さみしがりやのホリデイ


そのとき、視界の端にふと白いものが映った。右側にある棚からひらひらと落ちてきたそれに、気付けば呼ばれるように歩み寄っていた。少しかがんで拾い上げる。


言葉を失った。さっき浴衣を目の当たりにしたときとは違う種類の衝撃のせい。


白いものの正体は写真だった。いまよりほんの少しだけ若く見えるおじさんと、ゴールデンレトリーバーが2匹、それからかわいらしい女性が仲良さげに写っている。

たぶん、わんちゃんはよもぎと、お母さんのさくらだと思う。さくらは7年前に亡くなったと言っていたから、少なくともそれより前の写真かな。ということはおじさん、20代前半とか?

それならきっと恋人くらいいても当たり前だ。


でも、どうしてこんなところ――アトリエに、置いてあるんだろう?

どうして一枚だけ置いてあるんだろう?


よく見れば写真はけっこう色褪せてしまっているし、かなりよれよれだ。

きっと何度も見ていたんだ。アルバムに入れないで持ち歩いたりしていたのかもしれない。

とても特別な写真なんだ、おじさんにとってこの女性は、特別に大切な存在なんだ……。


胃のあたりがきりきりした。

どういう関係だったんだろう。いま、この女性とはどういう関係なんだろう。連絡をとったり、会ったりしているのかな。


そういえば、おじさんに恋人がいるのかどうかなんて、いままで考えたこともなかった。



「――祈、ほんとにそろそろ帰るぞ」


はっとした。写真をポケットに突っ込んだのは条件反射だった。

振り返ると、おじさんがドアから半分だけ体を覗かせている状態でこっちを見ていた。


「なんだよ、浴衣、ほんとに持って帰りてえのか?」


おじさん、写真の女性にも、美しい浴衣を染めてあげたことがある?
いっしょにしゃぶしゃぶを食べたことがある?

乱暴に頭を撫でたことは?

泣いている彼女を優しく抱き寄せたことは?


このひとはいったい誰? おじさんにとってどんな存在なの?


「……ううん。浴衣は、置いてく」


浮かんだ疑問はなにひとつ言葉にならなかった。小さく首を横に振るしかできなかった。


どうして聞けないんだろう。写真拾ったんだけどって、ふつうに言ったらいいのに。

どうして、答えを聞くのが、こんなにもこわいんだろう。


「ねえ、浴衣着るの楽しみだよ。早く夏がきたらいいのになっ」


ポケットのなかに写真をしのばせたまま、なんでもない顔でおじさんのもとへ向かっているとき、嘘をついているようなうしろめたさみたいなものがどうしてもあった。


「俺は暑いのはカンベン」


おじさんが顔をしかめる。


「べつに、あたしだって暑いのは好きじゃないよ」

「ああ、おまえはなんかそんな感じするな」


今年が特別なだけだよ。それは、おじさんがくれた浴衣のせいなんだよ。

この男は、それくらい、あたしの心を揺さぶるチカラを持ってる。だって、同じことの繰り返し、あんなにつまんなくてしょうがなかった毎日が、こんなに鮮やかに色づき始めているんだ。

おじさんの手によって。言葉によって。

その、すべてで。


「誕生日おめでとう、祈。17歳だな」


興味なさそうな顔であたしの世界に踏みこんでくるこの男に、あたしの世界は少しずつ、それでも確実に、変えられていっているんだと思う。







  ◇◆ FRIDAY






あの写真は結局あたしが持ったままでいる。でもなんだか見たくなくて、あの夜、帰ってきてすぐに部屋の机の引き出しにしまいこんだまま、一度だって見ていない。それでも返す気にはどうしてもなれない。

盗んだ(というと語弊があるけど)ことがバレるのがこわいんじゃない。

おじさんに、おじさんの大切なひととの思い出を返すのが、無性に嫌なんだ。どうしてそう思うのかがわからないのがよけいに気持ち悪い。


おじさんは写真がなくなったことに気付いているだろうか。

もしかしたらいまごろ必死に探しているかもしれない。なくなったと思って、すごく悲しんでいるかもしれない。

人としてとてもサイテーなことをしているのはわかってる。


でも、返したくない。
どうしたって返したくない。


あたしはサイテーなやつだな。いったいなにしてるんだろう。


◇◆


朝からどしゃ降りだった。世界が白く沈んでいるように見えるほど激しい雨だった。

窓を閉めきっていてもすぐそこで鳴っているみたいな雨音を聞いているだけで、なんだか気分がずんと落ちていくようだよ。

よもぎも元気がなさそうだ。ここのところ毎日雨が続いているせいで、大好きな散歩になかなか行けてないからだね。

あたしも梅雨はほんとに嫌だ。髪は広がるし、洗濯物は乾かないし、肌にまとわりつくような湿気はぬるいし、頭が痛くなるし。いいことなんかひとつもない。


そういえば、少し前までは、こんなどしゃ降りでも、大雪の日だって、学校に行っていたんだっけね。

みんなはきょうもふつうに授業なのかって考えると、なんだか信じられない気持ちになった。学校なんてもうずっと遠い存在のように思える。それくらい、もう“こっち側”がなじんでる。


よもぎの背中を優しく撫でた。


「早く帰ってきてほしいね」


おじさんはあたしが起きてくる前に仕事に行ったらしい。昼過ぎころには帰ってくるかな。お腹すかせて帰ってくるだろうし、お昼ごはんの準備、そろそろしないとな。


スマホが鳴ったのはちょうどそのときだった。

サユからのLINEの通知以外はほとんど無い、さみしい連絡ツールなので、この無機質な音がなんなのか最初の10秒くらいわからなかったよ。よもぎも驚いたようにきょろきょろしていた。


知らない番号だった。出ようか迷ったけど、画面を見つめているうちになにかを訴えかけられているような気持ちになって、思わずミドリの通話ボタンをタップしていた。


「もしもし?」


薄っぺらい機械を耳に押し当てる。


「――もしもし。中澤ゆりさんの、ご家族の方ですか?」

「はい……娘です、けど」


誰?


「ああよかった。いますぐに来ていただきたいのですが」



それに続いた言葉を聞いて、倒れそうになった。



電話が切れると急いで画面をタップした。普段は必要ないと思っているけど、いまばっかりは本当にスマホがあってよかったって思う。

早くおじさんに連絡しないと。

おじさん。
早く帰ってきて、おじさん。


「もしもし、祈?」


4コール目が途中で途切れたあと、機械を通した低い声がすぐ耳元で聴こえて、ほんの少しだけほっとした。


「あ……和志さん、早く、いますぐ、帰ってきて、お願い」

「なんだよ、どうした?」

「おかーさんが」


頭が混乱しているせいか、舌がうまくまわってくれない。一度ツバを飲みこんだ。自分でも驚くほどに大きな音が鳴った。


「倒れて、病院に運ばれたって、連絡が」


声が震えてしまう。

実際に口にしたとたん、さっきよりもずっと深い恐怖がこみ上がってくるような感じがした。立っているのもけっこうつらいんだ。倒れるようにソファに座りこむと、よもぎが体をすり寄せてきた。


「待ってろ、すぐ帰る」


おじさんは薄い機械の向こう側で静かに言った。いつもと同じ声としゃべり方がとても心強かった。


「祈。大丈夫だからな」


ぎゅっと、汗ばんだ手でスマホを握りしめて、ウンとだけ答える。おじさんの低い声を聴いて安心したのか、電話が切れるといっきに視界がゆがんだ。


おかーさん、大変な病気とかじゃないよね。突然いなくなったりしないよね。

恐怖でいまにも体が押しつぶされてしまいそう。

誰かと大きなお別れをしたことなんか一度もないから、大切な存在を失うのがこんなにこわいことだなんて、知らなかった。


よもぎを抱きしめる。

よもぎはもうすでにお母さんを亡くしているんだったね。こんなふうにこわかったかな。悲しかったかな。

おじさんはどうなんだろう。大丈夫だと、いつもと同じ声で言った彼も、32年間のなかで誰か大切なひとを失った経験があるのかもしれない。



マンションの外で待っていることにした。いてもたってもいられなかった。おじさんはLINEはしない男なのでいちおうメールだけした。

やがて姿を見せた水色の車は、駐車場じゃなく、エントランスの前で停まった。

白くしぶきを上げる雨のなかに飛び出し、車に駆け寄る。一瞬のあいだに信じられないほどずぶ濡れになった。


「傘は?」


運転席から手を伸ばし、内側から助手席のドアを開けてくれながら、おじさんが訊ねる。


「ない」


答えて、車に乗りこんだ。


「大雨警報出てんのに、バカだな」


だってそんな余裕なかったんだもん。むすっとした顔になってしまう。でも怒っているのとは違う。おじさんもそれはわかってくれているみたいだった。

口をつぐんでいると、大きな手があたしの頭を撫でた。乱暴じゃない、優しい手つきだった。


「どこ向かえばいい」


アクセルを踏みこんだおじさんが落ち着いた声で言った。左手はあたしの頭の上に乗せたまま、彼は右手だけでハンドルをきる。


「市内の、大学病院に……」

「わかった。ちゃんとシートベルト締めとけよ」


大粒の雨がフロントガラスにぶつかっては弾けていく。ワイパーは最速で動いていた。おじさんはいつも比較的セーフティードライバーだけど、きょうはもっと安全運転な気がするよ。

会話はない。音楽も、ラジオも流さない。

50センチ右にあるおじさんのわき腹のところを掴んでいた。よれよれのシャツがもっと伸びてしまわないか心配だったけど、おじさんはなにも言わないでそうさせてくれていた。



病院の駐車場から屋内に入るまで、なぜか相合い傘。あたしが傘を忘れたせい。

黒くて大きなおじさんの傘は、ふたりぶんの体くらいすっかり包んでくれていると思っていたけど、おじさんの右肩はびしょびしょに濡れていた。グレーの麻っぽいシャツが右半分だけ真っ黒になってしまっている。

あたしはどこも濡れてなかった。おじさんが傘をこっちに傾けてくれてたんだ。

おじさんは、そういう男だ。


「どこにいるかわかってんのか?」

「うん。508号室だって電話で言ってた」

「そうか……。病室に案内されてるってことは、とりあえずは大丈夫なのかもしれねえな」


おじさんが言う。安心させようとしてくれてるんだと思う。

隣にある腕を掴みたかった。でも直接その肌に触れるのはなんだか気が引けて、やっぱりあたしはわき腹の布を掴むだけ。


どうしてこうも静かなんだろう。

音といえば、機械が動いているのとか、重たいものを運んでいるのとか、子どもが泣いているのとか、そんなのばっかり。

居心地のいい静けさとは真逆な、ずんと重たい沈黙が、建物のなかをぐるぐるまわっているみたい。


どこを歩いていても薬品のにおいが鼻をつく。イヤなにおい。おじさんのアトリエとはぜんぜん違う、つんとくるキツさだ。

点滴をしながら鼻から管を通している少年や、車椅子のおばあちゃんとすれ違うたび、なんとなく目を背けたくなった。


体中にまとわりつくのはどれも負の空気だよ。五感に飛びこんでくるのはこわいものばかり。こんなところ、ひとりではとても無理だった。


ダメだ、きつい。頭ぐらぐらする。足元もふわふわしてきた。


「祈? 大丈夫か、顔色わりいぞ」


いまにも手放しかけていた意識を、おじさんの低い声がすんでのところでつかまえてくれる。


「うん……ごめん。こんな大きい病院来るの、はじめてで」


本当はそれだけじゃないんだけど、言わなくてもいい気がしたから口にはしなかった。

それに、このどうしようもない不安と恐怖を言ってしまったとたん、感情がぼこぼこと流れ出てきそうでこわかったんだ。

おじさんが足を止め、ゆったりとした動きであたしに向き直った。

右手は背中を優しくさすってくれている。左手は肩に添えて体を支えてくれている。優しくてあたたかい手のひら。ごつごつした、大きな手のひら。あたしのとはぜんぜん違う手のひら。

すごく安心する。どうしてだろう? 乱れていた呼吸がリズムを取り戻していくのがわかる。


「和志さん」


おじさんは無言のまま眉をぴくりと上げて、うかがうようにあたしの顔を見た。


「ありがとう、もう大丈夫」

「ああ……また、しんどくなったら言えよ」


あたしの髪をさらりと撫でたおじさんが、導いてくれるみたいに歩きだした。


おじさんの右肩が乾いてきている。黒の面積が減って、かわりにもとのグレーが増えていた。

あたしの心も同じだ。ぐしょ濡れだった真っ黒な恐怖が、いままさにグレーに薄れていってるよ。おじさんのおかげ。


すうっと息を吸って、大きく吐いた。


どうしてこのひとの傍にいるとこんなにも安心するんだろう。とてもぶっきらぼうな、デコボコした男なのに。

……ああ、あたしも同じようにデコボコしているから、そう感じるのかな?

あたしのデコボコに、おじさんのそれが、ぴったり当てはまるのかもしれない。たしかに、どっちかがまるかったら、いまこんなふうにいっしょに暮らせてないのかも。デコボコの種類が違っていてもきっとダメだった。

いびつだからこそ。

そういうものどうし、いっしょにいられるのかな。


ななめ前を歩いている大きな背中を眺める。やっぱり背が高いな。でも姿勢が悪い。少し肩を落とし、猫背で歩くうしろ姿に、心臓をぎゅっとつかまれた気持ちになった。


おじさんは、デコボコしていても、とても優しい男だよ。



「――ああ、ここか」


でかい病院は迷路みてえだな。と、ひとり言みたいに付け足したおじさんが、大きなドアの前で足を止めた。