さみしがりやのホリデイ


「おまえといっしょにいたら、未来を見たいって思えるようになった。染めものを俺の誇りにしたいとか、この世界の第一人者になりたいとか、仕事に対していつの間にかそんなこと思うようになった。この歳になって夢ができた。

全部、祈のせいだ」


どうしてくれるんだ。と、おじさんはおどけたように言って、つながっていないほうの左手であたしの頭を撫でた。それからおだんごをつつかれた。


「俺も、がんばるから。祈もがんばれ」

「うん……」


あたしのほうこそありがとう、とか、いろいろ気の利いたことを言いたいのに、なんにも言葉になってくれなくて情けない。

これで最後なのに。あしたからはもう、当たり前に会うことなんかできなくなるのに。


「ああ、そうだ……。これ、おまえに預けとく」


おじさんがポケットのなかをゴソゴソ漁って、なにか小さいものをこっちに差し出した。


「アトリエ、俺が戻ってくるまで管理しといてほしい。よもぎもそうだけど、いろいろ預けちまって悪いな」


小さな鍵だった。こんな大切なものを受け取ってもいいのかとためらうあたしに、おじさんは笑って、ちょっと強引にそれを握らせる。


「おまえもあそこに名前書いたろ。だからもう半分、このアトリエはおまえのもんだよ」


そうだっけね。ドアのところ、おじさんの名前の隣に、『中澤 祈』とか書いちゃったんだっけね。なつかしいなあ。ほんの数か月前のことなのに、もう遠い昔のことみたいに思うよ。

「……そろそろ帰るか、ゆりさんが心配する」


とても低い声。落ち着いた、静かな声。あたしの好きなおじさんの声。

その声が、ヘンテコな毎日の終わりをいよいよ告げた。


つながっていた手がはずれる。おじさんがきびすを返した。そして静かに歩きだした。それでもあたしの足は動いてくれない。


「――ねえっ」


遠ざかる大きな背中に向かって声を出した。おじさんがゆったりとした動作でこっちを振り返る。


「神戸に行っても、あたしのこと、忘れないでね。一秒たりともだよっ」


おじさんはきょとんとして、それから眉を下げて笑った。


「逆プロポーズしてきた15歳も下の女、たぶん一瞬も頭から離れてくれねえよ」


奇遇だね。あたしも、そんな台詞をなんの気なしに言う15歳も上の男、たぶん一瞬も頭から離れてくれないと思ってる。一生。死ぬまで。きっとずっと、おじさんはあたしの特別なひとだよ。わかるんだ。


「ああ、そういや、ずっと言い忘れてたけど」


おじさんは思い出したように口を開いた。


「おまえのつくるメシ、いつもうまかったよ。料理向いてるんじゃねえの」


ずるいよ。いつもなんでもない顔で食べてたくせに。オイシイとか、一度だって言わなかったくせに。おじさんはずるい男だ。


「……ありがとう」

「俺のほうこそ、毎日メシつくってもらって感謝してるよ」


このアリガトウは、そういう意味じゃないんだけど。まあ、いいか。言わなくてもいいか。

いつの間にか白い煙は消えていて、頭上は満天の星空に変わっていた。おじさんの水色の車に乗って、うちに帰るまでのあいだ、窓から夜空をずっと眺めた。涙は出なかった。
























.



「いーちゃんのお弁当はほんっとにかわいいなあ!」


ずいっと横から顔をだしたサユが声を上げた。

屋上へと続く階段、ここでサユとお昼を食べることは、入学時からずっと日課だ。なぜかたまにここに三宅がくわわったりもする。


「いーちゃんがお弁当持ってくるようになるなんてなあ。前は毎日購買ダッシュだったのにね」

「でもたまに購買のコロッケパンも食べたくなるよ」


一日10個限定のコロッケパン。あれが大好物で、そういえば4時間目のチャイムと同時にダッシュしていたな。運動は得意じゃないあたしが機敏になる唯一の瞬間だった。


「じゃあ、購買行く日は言っといてね。いーちゃんのお弁当はわたしが食べるから」

「なにそれ。結局あたし毎日お弁当つくらないといけないじゃん」

「だっていーちゃんのお弁当おいしいんだもん」


言いながら、サユがあたしの弁当箱を箸でつついた。そしてメインのミニハンバーグをひょいっとカワイイ口に放りこむ。信じられない。ふたつしかないのに!


「あーおいしい!」


……まあ、いっか。そんなに幸せそうな顔をしてくれるなら。

やっぱりゴハンをつくることの意義って、ここにあると思う。誰かが喜んでくれる。全部食べてくれる。それが最高にうれしいよ。ひとりでゴハンを食べていたころは知らなかったこと。


だからあたしはいま、おかーさんにも毎日お弁当をつくっている。おかーさんは毎日完食して帰ってきてくれる。うどん屋さんに行く日は言ってほしいと伝えてあるけど、祈のつくるベントーにはなににも敵わないって頭を撫でられると、いつもそれ以上はなにも言えなくなる。

おかーさんとは仲良しだよ。いままでもきっと仲良しだったけど、それ以上に、違ったふうに。

同時に、喧嘩をすることも増えて。喧嘩といってもささいな言い合いなんだけど、言いたいこと言って、言いたいこと言われる。そういうのをすごくうれしいって思うんだ。おかしいけど、やっと本当の母娘になれた気がするから。

「あーあ。5時間目、体育だ。やだなあ」


からっぽになった弁当箱を片付けながらうなだれると、サユは信じられないって顔をこっちに向けた。


「なんで! バレー楽しいじゃん」

「サユみたいに運動神経がいい子はね、なにしても楽しいんだよ。あたしは逆なの。しかも6時間目の最初に英単テストだよ、サイアク」


自分で言っていて嫌になった。きょうの英単、そういえば覚えきれていないんだったよ。きのうは寝落ちしちゃって、朝の電車では居眠りしていたから。


「いーちゃん、やっぱり学校楽しくない?」


遠慮がちにサユが訊ねてくる。あたしは大きくかぶりを振った。


「楽しくないよ。ぜんっぜん楽しくない。1学期となんにも変わんない。眠いしダルいしつまんないよ」


でも、と続けた。


「前とは違うなって、なんとなく感じる」


よくわからないけど。でも、学校じゃなくて、自分が変わったんだろうなってことはわかる。

生まれ変わった気分。いま学校に通っている自分は、前の自分とは違うような……。難しいな、うまく言えない。


「たぶん、夢ができたってのは大きいかも」


なんでもなく言うと、サユが飛び上がって声を上げた。


「夢? うそ! なになに、教えて」

「やだよ。叶えたら言う。叶わなかったら、死ぬ間際に言う」

「なにそれえ」


スカートをパンと払って立ち上がると、サユも同じように立ち上がった。無邪気にじゃれついてくる幼なじみは世界でいちばんかわいいと思うけど、さすがにこの季節は暑いな。


「ねえ、じゃあこれだけ教えて。いーちゃんは佐山さんのことが好きなの?」


もう何十回……もしかしたら何百回と聞かれていること。そろそろ耳にタコができそうだよ。


「うーん。まあ、それも、叶えたらね」

「結局それって好きってこと? ねえってばあ」


追いかけっこをするように、いっきに1階まで階段を駆け下りた。4フロアぶんだからさすがに疲れた。途中ですれ違った米田に、「廊下は走んなよ」と苦笑いで言われた。





帰宅すると、いつもよもぎは勢いよくじゃれついてくる。かわいいやつだ。ただいまあ、と言うと、おかえりい、と答えてくれるように彼女はしっぽをブンブン振った。


「きょうもよくお留守番できたね、クッキー食べよっか」


タッパーに常備しているわんちゃん用のクッキーを見せると、よもぎはうれしそうに2周まわったあと、すぐにおすわりをした。きょうもしっぽだけありえないくらいに振り回している。やっぱりこの姿は何度見ても笑えるよ。


「よしよし。祈も着替えるね」


クッキーをひとつよもぎにあげてすぐ、制服をソファに脱ぎ捨てた。この瞬間が最高に幸せ。制服って動きにくくて窮屈だから嫌いなんだ。

ハンガーにかかっているジャージに着替えた。髪を青いシュシュでひとつにまとめる。そんでエプロンを装着したら、すぐに夕食の準備に取りかかって……。


突然、インターホンが鳴った。ちょうどエプロンのリボンを結んでいる最中だった。

誰だろうね、待っててね、とよもぎに言い残して玄関に向かう。

いつもどきどきする。インターホンを鳴らしたのはもしかしたらおじさんなんじゃないかって、毎回ヘンな期待をしてしまう。きょうだって、もしかしたら、もしかしたらって。



「――こんにちはー、お届け物です!」


でも、ドアの向こうでニコニコ笑っていたのは、やっぱり宅配便のお兄さんだった。いつもさわやか、元気だなあ。


「ここにサインお願いします」

「はぁい」

「あっ、兵庫県の佐山さんからのお荷物です!」


『中澤』の『中』を書いている途中で手が止まった。

顔を上げる。目が合って、お兄さんが笑顔のまま首をかしげる。はっとしてあわててサインを済ませる。

「ありがとうございましたー」と言って去っていくお兄さんを、いつもはていねいに見送るけど、きょうはそれどころじゃないよ。

なんだろう、おじさんからの荷物、いったいなんだろう。

そんなに大きいダンボールじゃなかった。持ってみてもすごく軽い。それでもやっぱり、伝票の差出人の欄には『佐山和志』と書かれていて、それだけで抱えるのがいっぱいいっぱいだ。

テーブルの上にダンボールを置いた。ああ、手が震えている。震えた手のまま、カッターナイフをガムテープの上にすべらせる。箱は拍子抜けするほど簡単に開いた。


わりかしフツウの中身だった。軽さのわりにいろいろ入っていた。

牛のしぐれ煮、フィナンシェ、わんちゃんのおもちゃ、それから手ぬぐい。手ぬぐいはおじさんが染めたものかな。きれいな濃紺だ。

それから手紙もいっしょに入っていた。

『中澤 祈 様』

真っ白の細長い封筒に、神経質な字でそう書いてあった。おじさんの字ってきれいなんだね。知らなかったな。


『中澤 祈 様

元気でやっていますか。ゆりさんやよもぎも元気ですか。俺のほうは禁煙以外はまあまあ順調です。神戸の海は思っていたよりも綺麗で驚きました。なかなか過ごしやすい場所だよ。

岡本先生の知り合いの先生、少々厳しい人です。そんな人に、こないだやっと認めてもらえるような染めものができたので、その手ぬぐいを送ります。まだまだこんな手ぬぐいを染めるので手一杯で、なかなかどうして、職人の世界は一筋縄ではいきません。今更だけど、そういう困難に直面したりもしているよ。

祈、学校生活はどうですか。2学期はもう始まっているね。ちゃんと通えていますか。

いくつか神戸の土産物を一緒に入れておいたので、ゆりさんと食べてください。ただし、よもぎのオモチャは食い物じゃねえぞ。

佐山 和志』


「ぶふっ」


どうして最後だけ言葉遣いが違うんだよ? 思わず笑っちゃったじゃん。

不思議そうにあたしを見上げているよもぎにかわいいカエルのおもちゃをあげると、ものすごく気に入ったようで、早速遊び始めていた。

さすが、おじさんはよもぎの好みをよく知っている。それともよもぎにはわかるのかもしれない、これがおじさんからのプレゼントだってこと。


ああ、でも、そうか。おじさんもがんばっているんだなあ。

おじさんは、どんな顔でこの手紙を書いてくれたのかなあ。

あわてて自室に行き、机のなかを引っかきまわした。たしかかわいいレターセットがあったはず……。

本当はメールで返事をしてもいいけど、せっかくだから手紙を書きたいって思ったんだ。


やがて、うんと奥のほうからレターセットが出てきた。2年くらい前に買った、青い車の絵がついたやつ。なんとなくおじさんの車に似ている気がする。これで返事を出そう。


『和志さんへ

お手紙ありがとう。びっくりしたけどうれしかったです。お母さんもよもぎも元気です。私も元気です。学校にも行ってるよ――』


そこで手が止まった。

ああ、なにを書こうかな? 書きたいこと、伝えたいことはたくさんあるけど、文字に起こすのってけっこうむずかしいね。


『学校にも行ってるよ。ちゃんと毎日。やっぱり学校は好きじゃないけど、前よりは好きになれた気がします。

夢みたいなものもできました。まだ誰にも言ってないけど、フードコーディネーターという仕事を最近知って、いいなって思ったんだ。ほんの少し前まではカレーすらろくにつくれなかったのに、人生ってなにがあるかわからないね。』


「あとは……なんだろ」


おじさん、ありがとう。

世界を変えてくれて。
あたしという人間を、変えてくれて。

たった一色で塗りつぶされていた、つまらないあたしの世界を、いろんな色で染めあげてくれて、ありがとう。


そんなことは恥ずかしくてとても書けないな。また今度会ったときに言おう。今度……いつか、もう少し大人になったら。

いつかっていつだろうって、ふと思った。

あたしはいつ大人になるんだろう? 大人って、なんだろう? どうしたらなれるんだろう?

きっと“大人”になっているであろう遠い未来に思いを馳せた。でもぜんぜんリアルに感じられなくて、すぐにやめた。

いいんだ。一瞬一瞬を一生懸命に感じていたら、それが積み重なって、きっとすぐに『いつか』がやってくるから。


そうやって、あたしたちは、いまを生きていく。

不満があっても、苦しくても、痛くても。ただ淡々と、いまを生きていくしかない。

それでも、いつだって大好きな誰かと、大嫌いな誰かといっしょに、生きているんだね。
支えて、支えられて。叱って、叱られて。愛して、愛されて。

コッチもアッチもほんとはないよ。そういうのはいつだって自分が生み出している足かせだってこと、わかったんだ。


世界は変わる。ほんの少しのことで、簡単に変えてゆける。

本当だよ。

だって、あんなに退屈だった世界が、きょうもこんなにいとおしかった。

空はよく晴れていたし、体育のバレーでは試合に勝てたし、英単のテストで満点をとれた。サユがハンバーグをおいしいって言ってくれた。帰りの電車はのんびり座ることができた。よもぎがきょうもかわいかった。

ほんのささいなこと。それでも全部、とても、いとおしいこと。


愛していこう。
愛せなくても、愛していこう。

このつまらない世界を、自分の手で、あなたの手で、愛せる色に染めあげよう。

そうして、こんな世界で、大切な誰かが心穏やかに生きていてくれたら。
おじさんが、遠い空の下で幸せに生きていてくれたら、これ以上に勇気をもらえることはない。

そんなふうに、思うよ。


『和志さん、早く会いたいです。話したいことがたくさんあります。』


だから、あたしはきょうも生きていく。

さみしい32歳がくれた、この色鮮やかな世界で。いとおしいものを胸いっぱいに詰めこんで、自分の色を載せながら、精いっぱい生きていく。





【さみしがりやのホリデイ】END

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