、否定してくれたっていいのに!
心の中でそう思いつつも、雨先輩が何も言わずに固まっているから、私まで顔が熱を持つのを止められない。
「別にね、お母さんに隠さなくていいのよ? お母さん、全然、反対とかしないもの」
「だ、だから……!」
けれど、彼氏じゃないんだってば!とは、この状況で叫ぶことができなかった。
だって、もしそう反論したとして、今のこの状況をなんと説明したらいいのか、わからない。
彼氏じゃないなら、お母さんの言うとおり、どうして休日の今日、わざわざお見舞いに来たのか。
最近仲良くなったばかりの友達なのに、その友達の家族のお見舞いに来るなんて、中々ない話だし……
逆を言えば、付き合ってるから今日は雨先輩のおばあちゃんのお見舞いに来たということにした方が、今はスムーズにこの状況を切り抜けられるに違いないのだ。
だけど、そうは言っても……この、針の筵のような状況に、心臓がうるさいくらいに高鳴って落ち着かない。
「それにね、お母さん、トキさんからよくソウくんの話を聞いていたから、ミウの彼氏がソウくんだったら嬉しいなぁって」
「え……」
「トキさん、私に " 孫のソウは、入院中の私の為に毎日学校帰りにお見舞いにも来てくれるような優しい良い子で、目に入れても痛くない自慢の孫なんだ " ……って、よく話してるのよ」
ふわり、と。風が吹いて窓の向こうの黄金色を大きく揺らした。
お母さんの言葉に、隣の雨先輩が小さく息を呑んだのがわかった。
いつの間にかスプーンから離された手は膝の上で握られていて、音もなく震えている。
「だからね、お母さん、今すごく嬉しい。ミウの彼が優しい人で。ミウが選んだ相手が優しい人で……お母さん、とっても嬉しいの」
そう言って柔らかに微笑むお母さんの目には、嘘は少しも混じっていなかった。
そんなお母さんから、そっと目を逸らして俯くと、何かを堪えるように唇を結んだ雨先輩。
相変わらずテーブルの下に隠れている手は震えていて、たったそれだけで今の雨先輩の気持ちが伝わり、胸の奥が苦しくなった。
雨先輩にとって、トキさんはたった一人の家族で、行き場をなくしていた自分を受け入れてくれた人。
温かく優しいトキさんがいたから、雨先輩は今ここに存在しているんだ。
だけど、そんなトキさんは今、身体を悪くして入院している。
先ほどの、タクちゃんとトキさんの言い合いや、雨先輩からの話を聞いた限りでは、トキさんの身体は随分悪い状態なのかもしれない。
「え、と……急に、ごめんね。ペラペラと一人で喋って、野暮な詮索ばかりしちゃって……。突然、こんなこと聞かれたら嫌になるよね?」
黙り込んでしまった雨先輩を前に、お母さんは雨先輩が気を悪くしたと思ったのだろう。
申し訳なさそうに眉を下げると、苦笑いを零してから「ご飯食べよう」と、改めてスプーンを手に持った。
その様子を視界に捉えながら、私は一度だけ強く拳を握ると小さく息を吐き、顔を上げる。
「……すごく、優しい人だよ」
「え……?」
「雨先輩。お母さんの言うとおり、すごく優しい人で、私のことをいつも真剣に考えてくれる」
気が付いたら、私は真っ直ぐに前を向いて、迷うことなくそう言い放っていた。
突然の言葉に、隣の雨先輩が弾かれたように顔を上げ、驚いたように私を見る。
「……私が困ってた時にね。声を掛けてくれて、力になってくれたの」
そんな雨先輩に気づかぬふりをして、私は相変わらず前を向いたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「今も、私のために色々してくれてる。私のこと、一人で悩ませないように、傍にいてくれるの」
「美雨……」
「雨先輩は、すごく優しい人。優しくて、すごく頼りになる人だよ」
言いながら、お母さんを見て微笑めば、お母さんもまたそんな私を見て「そう……」と、嬉しそうに微笑み返してくれた。
それと同時に、幼い日の淡い記憶が蘇る。
そういえば、昔も……私はここで、お母さんにそんな話をした。
あの時は、そう。おじいちゃんが入院して、お見舞いのために幼い私の手を引いて病院に連れてきてくれた、おばあちゃんと。
この病院で働くお母さんを前に、話をした。
今のように私の正面にはナース服を着たお母さんが座っていて、隣には、おばあちゃん。
私は今のようにオムライスを前に、看護師として働くお母さんを見ながら言ったんだ。
─── 私、将来はお母さんと同じ、看護師さんになる!