さみしがりやのホリデイ


おじさんは、手ぬぐいを広げてパンパンと伸ばすと、ふたつ並べて竿に干した。手ぬぐいじたいは同じ大きさ、同じ色なのに、模様が違うだけでこんなにも印象が違うんだな。おもしろいな。

おじさんのほうの、丸かったり四角かったり、白く残っているまだら模様は、輪ゴムで縛ってつける。こうして広げると万華鏡みたいだ。あたしのほうのはハートをたくさん散りばめたからこういうふうにはしなかった。


「あした完全に乾いてたら、家に持って帰ってやる」


だからもうそろそろ帰ろうかと、あたしに視線を移して、おじさんは言った。

壁にぶら下がっている、どうにも味気ない掛け時計に目をやると、すでに10時を過ぎていた。ここに来たのがたしか8時過ぎだったから、もう2時間近くたっている。

あっという間だった。

うん、あっという間だった。実にあっという間だったよ。

たぶん、すっごく、楽しかったんだ。


「また、来てもいい?」


口に出したのは無意識で、だから自分でもびっくりした。


「いつでもドーゾ」


おじさんはこっちを見ようともせず、興味なさげに答えた。

なんだ、もっと喜んでくれるかと思ったのに、つまんないの。

おじさんのアトリエは、市街地からは少し離れた場所にあるので、あたりは本当に真っ暗で。外に出た瞬間、目に飛びこんできたのは、黒い夜空に浮かんでいる満天の星たちだった。


「あしたは晴れだね」

「ぼけっと上見て口あけてるとな、星が落っこちてきてノド詰まるんだぞ?」


この男はワケのわからないことを言うのが趣味なの?

子ども扱いという次元を超えて、もはや幼稚園児扱いされてるような気分。あたし、もう17歳だよ。高校生だ。星が落っこちてくることなんてあるもんか。


どんなににらみをきかせてもおじさんはあたしになんか見向きもせず、駐車場に停めてある車に乗りこみ、黙ってエンジンをかける。

そしてすぐに思い出したように運転席を降りて、「一服していいか」と言った。

おじさんは勝手に煙草に火をつけた。まだいいともダメだとも言ってないよ。だったら最初から聞かなくていいよ。


なんとなくひとりで車に乗りこむ気にはなれなくて、おじさんの隣できょろきょろしていると、アトリエの入口が視界に入った。

『佐山和志』と書いてある。暗いし、遠いから見づらいけど、たしかにそう書いてある。

でも、表札とか、そういうちゃんとしたものではなかった。ドアの横に直接サインペンで名前を書いてあるだけだ。


ふと思い立って、隣で白い煙を吐いているおじさんを見上げる。


「ねえおじさん、サインペンかマーカーある?」

「アトリエの作業台の引き出しんなかにあると思う……けど、なんに使うんだよ?」

「オッケー、アトリエの鍵貸して」

「ああ?」


おじさんは怪訝そうな顔を浮かべたまま、それでも煙草を口にくわえて、ポケットをあさった。


「ほらよ」


大きな手から奪うように鍵を受け取って、あたしはアトリエに引き返した。

引き出しのなかはけっこう整理整頓されていた。さてはA型だな、と思ったけど、おじさんは占いとかそういうのにはてんで興味がなさそうなので、これは言わないでおこうって思った。いつか聞けたらいいけど。

いつかでいい。

ゆっくり時間を重ねて、おじさんのいろんなこと知っていけたらいいね。血液型とか、誕生日とか、身長と体重とか、そういう小さなプロフィールから、少しずつ、さりげなく。

だって、改まって訊ねるのって、なんかちょっと気恥ずかしい。


黒のサインペンはすぐに見つかった。外に出てドアに向き直ると、縦書きの『佐山和志』の右側に、同じ大きさで『中澤 祈』と書いた。木のデコボコのせいで不格好な文字になってしまった。


「おまえ、なにしてんだ?」


すぐうしろで声がした。低い声。落ち着いた声。渋い、おじさんの声。


「いいでしょう?」


べつに問題ないでしょ。いい感じでしょ。

いろんな意味の混ざった『いいでしょう』だった。

振り向くと、さっきよりも長くなっている煙草を口にくわえたおじさんが、あきれたようにあたしを見下ろしていた。さては煙草、2本目だな。


「ああ、本当におまえはゆりさんの娘だな。DNAまんま受け継いでんじゃねえの?」

「どういう意味?」

「好き放題、自分中心で世界がまわってる。って、イミ」


そんなこと、ないし。おかーさんはたしかにちょっとそんな感じだけど、でも、そんなことないよ。そんなことなかったよ。おかーさんはあたしという娘を中心に生きてくれていた。

少なくとも、1週間前までは、たぶん……。


「あーあ、これ油性ペンだな。かなり先まで消えねえな。アホだなあ」


そう言って笑ったおじさんの、ごつごつした指が、不格好なあたしの名前を撫でた。

優しい手つきだった。繊細な手つきだった。

思わず手を伸ばした。重なって、触れたその指先は、少し冷たかった。


はじかれたように顔を上げる。なにしてるんだろ、あたし、なんでいま、触っちゃったんだろ。

おじさんもあたしを見下ろしていた。心底驚いた顔だった。普段あまり開いていないたれ目をまんまるにさせている。


反射的に手を引っこめた。あまりにも勢いよく引っこめたもんだから、体ごとうしろに飛んでいくかと思った。


「……帰るか」


少しの間があいたあとで、ぽつりと、おじさんがこぼす。何事もなかったみたいな声、台詞だった。


「うん」


小さくうなずくと、彼はおもむろにポケットから携帯型の灰皿を取りだして、煙草の火を消した。ゆったりとした動作だった。


いいな。おじさんは、すごくいいね。声もしゃべり方も話す言葉も、動作も、一挙手一投足、いちいち余裕があって、目を引くね。

こんな大人も、こんな男も、こんな人間も、ほかにはいないような気がした。おじさんはきっと、ほかの誰とも違う生き物だ。

それはあたしにとって、果てしなく、知らない世界だ。







  ◇◆ WEDNESDAY






「――プレゼント」


おじさんの低い声があんまりにも似合わない横文字をこぼした。

びっくりして思わずその顔を見つめると、彼は面倒くさそうにあたしから視線を外して、そのかわりに右手をこっちに差しだした。


「記念にやる」


なんの記念だろうと思ったけど、おじさんの右手を見てなんとなくわかったよ。

ふたりでいっしょに染めた、優しいピンクの手ぬぐい。おじさんの右手には、おとといの夜に染めたばかりの薄い布きれが2枚おさまっていた。どうやらどちらもあたしにくれるらしい。


「……いいの?」


かすれた声で聞いた。おじさんは小さくうなずいた。

あたしが染めたハートの柄の手ぬぐいと、おじさんが染めたまだら模様の手ぬぐい。受け取ると、ぜんぜん軽いのに、なんだかずしっとくるような感じ。


ふと、まだら模様のほうの端っこに、『いのり』と小さく書いてあるのを見つけた。正確には、書いてあるわけではなくて、白抜きのそういう“模様”がつけてあった。

――おじさんだ。おじさんがあのとき、ボウセンノリで『いのり』って書いたんだ。はじめからあたしにくれるつもりだったのかな?

だからって、『いのり』ってわざわざ書いてくれてるの、かわいいよ。ひらがななのがまたかわいいよ。胸がきゅっとする。15歳も年上の男に、きゅっとさせられてる。


「アリガト」


ぶっきらぼうな言い方になってしまった。

だってちょっと恥ずかしかったんだ。どんな顔をすればいいのかわからないよ。

でも、ほんとにうれしかった。記念だって思った。この手ぬぐいは、あたしとおじさん、ふたりの記念。



◇◆


「うわっ」


あたしが声を上げるのと同時に、足元でガチャンというイヤな音がして、それはそのまま粉々に砕けた。大きなお皿だった。陶器の、重たい、ちょっとよさそうなやつ。


「なにしてんだよ」


その場でかたまったまま、ただぼうぜんと立ち尽くしているあたしに、おじさんがカウンターの向こう側から声をかける。よもぎも驚いたのか、やって来た。

はっとしてしゃがみこむ。早く片付けないと……。

ああ、ついにやっちゃったよ。どうしよう? もしすっごく高いお皿だったら、ほんとにシャレになんない。


「おい、触んな」


見事に粉々になってしまったベージュに手を伸ばしかけたとき、ぴしゃりと低い声が降ってきた。


「手ぇ切ったらどうすんだ。危ねえから、安易に触んな」

「でも……」

「いいからおとなしく風呂でも入ってこい。片付けはやっておくから」


さっきからずっと、怒ったような声。

ハイわかりましたと、自分だけ優雅にお風呂に入るなんて、できるわけないじゃん。落として割っちゃったのはあたしなんだ。

だから、すでにしゃがんでビニールの袋に破片を集めているおじさんのうしろに、ただ黙ってぽつんと立っていた。おじさんは半分くらい破片を集め終えたところで怪訝そうに振り返った。そしてぎょっとした。


「……なんでこんなことで泣くんだよ。ガキか」

「ごめんなさい……」


自分でも情けないほどに力のない声だと思ったよ。でもこれが精いっぱいだった。

申し訳ないとか、やっちまったとか、びっくりしたとか、いろんな気持ちが混ざって、のどの奥がぎゅうっと苦しくなって、うまく声が出なかったんだ。


「……ああ、そういや、ガキだったな、おまえ」


のそりと立ち上がったおじさんに、頭をぽすぽす撫でられる。

ガキなんだろうか。あたしは。ガキ、なんだろうか。

この男になにかと子ども扱いされるたび、もやもやする。いまだってもやもやしてる。居心地悪い、やってらんないって感じ。

でも、たしかにそうだね。ガキだね。あたしは自分でも嫌になるほどガキなんだって、たったいま思い知ったよ。こんなことで泣いちゃうなんてださすぎる。


「こんな安もんのひとつやふたつ、割れたところでどうってことねえよ。それよりメシ食ったあとでよかったな」


おじさんが小さな子どもをあやすみたいに言った。


「祈にケガがなくてよかった」


そう言われたとき、大きな手が乗っかっている頭のてっぺんが、突然ものすごい熱を持った気がした。あったかいっていうより、じゅっと焼けるみたいな感じ。熱い。


「新しい皿、買えばいいよ。今度買いに行こう。おまえの好きなやつ買おう。だから泣くな」


おじさんはいつもよりいくぶん優しい口調だし、言葉も慎重に選んでくれているみたい。たぶん気を遣ってくれているんだね。

そう思ったらもっと涙が出た。情けなくて、恥ずかしくて、でもそれだけじゃないような気がして。


「ごめんなさい……」

「大丈夫だからもう謝んな。あはは、こんなことで泣くのかよ、おまえ。おもしれえなあ」


おじさんは困ったような表情だった。

でも、いま、たしかに声を出して笑った。

びっくりした。おじさんがこんなふうに笑ったの、はじめてだ。優しい顔で笑うんだって思った。遠慮がちに息を吐くんだって思った。

「いつも笑ってればいいのに」


泣くのもすっかり忘れて、無意識のうちに、あたしはつぶやいていた。

とたん、おじさんの顔からスッと笑顔が消える。そして少し目を泳がせたあと、すぐに眉間に皺を寄せた。怪訝そうだ。不機嫌そうだ。もしかしたら照れているのかもしれない。

思わず、涙をぬぐったあと、たたみかけるように口を開いた。


「おじさんは、ほんとは優しいひとだよね」


『ほんとは』という言い方は、ちょっと間違っているかもしれない。


「不器用なんだね」


頭の上に乗っていたおじさんの手がふわっと外れたかと思ったら、オデコをはじかれた。デコピンだ。でもぜんぜん痛くない。


「おまえ、ナマイキ」

「図星なんだ?」

「さっきまでシクシク泣いてただろ」


それは一生の不覚。


「泣き虫のガキが」

「ナキムシでもクソガキでもない」

「クソは言ってねえだろ」

「聞こえた」

「そういうところがガキなんだ」


いいから風呂行けと、もう一度、痛くないデコピン。

どうにも胸がむずむずしてしょうがない。久しぶりに涙が出たからかもしれない。それを、おじさんに見られてしまったからかもしれない。


「ガキだからわがまま言うね?」


少し笑いながら言うと、おじさんは不機嫌なのを隠そうともしないであたしを見下ろした。


「お皿、あした買いに行きたいな」


泣き顔を見られたことは不覚だけど、なぜかぜんぜん、嫌じゃなかったよ。むしろその逆で、久しぶりに涙が出たのが、おじさんの傍でよかったって思う。


「なら、昼食ったあと出かけるか」


この男でよかった。いま、行き場のないわたしといっしょにいてくれるのが、不器用で優しい32歳で、よかった。


さみしがりやのホリデイ

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