グラスとマニキュアをテーブルの上に並べて眺めるあたしを、いつの間にか椅子に座っていたおじさんが、じっと見つめていた。右手で頬杖をついて、やっぱりなんでもない表情。いつもの顔。
「和志さんは、ないの? プレゼント」
わざとそういう言い方をしてしまったのは、精いっぱいの照れ隠しだった。目が合って、どきっとしてしまったのを、なんとなく知られたくなくて。
「ある」
「え?」
予想外の答え。また真顔で冗談を言われているのかな。
「でももうじゅうぶん満足そうだし、いいだろ」
なにが『いい』のさ?
いいわけない。ぜんぜんよくない。
「ゼンッゼン満足してない!」
立ち上がって言うと、おじさんはちょっと笑った。
「図々しいやつだな」
「いいのっ」
おじさんもおもむろに立ち上がった。そして、キッチンカウンターの端っこに置いてある車のキーを手に取った。
「じゃあ行くか」
どこに行くか、聞かないでもなんとなくわかったよ。
「アトリエ?」
おじさんはなにも答えなかったけど、たぶん正解だ。
きょうもアトリエには独特のにおいが漂っていた。やっぱりこのにおい、好きだなあ。
すぐに見つけた。作業台の上にある、あきらかにアヤシイ紙袋。おじさんには似合わない雑貨屋さんの名前が書いてあるんだもん、よく目立ってる。
その一点に釘付けになっているあたしに気付いて、おじさんは笑う。
「いいよ、あれ、やるよ」
紙袋のなかには少し大きめのやわらかい袋が入っていた。口の部分をきゅっと絞れるやつ。あけると、まるくてカタイ、平たいものが出てきた。
「あ……これ」
お皿だった。こないだショッピングモールに行ったときに見たうちのひとつだ。
透明なガラスに、大きなひまわりがドンと描いてあるやつ。きれいだし、カワイイし、インパクトがあるから、実はいちばん忘れられずにいたんだ。次に見に行ったときは迷わずこれを買おうって、ひそかに決めていたのだった。
「ねえ、あたしがこれスゴイ気になってたこと、わかってた?」
「べつに、たまたまだろ」
ウソだ。ぜんぜん興味なさそうにしてたくせに、こんなのってちょっとずるいよ、おじさんのくせに、ずるいよ。
「ありがとう、和志さん」
やっぱりこの男はあたしのことをいろいろ知ってるよ。よくわかってるし、見透かされてる。どうにも暴かれてる。
「でもまあ、皿はついでで」
そうつぶやいたおじさんは、どこか幼い、少年みたいな顔をしていた。よくわかんないけど、なんとなくそう思った。とにかくはじめて見る顔だったよ。一瞬しか見せてくれなかったけど。
「こっち来い」
言い終わる前にきびすを返して歩きだしたおじさんに、あたしも黙ってついていく。
おじさんは大きな棚の前で足を止めた。そこに置いてあるうち、大きめの布をひとつ手に取ると、ていねいにたたんであったそれをばさりと広げて、そのまま物干し竿に引っ掛けた。
――声って出ないものなんだね。ほんとに驚いたときってのは。
そして驚きはたちまち感動へと変わっていく。
目の前の世界をいろどっているのは、白地に紫と黄色のあじさいが大きく咲いている、とても美しい和服だった。和服――きれいな浴衣だ。
「……染めたの? 和志さんが?」
やっとの思いでのどが音を出す。うわずったような声になってしまう。
「そうだよ」
浴衣なんてほとんど着ることもなかったし、着るときはいつも既製品のものを買っていたから、とても信じられないよ。本当にこれをつくったの? この、目の前にいる男が? 信じられないよ!
ものすごく心が震えてるのがわかる。あたしいま、たぶん、人生でいちばんくらいに感動してる。
「ねえ、これ、あたしが着てもいいの?」
震える手で、そっとあじさいに触れた。素人にもいい布だってのがわかる。これ、ふつうに買ったらたぶんけっこうな値段になると思う。
「そりゃ祈のために染めたんだからな。これから祭りとか花火とか、いろいろあるだろ」
お祭りも、花火も、人混みだからあんまり好きじゃないんだけど、この浴衣を着られるならいくらでも行きたい気がした。
できればおじさんといっしょに。おじさんの隣でこの浴衣を着たいって、すごく、思ってる。
しばらく黙って浴衣の袖を握っていた。子どもみたいに右の手をグーにして、ぎゅっと。
「そんな強く握ってるとシワになんだろ」
あきれたような低い声が降ってくる。
「さて。もう遅いし、そろそろ帰るか」
「浴衣は持って帰らないの?」
「そんなもん置いとくとこねえよ」
たしかに、それもそうか。洋服みたいにくちゃっと小さくたたんでおけるわけでもないし、掛けて置いておくにもちょっと場所とっちゃうし。
でも、ほんとは肌身離さず持っておきたいくらいだよ。そうして好きなだけこのあじさいを眺めたい。
「ねえ、もう少し眺めててもいい?」
「なんだよ、それ」
遠慮がちに声を出したあたしを見下ろして、おじさんが軽く笑った。
「じゃ、外で一服してるから、好きなだけ眺めてろ」
ぐしゃり、乱暴に頭を撫でられる。またどきっとしてしまう。でもおじさんはそんなのおかまいなしって感じで、あっけなくきびすを返すと、そのまますぐにアトリエを出ていった。
隙あらば煙草吸うんだから、ほんとにヘビースモーカーだよ。いったい一日にどれくらい吸っているんだろう。
広い背中を見送ったあとで、また浴衣に目を向けた。
やっぱりきれい。きれいなんて形容詞じゃとうてい追いつかないくらい、視界のすべてを奪われてしまう。
おじさんは、自分の仕事を『遊んでるみたい』なんて言ったけど、とんでもないよ。
だってあたしはいまこんなにも心を動かされてる。おじさんはそういう仕事をしてるんだ。それも遊んでるみたいに。すごいことだ。
やっぱりおじさんはカッコイイ人間だって思った。
心臓がいつもの倍速で脈打っている感じがした。
そのとき、視界の端にふと白いものが映った。右側にある棚からひらひらと落ちてきたそれに、気付けば呼ばれるように歩み寄っていた。少しかがんで拾い上げる。
言葉を失った。さっき浴衣を目の当たりにしたときとは違う種類の衝撃のせい。
白いものの正体は写真だった。いまよりほんの少しだけ若く見えるおじさんと、ゴールデンレトリーバーが2匹、それからかわいらしい女性が仲良さげに写っている。
たぶん、わんちゃんはよもぎと、お母さんのさくらだと思う。さくらは7年前に亡くなったと言っていたから、少なくともそれより前の写真かな。ということはおじさん、20代前半とか?
それならきっと恋人くらいいても当たり前だ。
でも、どうしてこんなところ――アトリエに、置いてあるんだろう?
どうして一枚だけ置いてあるんだろう?
よく見れば写真はけっこう色褪せてしまっているし、かなりよれよれだ。
きっと何度も見ていたんだ。アルバムに入れないで持ち歩いたりしていたのかもしれない。
とても特別な写真なんだ、おじさんにとってこの女性は、特別に大切な存在なんだ……。
胃のあたりがきりきりした。
どういう関係だったんだろう。いま、この女性とはどういう関係なんだろう。連絡をとったり、会ったりしているのかな。
そういえば、おじさんに恋人がいるのかどうかなんて、いままで考えたこともなかった。
「――祈、ほんとにそろそろ帰るぞ」
はっとした。写真をポケットに突っ込んだのは条件反射だった。
振り返ると、おじさんがドアから半分だけ体を覗かせている状態でこっちを見ていた。
「なんだよ、浴衣、ほんとに持って帰りてえのか?」
おじさん、写真の女性にも、美しい浴衣を染めてあげたことがある?
いっしょにしゃぶしゃぶを食べたことがある?
乱暴に頭を撫でたことは?
泣いている彼女を優しく抱き寄せたことは?
このひとはいったい誰? おじさんにとってどんな存在なの?
「……ううん。浴衣は、置いてく」
浮かんだ疑問はなにひとつ言葉にならなかった。小さく首を横に振るしかできなかった。
どうして聞けないんだろう。写真拾ったんだけどって、ふつうに言ったらいいのに。
どうして、答えを聞くのが、こんなにもこわいんだろう。
「ねえ、浴衣着るの楽しみだよ。早く夏がきたらいいのになっ」
ポケットのなかに写真をしのばせたまま、なんでもない顔でおじさんのもとへ向かっているとき、嘘をついているようなうしろめたさみたいなものがどうしてもあった。
「俺は暑いのはカンベン」
おじさんが顔をしかめる。
「べつに、あたしだって暑いのは好きじゃないよ」
「ああ、おまえはなんかそんな感じするな」
今年が特別なだけだよ。それは、おじさんがくれた浴衣のせいなんだよ。
この男は、それくらい、あたしの心を揺さぶるチカラを持ってる。だって、同じことの繰り返し、あんなにつまんなくてしょうがなかった毎日が、こんなに鮮やかに色づき始めているんだ。
おじさんの手によって。言葉によって。
その、すべてで。
「誕生日おめでとう、祈。17歳だな」
興味なさそうな顔であたしの世界に踏みこんでくるこの男に、あたしの世界は少しずつ、それでも確実に、変えられていっているんだと思う。
◇◆ FRIDAY
あの写真は結局あたしが持ったままでいる。でもなんだか見たくなくて、あの夜、帰ってきてすぐに部屋の机の引き出しにしまいこんだまま、一度だって見ていない。それでも返す気にはどうしてもなれない。
盗んだ(というと語弊があるけど)ことがバレるのがこわいんじゃない。
おじさんに、おじさんの大切なひととの思い出を返すのが、無性に嫌なんだ。どうしてそう思うのかがわからないのがよけいに気持ち悪い。
おじさんは写真がなくなったことに気付いているだろうか。
もしかしたらいまごろ必死に探しているかもしれない。なくなったと思って、すごく悲しんでいるかもしれない。
人としてとてもサイテーなことをしているのはわかってる。
でも、返したくない。
どうしたって返したくない。
あたしはサイテーなやつだな。いったいなにしてるんだろう。
◇◆
朝からどしゃ降りだった。世界が白く沈んでいるように見えるほど激しい雨だった。
窓を閉めきっていてもすぐそこで鳴っているみたいな雨音を聞いているだけで、なんだか気分がずんと落ちていくようだよ。
よもぎも元気がなさそうだ。ここのところ毎日雨が続いているせいで、大好きな散歩になかなか行けてないからだね。
あたしも梅雨はほんとに嫌だ。髪は広がるし、洗濯物は乾かないし、肌にまとわりつくような湿気はぬるいし、頭が痛くなるし。いいことなんかひとつもない。
そういえば、少し前までは、こんなどしゃ降りでも、大雪の日だって、学校に行っていたんだっけね。
みんなはきょうもふつうに授業なのかって考えると、なんだか信じられない気持ちになった。学校なんてもうずっと遠い存在のように思える。それくらい、もう“こっち側”がなじんでる。
よもぎの背中を優しく撫でた。
「早く帰ってきてほしいね」
おじさんはあたしが起きてくる前に仕事に行ったらしい。昼過ぎころには帰ってくるかな。お腹すかせて帰ってくるだろうし、お昼ごはんの準備、そろそろしないとな。
スマホが鳴ったのはちょうどそのときだった。
サユからのLINEの通知以外はほとんど無い、さみしい連絡ツールなので、この無機質な音がなんなのか最初の10秒くらいわからなかったよ。よもぎも驚いたようにきょろきょろしていた。
知らない番号だった。出ようか迷ったけど、画面を見つめているうちになにかを訴えかけられているような気持ちになって、思わずミドリの通話ボタンをタップしていた。
「もしもし?」
薄っぺらい機械を耳に押し当てる。
「――もしもし。中澤ゆりさんの、ご家族の方ですか?」
「はい……娘です、けど」
誰?
「ああよかった。いますぐに来ていただきたいのですが」
それに続いた言葉を聞いて、倒れそうになった。