銀色のシンクを水が流れていく音がする。時間がいつもの100倍くらいゆったり動いている気がする。
ぼうっとしたまま、しばらくその音に身を任せていると、いつの間にかおじさんが隣に立っていた。ずいっと顔を覗きこまれている。のどがヒュッと鳴った。心臓止まるかと思ったよ。
「起きてるか、祈」
起きてるよ。
小刻みに3回うなずくと、おじさんはちょっと笑った。おじさんはいちいちおかしなところで笑う男だ。
「よもぎの散歩、行くか。天気いいし。そんで帰ってきたら洗濯物干そう」
おじさんはどんな仕事をしているのかな。
まるで休日を過ごすみたいな一日のプランを聞いて、そんな疑問がぽんっと浮かんだ。
おじさんの職業、名前だけは知っている。染色作家だね。サユがソメイロって読み間違えたから印象に残っているんだ。
「じゃあ、そのあと夕食の買い出し付き合って」
食事をつくるのがあたしの仕事だというのは、ここにやって来たすぐ翌日に命じられたことだった。
よりにもよっていちばん苦手な分野だし、そりゃあもうものすごい勢いで断ったんだけど、おじさんは絶対に譲ろうとしてくれなかった。
そのかわり、ほかの家事はいっさいしなくてもいいって。食事さえ用意してくれたらあとは好きなように生活してくれてかまわないとまで言われたから、面倒になって承諾した。いちおうお世話になっている身だし。
おじさんは料理ができないんだろうか。ひとり暮らしなのに? どうやって生活してきたんだろ。でも、男の人って、そんなもんなのかな。そういえば、あたしもおかーさんも、少し前までは外食で済ませていたしな。
「なら、ちょっと大きめの業務用スーパー行くか」
「え! いいの」
「いいよ、時間あるし。顔洗って着替えてこい」
おじさんはシャワーを浴びるらしい。帰ってくるといつも彼はシャワーを浴びる。昼でも夜でも。
たしかに、帰宅したおじさんからはいつもなんだか独特なにおいがする。けっこう好きなんだけどな、このにおい。ほんのり鼻の奥をつんと刺すみたいな、嗅いだことのないにおい。